第16話 貝塚さん
俺が店のカウンターに腰を下ろすと、彼はすぐに気づいて親しげな笑顔を向けてきた。といっても、これまでとはやはり違う、どこか痛みを隠したような笑顔を。
「いらっしゃい。
「まあそんなとこ」
これは嘘で、それとなく
古びてるし、そう広くもないし、夜の十一時半というこの時間は、九割がた男の客が占めているラーメン屋。引きもきらずに客が入ってくるんだから、味は評判なんだろう。
「美蘭がいつも食べるのって、どれ?」
「青龍メガ盛りスペシャルが多いかな。この時間だとちょっとヘビーかもしれないですけど」と、彼は壁の古びた時計を見上げる。俺は早めの夕食がコンビニのおにぎり二つだったので、「じゃあ、それで」と注文を入れた。そして彼が背中を向ける前に「今日、何時まで?」と尋ねる。
「早番だから十二時で上がりますけど、何か?」
「ちょっと話があるんだ。交差点のとこにカリメーラってファミレスがあるだろう?あそこに来てくれないかな」
彼はほんの少し考えるような顔つきになったけれど、すぐに「判りました」と答えて、厨房に向き直ると「メガ盛り一丁!」と叫んだ。」
正直なところ、青龍メガ盛りスペシャルは半端なくヘビーだった。美蘭があの細い身体のどこにこれを収めているのか、納得がいかないほどの麺とチャーシューが投入されていて、それを凶悪なほどに真っ赤なラー油が彩っているという代物で、食べるには食べたけれど、消化に軽く半日はかかりそうな気がする。
外は息が白いほどの寒さだというのに、俺はメガ盛りの余韻で額に汗をにじませながら深夜のファミレスに入った。客の入りはまばらで、四人掛けのテーブルに一人で陣取り、コーヒーを飲みながらほぼ無意識のうちにスマホを取り出す。しかし今は
今夜の俺はかなり冴えてるのか、珍しく第四ステージまで進んだところで、桜丸が現れた。少し名残惜しい気持ちのままゲームを終え、「お疲れのとこ、悪いね」と、まずは謝る。彼は「この時間なら全然大丈夫です」と言って、パーカーを脱ぐと腰を下ろした。
「好きなもの頼んで。おごるから」とメニューを差し出すと、「じゃあ、遠慮なく」と、屈託がない。彼が選んだのはチョコレートパフェだった。
「食事は賄いがあるからいいんですけど、こういうの、食べられないから」
「甘いもの好きなの?」
「そうですね。特にチョコレート関係」
桜丸はウエイトレスに注文を入れると、改めて俺の方を見て「それで、話って何ですか?」と、少し神妙な顔つきで尋ねた。
「いや、まあ大体の予想はついてると思うけどさ」
少し落ち着こうとコーヒーを口に運んだけれど、いつの間にか飲み干してしまっている。俺は「ちょっと失礼」と席を立つと、ドリンクバーに向かった。こういう店のコーヒーも馬鹿にできない味だったりするけれど、麻子の部屋に残してきた、かなりお高いコーヒー豆、結局自分ではほとんど飲まずじまいだったのが心残りだ。そんな未練がましいことを考えながら席に戻ると、ちょうど桜丸のチョコレートパフェが運ばれてきたところだった。
「早いなあ。厨房よっぽどヒマなのかな」
「かもしれない。柊さんって、飲食関係でバイトとかしたことあるんですか?」
「なくはないけどさ、すぐ辞めちゃったよ」
「どうして?」
「俺ってさ、すっごく気がきかないんだ。自分から動けないっていうか、人に言われないと、やるべき事が判んないの。そういう奴は飲食関係、ちょっと厳しいだろ?」
「まあ、最初は誰でもそうじゃないかな」
「いや、俺はかなりひどい方。美蘭にもずっと文句言われてるし。あの婆さん猫、
桜丸は曖昧にうなずくと、パフェを食べ始めた。やっぱり話はそこに行きつくのか、と不安げな面持ちで。
「それで、だ」
俺もここまで来たからには、やるべき事はさっさと終わらせたい。まだ十分に熱いコーヒーを半分ほど飲んでから、本題に入ることにした。
