第15話 い、ま、か、ら、は、な、す
不穏な気配を感じながら、僕は階段を降りていった。ちょっと昼寝をしたつもりが、気がつくとすっかり夜で、まあいつもの事ではあるんだけど、お腹が空いて仕方ない。キッチンが明るいので勇武がいるのかと覗くと、
「来てたんだ。今日はレコード鑑賞の日?」
「のはずだったけど、色々あってさ」と、彼は何だか憂い顔だ。
「どうせまた、
僕はしゃがんで、食事を終えた小梅が、口の周りを嘗め回すのを眺めた。今日も食欲は普通にあるらしくて、ビャア、と一声鳴き、隣の水飲み器で涼しげな音をたて始めた。
「何かね、柊さんは美蘭に彫刻のモデルを頼んだみたいなんだ」
「ふーん。だから切れたんだね。無理に決まってる」
「じゃなくて、条件次第でやるって」
それを聞いて、僕は思わず彼の方を見上げた。なるほど、憂い顔の原因はこれか。
「条件って?」
「よく判らないけど、柊さんが彫刻を辞めた理由が知りたいらしいよ」
「そうなんだ」と言ってはみたものの、僕には美蘭の真意がよく判らなかった。まあ、彼女の発言なんて、大半が口から出まかせなんだけど。
「ねえ、もし柊さんが条件をのんだら、美蘭は本当にモデルをすると思う?服は着ないで、って事らしいんだよ。しかも彼女じゃないと駄目って」
僕はずっと、桜丸のことを超がつく楽観主義者だと思ってきたけど、その彼がこんなに不安そうにしているのを初めて見た。目が泳いでるし、息が荒いし、何だか酸欠の金魚みたいだ。
「美蘭は、やる時はやるからね。思い切りがよすぎるのも、いつもの事だし。でもまあ、桜丸が何か被害受けるわけじゃないから、放っておけば?」
そう言って立ち上がった僕に、彼は「被害も何も、とにかく無理だよ」と訴えた。
「僕は絶対に嫌なんだ。美蘭が誰か他の男の人の前で服を脱ぐなんて。芸術だから大丈夫とか、そんな理由どうでもいいんだ。彼女にそう言ったけど、あんたに関係ないじゃない、でおしまいだったよ。ねえ
「彼女が桜丸より僕の意見をきいたなんてこと、今までに一度もないよ」
「でも、やってみないと判らない」
ここへ来てやっぱり超ポジティブな桜丸。彼は「じゃあね、頼んだからね」と念を押すと、これから朝の四時まで続くラーメン屋のバイトのために、大急ぎで出て行った。
冷蔵庫にめぼしいものは何もなくて、仕方ないから僕は朝と同じ、グラノラと牛乳という夕食ですませた。人間の偉いところは、同じ内容の食事が続いても理性で克服できるという点だ。小梅のような猫では、こうはいかない。
それから僕はコーヒーを淹れると、マグカップを片手に部屋に戻った。さすがにあとしばらくは起きてるつもりだけど、さっき桜丸に頼まれた事なんて、鎌首もたげてる毒蛇に手を差し出すような行為なので、さらさらやる気はない。だから代わりに
シャークは柊家のリビングに置かれたケージの中にいた。人間の食事時間はいつもここに監禁されてるけど、今夜は食事が終わってもまだ閉じ込められたままだ。剛太はどうやら自室にいるらしくて、母親の
僕とシャークはケージの隙間から前足を伸ばすと、人間には秘密のやり方でロックを外した。そして春菜に気づかれないように脱出すると、剛太の部屋に向かう。こないだ、狂言の鑑賞会だとかって学校に行くような話をしてたけど、どうだったんだろう。うっすら聞こえてくる電子音から察するに、彼はまた破壊活動に精を出していて、それはつまり、状況が芳しくないって事だ。
ジャンプしてドアノブにぶら下がり、ドアの隙間に前足を差し入れて押し広げる。そして部屋に忍び込むと、僕とシャークはベッドに腹ばいになっている剛太の様子をうかがった。彼は「くっそぉ!死ね!死ね!」と、呪詛の言葉を吐きながらゲーム機を操っている。半ば呆れた気分でベッドに跳び乗り、「相変わらずだな」と前足でゲーム機をはたき飛ばしてやると、彼はきょとんとした顔で「シャーク」と僕らを見た。
「ママに出してもらったの?僕だって忘れてたわけじゃないよ。ただ、ちょっとだけゲームしてからって思ったんだ」
言い訳はどうでもいいけど、飼い主としてはイマイチだな。僕とシャークはちょっと上から目線で剛太の前に座ると、尻尾を前足に巻きつけた。
「だってさ、今日はすっごくムカついたんだ。狂言の鑑賞会に、一日だけ来てみないって、弓野先生が誘ったから行ったのに。シャークだって、行く方がいいって言ったよね?」
そこまで言うと彼は苛立った様子で口をとがらせ、「シャーク、今日はおしゃべりする日?」と尋ねた。仕方ないから僕らは右の前足を上げる。
「よし、わかった。それでさ、僕は学校に行ったんだよ。超久しぶりだったけど、けっこう大丈夫だった。ママが送ってきてくれたし、
