第17話 五年A組

「じゃあな、シャーク、ちゃんと帰ってくるんだぞ。約束したんだからな」

 剛太剛太は念を押すようにそう言うと、首輪にぶら下げた鍵を軽く引っ張った。これは無事に戻れるようにとのおまじない。僕とシャークは大丈夫、と右の前足を上げ、彼に別れを告げてマンションのエントランスを出ると、傍の植え込みに潜り込む。後はここでしばらく、美蘭みらんが来るまで待機だ。

 時間は朝の七時半。植え込みから歩道の様子をうかがうと、通勤や通学に出かける住人が数分おきに通ってゆく。剛太はといえば、一人で小学校へと向かったはずだ。

 この前、久しぶりの登校で彼がまた同級生にいじめられた話は、もちろん春菜はるなに伝わっていた。だから剛太がもう一度学校に行くと言い出した時には、彼女も半信半疑だったらしい。

「ママったらさ、剛くん、無理してるんじゃないの?ママは剛くんにどうしても学校行ってほしいなんて、全然思ってないんだからね、なんて言うんだ」

 昨日の夜、剛太は僕とシャークにそんな打ち明け話をした。

「でも僕はやるよ。シャークが言った通りにする。学校に行くのは来週とかでもいいんじゃない?って言われたけど、ママは明日、お友達と歌舞伎を見に行くって前から決まってたし、わざわざ着物も買ったし、絶対キャンセルしないよ。だから、やるなら明日しかない。それで、もう二度と学校なんか行かないんだ」

 まあ、そんな感じでいいんじゃないかな。あとは公立に転校した形にして、適当に過ごしとけば、中学までは卒業したって扱いになるだろうし。その先はまあ、うまく学校を選べば大卒の肩書も手に入るだろうから。

 植え込みで蹲ったまま、僕とシャークは大あくびをした。剛太が張り切って朝ごはんのカリカリを大量にくれたもんだから、何だか眠くなってきたのだ。まあ、美蘭が来るのはもっと後だし、しばらく休ませておくとするか。


 そして僕はシャークとの接触を切ると、ベッドから起き上がった。シャークの影響で満腹だという気もするけど、実際にはまだ何も食べてない、というか、ただの寝起き。顔を洗って、とりあえず学校の制服を着て階下のキッチンに行くと、小梅こうめが朝ごはんを食べている最中だった。

「餌やり代わるの、今朝だけだからね」

 隅のテーブルでシリアルを食べている美蘭は、恩着せがましい台詞を吐くと立ち上がり、サーバーのコーヒーをマグカップに注いだ。もちろん僕の分なんか淹れてるはずもない。

「あんたさあ、なんで制服なんか着てんのよ」

「なんでって、なんで?」

「違和感ありありなんだよ」

 そういう彼女はグレーのパーカーにジーンズという格好で、要するにそういう服装が今日の活動にはふさわしいらしい。

「ったく、TPOも判んないんだから」という嫌味を背に受けて、僕も似たような服に着替えて戻ると、美蘭は既に車のキーを片手に出かけようとしていた。

「朝ごはん食べたいんだけど」

「知らないわよそんなの。小梅の食べ残しでももらえば?」

 冷たく言い放つと、美蘭は屈みこんで、髭の手入れをしていた小梅を抱き上げた。ボウルにはまだ半分近く餌が残ってる。

「これも飽きちゃった?いい子でお留守番してたら、夜は小梅スペシャルとってあげようか。居間のヒーターはつけとくから、寒かったらソファの上の、膝掛けの中にいてね。夕方になったら桜丸が来るからね」

 言われなくても、猫なんて家で一番居心地のいい場所を占領するに決まってるのに。美蘭の奴、小梅を甘やかし過ぎだ。僕はその隙に大急ぎでシリアルを掻き込むと、水で流し込んだ。養鶏場の鶏でも、もう少しましな食事をしてるんじゃないかって感じで。


 今日の運転手は美蘭だけど、それはつまり僕が猫専従だから。冷静に考えると、高校の制服で、朝っぱらから黒のGT-Rを乗り回してるのは、かなり違和感がある。着替えたのは正解だったと納得した。美蘭はキャスケットを目深にかぶり、あまり顔を見られないようにしている。