それで、この間の話なんだけど、例の、美蘭に彫刻のモデルを頼んだって奴。彼女が出した交換条件は聞いてたかな。そう、俺が彫刻を辞めた理由。それを教えたら、モデルを考えてもいいって言ってただろう?だから俺も肚を決めて、話すつもりにはなったんだ。けどやっぱり、美蘭と二人きりで、面と向かって話すだけの度胸がない。何か思いがけないことを突っ込まれたらどうしようって、びびってるんだよ。
だから俺は、誰かにこの話をして、そっくりそのまま美蘭に伝えてもらおうと考えた。まず頭に浮かんだのは亜蘭だ。あいつはとにかくぼんやりしてるけど、馬鹿ってほどではない。でも嘘がつけるほど頭の回転がよくない。だから聞いた話に脚色を加えず、一言一句そのまま伝えるだろう。問題は、美蘭には彼の話をじっくり聞くほどの忍耐がないって事だ。彼女は亜蘭が口を開いても、途中でたいてい「で、結論は?」てな具合に強制終了だし。
そこで次に候補にあがったのが君だ。君は真面目そうだから、俺の話を端折ったり、飛ばしたりせずに全部伝えてくれるだろう。何より、君の話なら美蘭もちゃんと聞くだろうし。ただ、問題は、君は美蘭がモデルをすることに反対だって事だ。まあ、その気持ちは十分に判るよ。同じ立場なら俺も一緒だと思うから。
それで、この点について俺は譲歩する事にした。美蘭と直接話したくない、という逃げを打ってるんだから、そこは仕方ないってわけだ。つまり、君が俺の話をどれだけ誇張しようが、私的見解を加えようが、敢えて容認する。その上で、美蘭に話をしてほしいんだ。うん、別に後からどうこう言ったりはしないからさ。
さて、ここからようやく肝心の話に入らせてもらうよ。
俺は今でこそ定職もなければ定住所もないという、あやふやな生活を送ってるけど、何年か前までは彫刻家の端くれだった。始めたきっかけ?まあ、小さい頃から絵は好きだったけど、平面よりも立体で作る方が面白くて。でも数学が苦手で建築関係は無理だったから、消去法ってとこかな。それにさ、よそは知らないけど、うちの大学の彫刻科はちょっと倍率低いんだよね。
幸い、本格的にやってみると彫刻ってのはすごく面白かった。先生に恵まれたのもあるし、思ってたより奥が深くて、けっこう身体を使うところも悪くない。学科の雰囲気も小人数でのんびりしてたしね。大体が、彫刻を専攻しようなんて奴が将来をまともに考えてるわけないんだよ。仕事どうしようとか、そういう事を。まあ、一番ちゃんとした奴で教員免許をとるぐらいかな。
こんな話すると嫌味に聞こえるかもしれないけど、俺の実家はけっこう裕福だ。おまけに一回り上の兄貴が家業を継ぐ事になってて、俺はどんな進路を選択しても構わないって空気だった。実際は、兄貴ほど勉強ができなかったから、アーティストにでもなればそれなりに体裁がいいって感じかな。
ともあれ、俺は四年間を楽しく過ごして、就職する気なんかさらさらなかったから、ちょっと頑張って大学院に進んだ。その間に、小さな賞をいくつかもらったりしてさ。どんな作品かって?いや、俺は世間の大多数が「彫刻」って言葉で思い浮かべるタイプのものは作ってない。いわゆる抽象って奴をずっとやってた。石だったり金属だったり、素材は色々でさ、タイトルも記号だけにしてみたりね。
もちろん、彫刻の基本はギリシャ美術というか、ミロのヴィーナスみたいなところにあるから、そういうのも勉強したし、作れはするよ。美蘭をモデルにしようと思ってるのは、まさにそっちの方だ。
まあそんな感じで、大学院にいた頃の俺は、このままそれなりに進んで、彫刻で細々とやっていければいいか、なんて事を呑気に考えてた。しかし周りは俺ほど悠長な人間ばっかりじゃなくて、彼女に子供ができたからって、介護職につく奴がいたり、親に勧められたからって、公務員試験うけて地元の役場に就職する奴が現れたり。何ていうのかな、一緒に楽しく遊んでたのに、気がつけば日が暮れて、みんな家に帰ってた、みたいな感じになっていった。
皮肉なことに、制作から遠ざかった人間の方が、だらだら続けてる俺より才能があったりするんだ。まあ、先生は「続けるのも芸のうち」って言ってはくれたけどね。特に俺が一目置いてたのが、
