第18話 喜んでるんじゃないかな
相変わらず沈んだ雰囲気の職場をそそくさと出て、一番安いブレンドコーヒーを飲みながら、窓際の二人がけの席でスマホを弄ぶ。もう何日、
「待たせてごめんなさい」
やけにしおらしい台詞とともに、美蘭が現れた。今日はパーカーとジーンズ、頭にはキャスケットという格好だ。
「学校は?サボったのか」
「自主的に休み。色々と忙しくって」と言いながら、彼女は腰を下ろすとキャスケットを脱ぎ、「別に遊んでるわけじゃないのよ。こんど鎖鎌の昇段試験があるから、その練習」と付け加えた。
「く、鎖鎌?あの、忍者とかが使ってる奴?」
「そう。まあ、実際に使う機会なんて少ないと思うけど」
美蘭は事もなげにそう言うと、運ばれてきたホットチョコレートを飲んだ。白い頬にほんのりと赤みがさす。
「他にも色々習ってるわけ?その、手裏剣とかさ」
「言っとくけど私、忍者じゃないから」
「いや、それは判ってるけど」
変な話ふってきたのはそっちだろ、と思いながら、俺はスマホをポケットに入れる。美蘭は両手でカップを包みこむようにして、ホットチョコレートをまた少し飲むと、「さっさと本題に入りましょうか」と言った。
全く、どちらも
「聞いたわ」
「まあそういう事なんだけど、質問とか、あるかな」
「特にないわ。今のところ」
なんだか肩透かし食らったような、そっけない答え。美蘭は視線を手元のカップに落としたまま、「そんなに気に病むほどの事でもないじゃない、なんて思ったりもしたけど、そこは見解の相違よね」と言った。
「俺ってけっこう小心者だから。で、君の答えは?モデルやってくれる気はある?」
「それなんだけど」と、彼女にしては随分と歯切れの悪い口調で、美蘭は言葉を続けた。
「私としては、おじさまが質問に答えてくれたし、引き受けるのが筋だと思ったの。でも、桜丸が、どうしても止めてほしいとかって言うのよね。私の勝手だし、関係ないじゃない、って普通にそう言ったら、なんか黙っちゃってさ、よく見たら泣いてんの。頭おかしくなったのかも」
彼女は何か、怪奇現象について報告するような、自分の見たものが信じられないとでも言いたげな顔つきだ。
「美蘭、そういうの、世間じゃ何て言うか知ってるか?」
「何のことよ」
「君の言ってることだよ。それは立派なノロケ話だ」
俺がそう言った途端、美蘭は全面否定の勢いで「はあ?」とやり返してきた。
「だから、ノロケ話。誰が聞いたってそう思うぞ。私がモデルやろうとしたらさあ、彼氏が絶対駄目とかって、拗ねちゃってぇ、もう愛され過ぎて困っちゃう、って奴だ」
「私はそんな馬鹿女みたいな話はしてないから。大体さ、モデルやって脱いだぐらいで、何が減るもんでなし、ぐだぐだ言うなって話よ」
「いや、本当に減るんだ」
「減る?何が?」
「多分、だけど、桜丸の中の
「あはは、抽象的すぎる」
美蘭は俺の言葉を笑い飛ばそうとしたけれど、その声にはいくらか硬さがあった。
「男ってロマンチストだし、ものすごく繊細だからな。女には判らないよ、そういう気持ち。特に君みたいに図太いタイプには。君がもし、この先もモデルで稼ごうとか、これを何かの転機にしようとか思ってる女の子なら、そんな男は放っておけと言うところだけど、今回はそういうわけじゃない。俺はむしろ、桜丸サイドだ」
「何よそれ。桜丸の考えが理解できるってこと?じゃあ聞くけど、あの人、クリスマスに長野で一緒に星見ようって言ったんだけど、どうしてそれに
「知るかそんな事。弟が邪魔なら、二人っきりで行きたいって、素直に言えばすむ話だろ」
「だからそういう話とは違うっていうの!」
美蘭は意味不明な方向にブチ切れていたけれど、冗談抜きで桜丸の気持ちを量りかねているらしかった。ふだんあれだけ大人ぶって判ったような口をきいてるくせに、肝心なところが致命的に鈍い。
彼女は自分を落ち着かせようとするかのように背筋を伸ばし、ホットチョコレートをゆっくりと飲んでから、「とにかく」と言った。
「なんかケチがついちゃったから、この話、なかった事にしたいの」
「なかった事?」
つまり、俺からネタだけ引っ張り出しておいて、白紙に戻そうというわけか。馬鹿にするにも程がある。何か言い返してやろうと息を吸い込んだところへ、彼女が言葉を続けた。
「だからさ、モデルの話だけじゃなくて、おじさまの借金もチャラにしてあげるわ」