 剛太の住むマンション、前に来た時は週末だったけど、今回は平日で、しかも道が混んでいたので、けっこう時間がかかった。美蘭は「庶民のくせに、お前ら車で出勤かよ」とか、悪態をつきながら運転してるけど、まあそこはお互いさまってレベルだろう。

 そろそろ目的地に近づいてきたあたりで、助手席の僕は再びシャークに接触した。猫はさっきと同じ場所でうとうと眠っていたけれど、僕に起こされると大きく伸びをして、植え込みの下から顔だけ覗かせた。周囲に誰もいないのを確かめ、マンション前のアプローチを駆け抜ける。ちょうど車道に出たところで、美蘭の運転する車が視界に入った。

 車は速度を落としながら近づいてくると、後部座席のウィンドウを下げる。僕とシャークは少し助走をつけてジャンプすると、中に転がり込んだ。後ろ足が少し引っかかったけれど、どうにか着地。美蘭はすぐに速度を上げると、次の目的地に向かった。


 目標時間は十時半で、その五分前に美蘭は剛太の学校の斜め向かいにある、郵便局の駐車場に車を停めた。

「それじゃ、後はよろしく」

 僕とシャークは、彼女の腕にぶら下げられ、半ば放り投げるようにしてドアの隙間から外に出された。着地と同時に走り出し、学校沿いの歩道に向かって車道を渡る。学校の敷地はさして広くもないけれど、まるで刑務所みたいに高い塀で囲まれていて、唯一の突破口は門扉の下の隙間だ。用心のため、僕とシャークは守衛のいる表門を避けて裏門にまわった。

 灰色に塗られれた鉄の扉には、「ご用の方は表門へお回り下さい」というプレートがかけられ、堅く施錠されているけど、まあ猫には関係ない。門柱から見下ろしている防犯カメラも意味のない事で、僕らは扉の下をすり抜けて学校の敷地に入り込んだ。

 目の前には倉庫と思しき小さな建物。秋植えの球根をまいたばかりらしい、殺風景な花壇を横目に急ぎ足で進んでゆくと、ようやく校舎にたどり着く。壁際に回り込んで窓の下を通り、ちょうど体育の授業を終えて戻ってきた生徒たちの後に続く。スライド式の重いドアが閉まる寸前に校舎の中へ滑り込むと、そのまま誰もいない階段を駆け上がる。

 二階に上がり、右に折れて一番奥の教室。五年A組のプレートを確認して、僕とシャークは廊下に置かれた消火器の陰に身を潜めた。ちょうどそのタイミングで十時半、二限目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 まるで地震の前触れみたいに、机や椅子を動かすガタゴトという音が響き、それから全ての教室の引き戸が一斉に開いて、子供たちが声をあげながら飛び出してくる。全くの混沌。子供って、なんでこんなに無駄にうるさくて、無駄に暴れまわるんだろう。僕はシャークの軽い恐怖心を宥めながら、担任の弓野ゆみの先生らしき女性がゆったりした足取りで教室を出ていくのを見送った。年は三十前後で、綺麗な脚をしてる。まあそれはいいとして、僕らは彼女を追いかけていった女の子とすれ違いに教室へ入った。

 さて、五年A組の皆さん初めまして。壁際をすり抜け、机と椅子の足元に潜り込んで、僕とシャークは息をひそめる。教室の後ろに集まって、ダンスの振り付けをしている女の子、カードゲームで対戦している男の子、交代でノートに何か描いては笑ってる女の子、その向こう、窓際の一番後ろの席に剛太が座っていた。

 ちょっと緊張した感じのこわばった背中で、彼は読書に没頭してるふりをしていたけど、一文字も頭に入ってないのは誰の目にも明らかだ。それに気づいたらしい男子が二人、ゆっくりと近づいてゆく。こいつらがヒデオミとヤスシだな、と、僕は剛太が見せてくれた集合写真の記憶と照合する。