貝塚さんはちょっと職人肌の無口なタイプで、とっつきにくい印象があるんだけど、本当のところはすごくシャイで、誠実な人だった。何ていうか、女の子に受けようと思ってしゃべりまくってるのに、全然相手にされない奴がいるとしたら、ちょうどその正反対。何も狙ってないのに、話すことが面白いっていうか、ずっと聞いていたくなるような話をするんだよな。だから女の子からもすごく慕われてたし。作品もやっぱりそういう性格が出るっていうか、繊細なんだけど、じわっと底力がある、独特の雰囲気で、他の誰にも作れない、不思議な魅力があった。
しかし残念なことに、貝塚さんは経済的にかなり苦労してた。本気で制作に集中しようとしたら、バイトも思うようにできないし、色々とお金もかかる。何より、そういうのをうまく両立できるほど要領のいい人じゃないんだ。制作にもすごく時間をかけたし。もちろん奨学金はもらってたけど、しょせんは借金だからね。
実家は岩手で、お父さんは宅配の下請けドライバー、お母さんはクリーニング屋のパートだから、収入も限られてる。出すのは授業料で精いっぱい、仕送りなんて無理な話だった。でもまあ、貝塚さんは制作さえできればそれで幸せって人だったから、食費もギリギリまで削って、服なんか年に一度買うか買わないか、って感じの生活で平気そうだった。
なんで貝塚さんの話ばっかりしてるかって?うん、まあ、もう少ししたら話がつながるから。別に脱線してるわけじゃないんだ。
で、貝塚さんはそうやって黙々と頑張ってたんだけど、お父さんがもらい事故で首を痛めちゃってさ、ドライバーができなくなったんだ。運が悪いよな。まだ年金出るまではしばらくあるし、お母さんの収入だけじゃたかが知れてる。で、結局彼は実家に戻ることにした。
君の出身は?神奈川?でも長野に住んでたのか。だったら判ると思うけど、地方って本当に仕事が限られてるらしいんだよな。特に、いきなりUターンなんかした日には、選択肢が少ない。結局貝塚さんは、市の嘱託職員になって、屎尿処理の仕事についた。いわゆる汲み取りって奴だ。東京にいたら想像しにくいんだけど、水洗トイレじゃないとこって、今もけっこうあるらしいんだ。きつい仕事って話だよな。
それでも、貝塚さんはきちんと働いて、夜だとか週末は制作に励むという生活を始めた。俺は一度、親戚の結婚式が盛岡であって、そのついでに訪ねた事があるんだけど、東京にいた時と全然変わらない感じで、今こんなの彫ってるんだよ、なんて見せてくれた。お父さんのトラックを置いてたガレージを、そのままアトリエにしててさ、田舎だと石を削ったりして音をたてても、気を遣わなくていいから楽だよ、とかってね。
俺が来たこと、すごく喜んでくれて、地元で一番うまい店でおごってくれた。これまでの人生で一番お金持ってるからさあ、とか言って、絶対に払わせてくれないんだよ。でも着てる服なんか、東京時代のままだったりしてさ。まあ、別にみすぼらしいとか、そういうんじゃないんだよ。あの人はアルマーニのスーツなんか着ても、たぶん同じような感じだと思うし。
そんな事があってから、ひと月ほど後だった。あの地震と津波が来たのは。
そう。貝塚さんの実家は海沿いの町にあったんだ。海岸からはずいぶん離れてたはずだけど、それでも辺りの家やなんか、ほとんど流されたらしい。地震が起きた時、貝塚さんは外での仕事が終わって、事務所に戻ったところだった。たまたまお父さんのリハビリの日だったから、両親は隣町の病院にいて無事だった。だから貝塚さんはそのまま、消防団の詰め所に向かった。
これも東京にいると実感薄いんだけど、いっぱしの男は消防団に入って防災活動に携わるってのは、地方じゃ当たり前らしいんだな。特にあの辺は何度も津波を経験してるから、地震が来たらすぐに出動だ。貝塚さんの担当は、逃げ遅れた人がいないか、確認して回る仕事だった。二人一組で車に乗ってたんだけど、この辺まで水が来たことは一度もないとかって、家にじっとしてる人もいるんだ。そういうのを何とか説得して、さあ俺らも逃げようってなった時に、誰もいないはずの家からお婆さんが出てきたんだ。うちの爺ちゃんが腰ぬかして動けない、助けてくれ、って。