それで、すぐに狂言が始まって、それはけっこう面白かったんだ。クラスの代表の子が、舞台に上がって、みんなで一緒に練習したりとかさ。全部終わったらお昼になってて、弓野先生が、給食も食べて行ったら?って言うから、そうした。豆腐ハンバーグのカレーソースで、マンゴープリンもついてたから、まあよかったんだ。
でもさ、先に食べ終わったヒデオミとヤスシが僕のとこに来て、剛太のでんでんむし、出てきたんだーって、騒ぎだしたんだ。僕はやめろって言ったけど、そんなの聞いてなくて、でーんーでーんーむっしむしーって、さっき狂言で練習した台詞ばっかり繰り返してさ」
剛太は少し黙ると、洟をすすった。なんか怪しい雲行き。でんでんむしって、狂言の演目は「
「青山さんとかさ、女子の何人かは、やめなさいよって言ってくれたんだけど、あいつらそんなの聞かないし、僕もすごくムカついたから、立ってヒデオミの肩のところを手でちょっと押したんだ。そしたらあいつ、暴力暴力、逮捕されるぞ!週刊誌に写真撮られるぞ!路チュー第二弾!って騒ぎ出したんだ。
剛太、ネットのニュースになったら、もう永遠に削除できないんだぞ。何年たっても検索できるんだからな。これからずっと、剛太のパパの名前打ったら、自動的に路チューって出るんだぞって。
そこで弓野先生が教室に戻って来て、あいつらに注意してくれたけど、僕はそのまま帰ってきた。だって超ムカついたから。判るよな?」
僕とシャークは素直に右の前足を上げた。
「ねえシャーク、ネットのニュースは永遠に削除できないって本当?」
一説によるとそうらしいけど、断言もできないので、じっとしておく。
「パパの名前を検索したら、ずっとずっと、路チューって出るの?僕もう、ヒデオミたちかにからかわれるのは嫌だ。でも公立の学校に変わるのも嫌だ。新しい学校に行っても、柊って変わった苗字だから、誰かが検索するかもしれないだろ?そしたらまた、何か言われるに決まってる。そういうの、もう絶対に嫌なんだ。ねえシャーク、僕どうすればいい?」
この問いかけの答えは、どちらの前足でもできない。さてどうしようか、そう思案するうちにも剛太の目には涙があふれてきて、あっという間にぽろぽろとこぼれ落ちた。こういうのが一番困る。正直いって僕は怯んでしまった。そのせいでシャークを操る手加減が緩くなったけど、この猫はいきなり後ろ足で立ち上がると、こぼれる剛太の涙を、両方の前足でせっせと押さえはじめた。
ついつい動くものに反応したような気もするし、別の考え、つまりあふれてくる涙をせき止めようとしたような気もする。でも猫がそんな真似するだろうか。とにかく絶対に、僕の意思じゃないはずだ。何だかわけがわからず、僕はシャークとの接触を切ってしまった。
自分の部屋で、ベッドに腰を下ろしたまま、僕はしばらくぼんやりしていた。それから冷めてしまったコーヒーを飲んだけど、気分はすっきりしない。原因は、まだ指に残っている剛太の涙の、濡れた感触のせいだった。
面倒くさいけど一階の洗面所まで行って、手を洗ってみる。でもやっぱり僕の指というか、シャークの肉球が抑えた剛太の涙と柔らかな頬の感触は消えない。また部屋に戻って、僕としてはずいぶん長い時間考えて、それから一つの結論に達した。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。美蘭の部屋はまさに虎の穴だけど、今夜の彼女はその奥、天蓋つきのベッドに寝そべって本を読んでいた。礼儀正しくノックして、了解も得た上で入ったものの、不意の攻撃に備えて、僕の警戒心は決して緩んだりしない。
「何よ、用があるならさっさと言えば?ないなら速攻出てって」
視線も上げずにそう言って、彼女はページを繰る。
「あのさ、あれ貸してくれないかな。二匹ほど」
「何に使う気?」
「ちょっと、剛太のクラスの友達に見せてやろうかなって」
「あの子、友達なんていないんじゃないの?」
馬鹿にしたように言うと、美蘭は本を閉じて肘をつき、身体を起こした。
「でもまあ、ガキどもは喜ぶかもね。何であろうと本物に触れるのはやっぱり大事なことよ」
「じゃあ、貸してくれる?」
「私の言う通りに段取りつけるならね。ちょうどいい機会だし、色々まとめて片づけるわ」
虎の穴での作戦会議が終わると、僕はまたシャークのところに戻った。思ったより時間をとられたせいで、剛太はもうベッドで寝息をたてていて、シャークもその足元で丸くなっていた。本当ならケージに戻らずこんな場所で寝ていると、春菜が怒り狂うんだけど、どうやら彼女はまだ韓流ドラマに夢中らしい。
僕はシャークを起こすと、思い切り伸びをさせた。それから剛太の枕元まで移動すると、頬に何度か猫パンチを入れる。剛太はそれを腕ではらいのけ、寝返りを打っては背を向けてしまうけれど、ここは起きてもらわないと話にならない。僕とシャークは最終手段として肩のあたりをパジャマの上から軽く噛んだ。