「ほ、本気で言ってる?」
「冗談だと思うなら、今すぐ借金返して。本当の事を言えば、家賃ぐらい払ってほしいんだけど」
「いや、まあ、家賃ぐらいは」と、もごもご言いながら、俺は頭の中で美蘭から請求されていた借金の額を計算していた。猫の斡旋料がらみのリベート十五万円、前にこのカフェで踏み倒したコーヒー代、その後押し付けられた寿司の出前と…
美蘭はいつの間にか、お得意の冷たい表情に戻ってこちらを観察していたけれど、ふいに「あのさ、その、死んじゃった先輩って人だけど」と言った。
「
「別におじさまの事、悪く思ってないわよ、きっと」
「何だよいきなり。気休めなんか言ってくれなくていいよ」
「気休めってわけじゃないわ。その気があれば、イタコ紹介するけどね。けっこう当たるって評判だし。それで、貝塚さん呼び出してみたらさ、喜んでるんじゃないかな。俺の彫刻、憶えててくれたんだあ、なんて言うと思う。だってさ…」
美蘭はまっすぐ俺の目を見たまま、尚も続けようとした。
「悪いけど、それ以上言わないでくれる?」
思いがけない言葉をかけられ、俺は不覚にも泣いてしまいそうだった。美蘭は気づかないふりして口をつぐむと、目を伏せてカップを手にしたけれど、電話が入ったらしくて、「失礼」と、ポケットからスマホを取り出した。
「どうしたの?いないって、ちゃんと探した?屋根裏とかもよ。ソファの下とか」
電話の相手は桜丸らしい。
「私の部屋は見た?そんなのいいから、ベッドの中までちゃんと探して。あと、亜蘭のゴミ部屋もね。今からすぐ戻るわ」
電話を切ると、美蘭は「じゃあ、ま、そういう事で決まりね」と立ち上がった。
「いやあの、これから帰るの?」
「そうよ。桜丸が
「だったら俺も一緒に帰るよ。探す人間は多い方がいいだろ?」
あの婆さん猫は底意地の悪いところがあるから、たぶん嫌がらせで隠れているのだ。美蘭はうさんくさそうに「交通費浮かせたいだけじゃないの?」と言ったけれど、俺がタクシーに便乗するのを拒みはしなかった。
「家の中ぜんぶ、一通り探してみたんだけど、いないんだ」
桜丸は困り果てた顔つきで、醒ヶ井邸に戻った俺たちを出迎えた。美蘭は「ご機嫌斜めかな」と、肩をすくめてから、正真正銘の猫撫で声で小梅の名を連呼しながら、家の中を探し始めた。俺はとりあえず、自分が小梅を呼ぶのは逆効果かな、と思いながら、声はあげずに家具の下だとか、カーテンの陰をのぞいて回る。しかし猫の姿はどこにも見当たらなかった。
にわか作りの捜索本部は醒ヶ井邸の居間で、早々に作業を諦めた俺は一人、窓際に立ったままで美蘭と桜丸が戻るのを待った。本来なら小梅は、ヒーターをつけてあるこの部屋で、ソファに置かれたひざ掛けの辺りに鎮座しているはずだった。雲隠れの理由は餌に飽きたか、留守番に怒ったか、他のわがままか。
「本当に、どこ行っちゃったんだろう」
収穫もなく家探しを終えた美蘭と、庭に出ていた桜丸が相次いで居間に戻った頃、亜蘭も帰ってきた。どうやら美蘭が呼び戻したらしくて、「どこほっつき歩いてたのよ、この役立たず」と、いきなり悪態でお出迎えだ。彼は姉の文句を軽く受け流すと、「アトリエの辺りにいるみたいだよ」と言った。小梅の居場所らしい。
「でも、あそこは全部探したわよ。ピアノの中も開けてみたし」
「アトリエ辺りの、なんか暗い場所」
亜蘭はそれだけ言うと、居間を出ていった。アトリエに向かうらしい。すぐに美蘭と桜丸が後に続き、俺もとりあえずついて行く。小梅を探すために、家中の明かりは点けたままで、アトリエも例外ではない。だから亜蘭の言う「なんか暗い場所」じたい存在しないのだけれど、大体どうして外から戻ったばかりの彼に、小梅の居場所が判るのだろう。
亜蘭は夢遊病者みたいな、ふわふわとした足取りでアトリエに入ると、まっすぐオーディオセットの方に向かった。そしてその向こう、
美蘭は慌てて駆け寄ると、床に頭をつけて中を覗くなり「いた!」と叫んだ。中は真っ暗なはずなのに、よく見えるものだ。彼女は「小梅?そんなとこで何してるの、出ておいで」声をかけたけれど、反応はないようだ。俺はつい「猫ってさ、自分で死期を悟ると身を隠すって言うけど」と口走ってしまった。
美蘭は無言でこちらを睨み、亜蘭は「寝てるっていうか、すごく疲れてるみたいだけど」と言ってから、「やってみる?」と提案した。一体どういう意味だろう。それを美蘭は厳しい声で「駄目」と却下する。