とりあえずお婆さんを車に乗せて、爺ちゃんは俺が背負って来るからって、貝塚さんはその家に向かった。ところがその時、後ろからいきなり水が押し寄せてきた。本当に何の前触れもなく、気がついたら辺り一面を取り囲まれてたような感じだったらしい。貝塚さんと組んでた消防団の人は、とにかく大急ぎで車を出すしかなかった。貝塚さんとお爺さんが、家の二階か屋根に逃げて、何とか助かるように祈りながら。
いや、俺は直接この話を聞いたわけじゃない。友達が一人、ボランティアに行って、彼女が消防団の人から聞いたんだ。貝塚さんはやっぱり逃げきれなかったらしくて、十日ほどしてから、隣町の浜で見つかった。
結局、俺はあれから一度も岩手に行ってない。何かしなきゃ、とは思ったけど、一体どういう気持ちで行けばいいのか、何を話せばいいのか、見当もつかなかったし、何より、怖かった。取返しもつかないほど、傷つくような目に遭ったらどうしよう、なんてね。
実を言うとその頃、つまり震災のあった頃、俺はかなりのスランプで苦しんでた。大学院は前の年に出てたから、肩書としては彫刻家、だったんだけど、納得のいく仕事は何もせずに一年ほどを過ごしてた。変な話、生活には困ってなかった。親父の伝手で、俺の作品を買ってくれる人が何人かいて、それが結構いい収入になったんだ。向こうは別に、作品に芸術的価値を見出してるとかそういうんじゃなく、親父の歓心を買うためだよな。ある種の賄賂みたいなもんだ。
でもまあ、作れば売れるんだから、俺はほぼ惰性で、過去の自作のコピーみたいなのを彫り続けていた。しかもそのコピーは、回を重ねるごとに劣化してゆく。判る人間には明らかな事だから、俺は友達だとか先生だとか、そういう相手にはなるべく知られないようにして、作品を売った。でもその一方で、これじゃまずいという気持ちは抱えてて、全く新しい作品を、名のある展覧会に出したいと、焦り続けていた。
それなのに、どれだけ考えても、手を動かしても、俺は次の段階に進めずにいた。人に聞くとさ、そんな事って結構あるらしいんだ。確かに、生身の人間なんだから調子の良い時も悪い時もあるし、スランプなんてどれだけ続くか予想もできない。でも、人の話だと、ああ、そんなもんだな、って思えることが、自分じゃどうしても納得できない。だって俺はそれなりに才能がある彫刻家だと、本気で思ってたから。
で、さすがにもう制作にかからないと展覧会に間に合わない、という時期になって、俺はある決心をした。この一度だけ、特別な手を使おう。それがあの、貝塚さんに見せてもらった作品を彫る事だった。
作者はもうこの世にいないし、ガレージにあった彼の作品は周囲の家もろとも、津波にさらわれてしまった。だから俺があの作品を彫ったところで、誰かに知られるという可能性はほぼない。貝塚さんの両親は、彫刻やなんかには疎くて、息子が何を作ってるかも全然知らずにいたし。
罪悪感?それはもちろん。でも、あの時は何故かこう思った。このままあの作品をなかった事にするくらいなら、俺が作った方がいいんじゃないかって。まあ、詭弁だよな。それに、本気でそうしたいなら、まず貝塚さんの両親に申し入れをして、堂々と彫ればいいわけだし。
とにかく、俺はそのまま制作にかかった。そりゃ、細かいところは違ってたとは思うけど、出来上がったのは貝塚さんの、あの作品だ。そして何食わぬ顔でそれを展覧会に出して、賞を獲った。
周りは喜んでくれたよ。家族はもちろんだけど、友達も、新境地だね、なんて褒めてくれたし。ただ、一人か二人、貝塚さんの作品を思い出した、って言う奴がいて、どきりとさせられたけど。