 色黒で眉のはっきりした、小太りなのがヒデオミ。眼鏡をかけてて、耳が大きいのがヤスシ。主導権はヒデオミが握ってるらしくて、彼が「剛太、お前が来るの、ずっと待ってたんだぞ」と言うのを待って、ヤスシが「俺ら、友達だもんな」と続けた。

「なあ剛太、お前、こないだ来た時のこと、弓野先生に色々チクっただろ。でも許してやるよ。友達だから」

 ヒデオミはにやにや笑いながら剛太の傍まで行くと、背中から腕を回した。剛太が無言で払いのけると、「何だよ、人が仲良くしてやってるのに」と、また腕を絡める。ヤスシは剛太の前の席に座ると、彼の手から本を奪い取った。

「ライオンと魔女、だって。ナルニア国なんか、俺とっくにDVDで映画見たし。最後どうなるか教えてやろうか」

 剛太の奴、何でこんな時に児童文学なんか持って来るんだろう。ハッタリでいいから、横溝正史あたりにしとけばいいのに。

「なあ剛太、今日帰ったら俺、パパのフェイスブックに、ひいらぎ剛太がまた学校に来ました!って書いてもらうからな。彼と友達になりたい人は、柊、路チューで検索して下さい!って」

 ヒデオミは執拗に絡んでいたけれど、剛太はじっと耐えていた。というか、彼は待っているのだ。僕とシャークが約束した事を。僕らは机の陰から首を伸ばすと、軽く身震いした。実を言うと、この教室に忍び込んだのは僕らだけじゃなくて、背中には二匹のスズメバチがじっと貼りついていたのだ。

 僕らが身震いしたのを合図に、背中のスズメバチはふわりと宙に舞い、いったん天井近くまで上昇してから、ヒデオミとヤスシ目がけて急降下した。

「わっ!わっ、何、これ!」

 先に悲鳴を上げたのはヤスシだ。彼は突然目の前に現れた二匹の大きなスズメバチに驚き、反射的に立ち上がったけれど、勢い余って尻もちをついてしまった。続いてヒデオミも、「うわああ!」と叫びながら、腕を振り回して蜂を追い払おうとした。そして剛太もまた、女の子みたいに甲高い悲鳴を上げて、ヤスシの放り出した「ライオンと魔女」で頭をかばいながら机に伏せている。

 この前の夜、僕とシャークは、教室で何が起こるかを剛太に教えていなかった。ただ、ママに気づかれないように僕らをマンションの植え込みまで連れて行って、自分は学校に行く。そして二限目の後の休み時間を待つこと、とだけ指示しておいたのだ。何が起こるか判っていて、その上で驚いてみせるのは演技力がいるし、剛太にはそういうの、全く期待していなかったから。とにかく、一緒になってスズメバチに驚き騒いでいれば、後で疑われることもないだろうし。

 そうする間にも、ヒデオミとヤスシの大声に驚いて、他の子どもたちも彼らに注意を向け始めた。最初は訝しげに、奇声を発しながら跳んだりはねたりを繰り返す二人を見ていた子たちも、ようやくスズメバチの存在に気づいたらしい。まず、女の子がひとり、非常ベルもかくやという鋭い悲鳴をあげ、それに誘発された連中が次々と叫び始めた。

「刺される!刺される!」と繰り返す子もいれば、泣き出す子もいる。一方で、窓を開けて何とか蜂を追い出そうとする子や、非常袋から防災頭巾を出してかぶってる子までいた。

 でもまあ、そんな出来のいいのはごくわずかで、大半の子は逃げ惑うだけだ。しかし子供たちも徐々に、標的にされているのはヒデオミとヤスシだけだという事に勘づいたらしくて、二人と他の子たちの間に距離が開き始めた。

「こっち来るなよ!」とあからさまに拒絶されても、ヒデオミとヤスシはそれどころではない。耳障りな羽音を唸らせながら、自分たちの周囲を飛び続ける毒虫に翻弄されて、よたよたと逃げ続けるしかない。