「あんたが引っ張られるとまずい。離れて」
美蘭は再び床に腹ばいになると、その細い腕を壁板の隙間に突っ込んだ。リーチは亜蘭や桜丸の方が長いだろうけれど、男の腕では入らない狭さだ。しかし彼女はすぐに腕を引っ込めると、「ぎりぎり触れはするんだけど、なんか体温が低い」と唸った。
「ったく、なんでこんなとこに穴なんかあるのよ。この棚の裏って、元は物置でしょ?ちゃんと塞いどけっての」
俺は内心、やっぱりこれは小梅のご臨終だよな、と確信した。もう二十年も生きた猫だし、大往生の準備に入っているに違いない。しかし美蘭はまた隙間を覗き込んで「小梅!しっかりして!そんな寒いとこにいちゃ駄目よ。今すぐ出してあげるからね」と叫んでから、亜蘭に「工具箱取って来い」と命じた。
一体どうしてこの双子は高校生のくせに車なんぞ乗り回しているのか、おまけにやたらと中味の充実した工具箱まで積み込んでいて、どう考えても学校サボってよからぬ作業に精出しているとしか思えない。
美蘭は亜蘭が運んできた工具箱をひったくるようにして開けると、バールを取り出して壁の隙間に突っ込み、体重をかけて壁板を割ろうとした。
「ちょっと、美蘭、それまずいんじゃない?」
見かねた桜丸が慌てて止めに入っても、彼女は意に介さない。
「壊しちゃったら、修理代とか請求されるかもしれないよ」
「だから何よ、こんな家バラバラにぶっ壊してやる」と、更に力をこめると、木の割れる鈍い音が響いたけれど、どうやら裂け目が入っただけらしくて、隙間は広がらない。桜丸は美蘭の腕に手をかけて「どうしてもやるなら、鋸を使う方がいい。時間はかかるけど」と言った。彼はそして工具箱から折りたたみの細い鋸を取り出すと、ためらいもせずに分厚い壁板を切り始めた。
美蘭は何も言わずにいったんアトリエを出て行ったけれど、すぐにドライヤーと延長コードを片手に戻ってきた。そして彼女が延長コードのプラグを放り投げると、亜蘭がそれをコンセントにつなぎ、ドライヤーからは小梅の居場所に向かって温風が送り込まれる。俺はといえば、このにわかレスキュー隊の傍で傍観を続ける、ただの役立たずというところ。
「ちょっとうるさいけど我慢してね」と声をかけながら、美蘭は床に這いつくばってドライヤーを握り続けている。その間に亜蘭は居間にあった膝掛を持ってきて、桜丸は工具を糸鋸に持ち替えていた。たかだか猫一匹、しかも超高齢でいつお迎えがきてもおかしくない婆さん猫にこの騒ぎ。俺は心底呆れていたはずなのに、それと同時に妙な切なさを感じていた。この三人が、まるで小さな子供みたいに思えてきたのだ。
「あと少しだ」
糸鋸を引いている桜丸が声をかけると、美蘭は亜蘭に向かって「車!」と叫ぶ。
「よし、切れた」という声を合図に、美蘭はドライヤーを置いて壁の穴へ頭を突っ込み、ぐったりと動かない小梅を引っ張り出して膝掛の中に包み込んだ。そして桜丸に「あんたが抱いて!体温高いから」と引き渡すと、すぐさま玄関へと向かった。慌てて俺も後を追うと、門の外にはもう亜蘭が車で待機している。美蘭は助手席に飛び込み、桜丸は後ろだ。
「ちょっと、どこ行くんだよ」
美蘭の「獣医さん!後片付けお願いね」という返事だけを残して、黒のGT-Rは急発進していった。
別にこれ、自分がやる必要ないんだけど、と何度も思いながら、俺は美蘭たちがアトリエに放り出していったバールや鋸を工具箱に戻し、散らかった木屑を掃除した。壁の大穴と切り取られた木片はどうしようもないので、その場に残しておくけれど、醒ヶ井鬼怒子の管財人がこれを知ったらどうするだろう。
美蘭たちが猫の世話を任されているのはあくまで、鬼怒子の遺言を履行するためであって、超高齢猫の寿命と屋敷の価値を天秤にかけたら答えは明らか、賠償を請求されたら半端な額では収まらないはずだ。
子供なんだよな、結局。
金の亡者かと思えば、変なところで損得勘定が破綻している。俺はここしばらくの、美蘭に振り回された日々を思い返しながら、アトリエの明かりを消してドアを閉めた。よく考えたら夕食もまだだけれど、ちょっと今夜は外に出る気がしない。たしかまだカップラーメンの買い置きがあったはずだと思いながら、俺は美蘭たちの帰りを待つことにした。
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