さすがにこれには剛太も驚いたらしくて、「何?シャーク?」と寝ぼけた声を出しながら、ようやく目を開く。僕らは彼の真ん前に頭を突き出すと、「ちょっと話があるんだけど」ともちかける。察しの悪い剛太だから、僕らの「ニャニャー、ニャッ!」的な声も「起こしてごめん」に解釈されかねないので、大きく右足を上げてみせる。
「どうしたの?」と、訝し気に剛太は枕元のスタンドを点けた。僕とシャークはベッドを飛び降り、本棚の前に移動する。役に立ちそうなのはここらあたりか、と見当をつけて、ほとんど使ってない「国語辞典」に爪を立てて引っ張り出す。しかしこれがケースに入ってるから困るのだ。僕らが剛太に向かって「これ出して」と命令すると、彼はふらふらとベッドを降り、本をケースから出して床に置いた。
「シャーク、これで何するつもり?」
大体予想できてもよさそうなもんなのに、剛太はまだ呆気にとられている。僕とシャークは前足で本を開いてページを繰ると、やっとの思いで「五十音図」を見つけ出し、一文字ずつ押さえていった。剛太はその後をたどりながら、声に出す。
「い、ま、か、ら、は、な、す。今から話す?」
「ニャッ」
とりあえず通じたので、僕は話を続けようとした。しかし子供向けでも国語辞典ってのはそれなりの厚みがあるし、ページを抑えながら肉球で文字を拾うのは骨が折れる。何文字か進んだところで、剛太にもさすがに察しがついたらしく、「待って、こっちの方がいい」と言うなり、ベッドの下から収納ケースを引き出すと、その中から古い絵本を次々と床の上に放り出した。
「あった、これだ」と、鼻息も荒く僕とシャークの前に置いてみせたのは、「あいうえおの本」という一冊で、カラフルな五十音図が見開きになっている。
たまにはこいつも気の利いた事を思いつくんだな、と考えながら、僕とシャークは床の上で剛太と向かい合い、あらためて文字を押さえ始めた。
「が、つこ、う、なんか、い、くひつ、よ、うな、い。で、もさい、ごにい、ちどだ、けい、く。ま、まがでか、けるひ、がい、い」
これはもうほとんど祝詞だ。それでも他に方法がないから、僕は死ぬほど面倒なのをこらえながら、一字ずつ押さえ続ける。祝詞ってのは人が神様にメッセージを伝えるための様式ではあるけど、結局のところ、違う種類の生き物どうしが意思疎通を試みれば、こういう形に落ち着くってことなんだろうか。
本当に長い時間をかけて、僕とシャークは美蘭の決めた段取りを含む、計画の全てを伝えた。あとは剛太がこれをちゃんと理解し、記憶した上で実行するかどうかだけれど、それは五分五分ぐらいか。何と言っても、その結果どういう事態になるかは伝えていないから。
しかし剛太は何だか心配らしくて、「そんな事して本当に大丈夫?おまじないの鍵はちゃんとつけるけど、迷子になったりしないの?」と食い下がる。正直いってもうこれ以上祝詞はあげたくないんだけど、仕方ないから僕らは「だいじょうぶ」と請け合った。
「本当?約束する?じゃあ指切りしよう」と剛太はまだ納得してない様子で、手を出して小指をたててみせるけど、猫の前足が指切りに向いてないの、判らないんだろうか。文句を言ってる時間もないので、僕とシャークは代わりに尻尾を伸ばすと、その先を剛太の小指に絡めた。本当はあんまり触られたくない場所なんだけど、ここは我慢するしかない。
それから僕とシャークは「もうねる」とだけ伝えて、口が裂けるほど大きなあくびをしてみせた。あくびがうつるってのは本当らしくて、剛太もつられてあくびをすると、絵本やなんかは放り出したままで、ベッドにもぐりこんだ。
「シャークもここで寝ろよ。あったかいから」と布団を叩いてみせるけど、僕らは左の前足を持ち上げた。こんな長話は後にも先にもこれっきりだ。剛太には夢だと思ってもらった方が都合がいいので、僕らは部屋を出て、眠そうな「おやすみ」の声を聞きながら、後ずさりでドアを閉めた。
リビングに戻ると明かりはもう消えていて、ソファでは酔いつぶれた春菜が眠っていた。テーブルにはDVDが散乱し、グラスには薄くなったハイボールが半分ほど残っている。今ここに宗市さんが現れたら、彼女はどんな反応をするだろう。まあそんな想像、するだけ無駄かと思いながら、僕とシャークはケージの中に戻り、前足を伸ばしてロックをかける。
これで完全にアリバイ成立。今夜、シャークはずっとケージの中にいて、剛太はとても奇妙で長い夢を見た。そして春菜は韓流ドラマの世界で、浮世の憂さをつかの間忘れ果てた。
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