 さてそろそろショーも終盤だな。僕とシャークは机の陰から歩み出ると、わざと子供たちの足元をこすりながら走り、窓枠に跳び乗った。僕らの後を追うように悲鳴が上がり、「猫!」「猫だ!」という声がする。僕らは後ろ足で立ち上がると、教室を見回した。ヒデオミとヤスシ以外の子供たちは、号令でもかけられたように動きを止めてこちらを見ている。そこで僕とシャークは久しぶりに、猫踊りを舞ってみせた。

「あの猫、踊ってる」

 学級委員のバッヂをつけた女の子が、僕らを指さして、うわごとみたいに呟く。それを聞きながら、僕らはまず、右の前足を高く上げて、見得を切るように静止する。するとそこへ、ヒデオミをねらい続けていたスズメバチが飛んできてとまった。蜂はそのまま前足を伝い、背中に移動するとぴたりと動きを止める。続いて上げるのは左の前足。こちらに飛んでくるのはヤスシを襲った一匹で、こいつも前足伝いに背中へ移る。

 そして僕とシャークは反転し、子供たちに背を向けてもう一度猫踊りを舞うと、そのまま外へと跳躍した。

「落ちたあ!」という悲鳴が降ってくるけど、それは完全に的外れなコメントで、僕とシャークはくるりと回ってきれいに着地すると、グランドで遊んでいる子供たちの間を縫い、正門前まで一気に駆け抜けた。そこでようやく後ろを振り向くと、五年A組の窓には子供が鈴なりだった。中にはもちろん剛太もいて、彼は窓から落ちそうなほど身を乗り出してこちらを見ていた。


「ちょっとやり過ぎたかな」

 言葉の割に反省のかけらも感じさせない口調で、美蘭は車の速度を上げた。シャークは後ろのシートで眠っていて、一仕事終えた僕はお腹が空いて仕方がない。

「コンビニとか、寄ってくれないかな」

「そんな時間ないし」と、美蘭は嫌がらせのようにアクセルを踏み込む。まあ確かに、肝心なのはここから先だけど。僕はこの後解放されたらどこで何を食べるかを考えるのに専念して、空腹をやり過ごすことにした。

 そして僕らは大急ぎで、剛太のマンションの傍にあるコインパーキングまで戻った。美蘭はそこからしばらく別行動。彼女は予定していた一時間ちょうどで戻ってくると、車には乗らず、窓から顔だけ覗かせた。

「じゃあ、ちゃんと猫返しといてね。まだまだ使えそうだから」

「今からどこ行くの?」

「あんたのいないとこ」

 

 それから僕は、シャークをマンションの植え込みに戻らせた。僕本人はといえば、コインパーキングで車に籠城したまま、この状態で剛太の帰りを待ち続ける。とりあえずコンビニのおにぎりを二つ食べはしたけど、既に自由の身の美蘭に比べて、なんか不公平すぎる。

 しかしまあ、天気もいいし、寒くもないし、こうして待機するのはさして苦痛じゃない。眠っていれば時間は過ぎるから、猫と同じ要領で、ごくごく浅い睡眠モードに意識をセットしておけばいいのだ。僕とシャークは車と植え込みというそれぞれの場所で、同じ深さでまどろみ続けた。

 どのくらい経ったころだろう、聞きなれた足音が近づいてきて、シャークが目を覚ました。目の前の小枝が不自然に揺れ動き、それから剛太が顔を出す。四つん這いで、心なしか不安そうな顔つきで。

「シャーク!」

 彼はそのまま植え込みに潜り込もうとしたけれど、ランドセルが引っかかり、中途半端なところで止まる。ずっと走ってきたのか、息を弾ませながら、「お前、本当に学校に来たよな。それで、ちゃんと戻ってきたんだ」と言った。僕とシャークは身体を起こし、右足を軽く上げてみせる。

「そうだよな。約束したもんな、絶対に帰ってくるって」

 そして剛太は左手を地面についたまま、右手で僕とシャークをしっかりと抱き寄せて、脇腹に顔を埋めた。ああ、こういうのやっぱり苦手なんだよな。仕事も全て終わったし、僕は早々にシャークとの接触を切って引き上げることにした。やっぱりお腹が空いてるから、美蘭行きつけの白梅庵で、季節限定ルレクチェと安納芋のクリームパフェでも食べるとしよう。

 

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