でもまあ、そんなんでスランプが収まるわけないんだ。だって自分じゃ何も解決してないもの。だから次に俺が作り始めたのは、この盗作の複製だった。似た感じの、俺という存在が全く宿ってない、奇妙な物体。気分はもちろん最低。その頃になると自分でも判ってた。俺は彫刻を続けたいんじゃなくて、彫刻家を名乗り続けていたいんだ。才能ある若手彫刻家だと、周囲に認識され続けたいんだって。
気持ちは日に日に落ち込んでいったし、苛立つことも増えた。眠れなくて、金遣いばっかり荒くなって、付き合いが忙しいから制作の時間がとれない、なんてふりをした。でもある日、幸いなことに、というべきかもしれない、一つのニュースを友達が教えてくれた。岩手の地方紙の記事で、がれきの中から彫刻が発見された、っていう内容だった。
その彫刻は割れていて、全体の三分の一ほどしか残っていないけれど、作品の底部に作者のサインが彫られていた。近隣で彫刻を所蔵、または制作していた居住者は限られるので、調べたところ、東京の美術大学を卒業した貝塚良明さんが、自宅アトリエで制作していたものと判った、なんてね。記事には写真もついていて、白っぽい石の塊にしか見えなかったけど、俺にははっきりと、例の彫刻のどの部分かが判った。
彫刻は貝塚さんの両親に引き渡されて、彼らはそれを仮設住宅に持ち帰った。大学の友達の間では、残りの部分を探しに行こうっていう話もあったんだけど、現地じゃそんな悠長なこと言えるような状況じゃなくて、結局立ち消えになってしまった。
そして徐々に、貝塚さんのことも、見つかった彫刻のことも、皆の記憶から薄れていったけれど、俺は却って、日がたつにつれて、不安が増していった。そう、あの彫刻の残りが出てくるんじゃないかって。
冷静な俺は、いや待て、もうがれきの撤去もほとんど終わってるし、見つかったとしても、ただの石だと思われるに違いない。鉄筋の建物でも、土台から剥ぎ取って、引きずり込んでいった津波だ。あの彫刻も粉々に砕けたに違いない、なんて自分に言い聞かせる。けれどもう一人の俺は、きっといつか、欠けた部分が出てくる、と確信している。そうなったら、世間からどう思われるだろう。
偽善者、盗作者、卑怯者、臆病者、虚栄心の塊。
実際のところ、俺はすでにそういう人間だった。ただ、皆がそれを知らないだけだ。これを知られずにいる方法、或いは、そこから逃げ切る方法はないか?
大して考える必要もなく、俺は結論を出した。彫刻家という肩書を自ら外して、存在を消すこと。そうすれば、貝塚さんのあの作品が再び姿を現したところで、消えた彫刻家の事なんて誰も気にかけないだろうから。
「僕がこういう事言うのも、変だとは思うんですけど」
桜丸はグラスの水を半分ほど飲んでから、口を開いた。
「柊さん、今からでもその、貝塚さんの両親にだけでも、本当のことを打ち明けたらどうですか?それで、賞を獲った作品を、ちゃんと見てもらうとか」
「今更、ね。それに、作品は売ってしまったんだ。愛媛の水産会社が買ってくれて、たぶんそこの会長の家の、倉庫にでも置いてあるんじゃないかな」
俺の言葉に軽い溜息で返事して、桜丸は再び水を飲んだ。
「とにかく、話すべきことはこれで全部だ。言っとくけど、美蘭の彫刻について、俺は自分の名前を出さないし、今後また制作を始めるつもりもない。今回の事はあくまで、借金返済の手段だから。情けないけど、俺にはこれ以外、まとまった金を稼げる技能ってのがないんだ」
「僕は、立派な才能だと思います」
そう言って、桜丸は席を立つとパーカーを羽織った。
「どうも、ごちそうさまでした。今日の話、美蘭にはできるだけ早く伝えますから」
「ありがとう。遅くまで引き留めて悪かったね」
軽く会釈をしてから立ち去る桜丸の背中を見送りながら、俺は自分の背負った十字架の重さを量っていた。少しは軽くなったのか?いやそもそも、十字架なんて、聞こえのいいものなんだろうか。
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