第11話 君らはろくでなし
今夜のシャークは少し機嫌が悪い。
そのせいで彼はまだケージに丸くなったまま、みんなが寝静まって平和が訪れるのを待っているのだった。僕はシャークの耳を少し動かし、周囲の様子をうかがう。珍しく父親の
食後のコーヒーを飲みながら、貴志はタブレットを見ていて、これは新聞の電子版を読んでるらしい。彼はけっこう自分の見た目を重視していて、特にカロリーの過剰摂取には気を遣っている。そのせいか、酒を飲んでいるところは見たことがないけど、もしかしたら例の事件以来、家では禁酒を装ってるのかもしれない。
他に面白いこともなさそうだし、キッチンに潜入して春菜に昼間の仕返しでもしてやろうかと考えていると、当の本人がマグカップと、チョコレートを盛った小皿を運んできた。彼女は貴志から少し離れた場所に座ると、リモコンでテレビのスイッチを入れた。相手が
春菜のマグカップに入ってるのは、キャラメルフレーバーラテとでも呼ぶべきもので、その甘い香りにシャークの鼻は反応してる。彼女の体重はこの半年で八キロ増えていて、その事実はスマホアプリにだけ記録されている。たぶん隠れハイボールの効果もあるんだろう。あんまり値打ちのない情報だけど、猫の肉球でスマホを覗き見するのはそう簡単じゃないし、まあこれも僕の努力の成果だ。
しばらくチャンネルをザッピングし、健康関連のバラエティを選ぶと、春菜はラテを一口飲んでからチョコレートを頬張った。それが溶けきらないうちに「ねえ、今度のパーティーなんだけど」と貴志に話しかけるもんだから、部屋には一瞬でカカオの香りが広がる。
「何だよ。時間とか、全部聞いてるだろ?俺は事務所から直行するからな。忙しいんだ」
貴志はタブレットから顔も上げず、そう答えた。
「それはいいんだけど、剛太がじいじに猫を見せたいって言ってるのよ」
「猫?馬鹿を言うな」
「でもね、あの、シャークを買ったお金って、お義父さんの事務所で出してもらったじゃない?だからやっぱり、一度は見せるべきじゃないかしら。うちに来てもらう時間はないし、あちらはお義母さんがインコを飼ってらっしゃるから、猫は駄目だし」
「だからって、パーティーに猫を連れてく馬鹿がどこにいる」
貴志はようやく顔を上げて、春菜を睨んだ。この人を馬鹿にした目つき、ちょっと美蘭に似ている。
「ほら、控え室があるじゃない。キャリーケースに入れて、あそこに置いとくの。お義父さんにはパーティーの前にちょっと見せればいいと思うのよ。あとね、万一に備えて、ペットショップの人にも来てもらおうと思って」
「ペットショップ?わざわざ金を払って来させるのか」
「いつもお友達枠でもらってるパーティーの招待券があるでしょ?あれを一枚回すつもりよ。ねえ、お義父さんだって、剛太が猫を飼ってからずいぶん元気になったって、実際に見れば安心すると思うわ。どうせ剛太はいつも最後までいないし、先に猫を連れて
「ったく。頌亥会は本来、資金集めが目的なんだからな。仲良しパーティーと勘違いするなよ」
「ちゃんと判ってます。じゃ、控え室の事だけ、事務所の人に言っておいてね」
春菜は夫の顔を覗き込むようにして念押しすると、チョコレートをもう一つ口に放り込んだ。剛太の不登校の原因が自分にあるせいで、貴志もそれ以上文句は言えないらしく、苛ついた空気を眉間に残したまま、再びタブレットに視線を落とした。
これでどうやら、シャークがパーティーに参加する事は確定か。もちろん僕も憑いていくだろうし、そうなると祖父、場合によっては祖母ともご対面ってわけだ。今度の出し物もまた猫踊りか、と考えていると、軽い足音が近づいてきた。
「シャーク!まだ隠れてんのかよ」
濡れた髪も乾かさず、タオルを首にかけたまま、パジャマ姿の剛太がケージの外から覗き込む。後ろから春菜が「剛くん、お風呂入ったんだから、猫なんか触らないで」と悲鳴をあげているので、僕とシャークは前足を伸ばすと剛太の手をつかみ、大げさに嘗め回してやった。
「すごい!シャークの舌ってザラザラだ」とはしゃぐ剛太の肩越しに、「早く!すぐに洗ってきて」と目を三角にしている春菜の顔が見える。貴志はといえば、そんな騒ぎはどこ吹く風で、タブレットの画面を触っているのだった。
シャークとの接触を切った僕は、ソファから立ち上がると、軽く伸びをした。春菜のせいで、僕もチョコレートだとか、キャラメルポップコーンだとかを食べたくなってきた。実際のところ、猫を操ると頭が疲れて、やたらと甘いものが欲しくなるのだ。
キッチンに行って冷蔵庫を開けてみるけど、こないだ宗市さんがくれた柚子のママレードも、
もう一つは美蘭が買った奴で、イタリア産ヒマワリ蜜。ほとんどオレンジに近い鮮やかな黄色で、透き通っていないのは、花粉がいっぱい入ってる証拠らしい。僕はティースプーンを手にすると、このヒマワリ蜜を山盛りすくいとって、少し舐めてみた。まっすぐな甘さと同時に、めまいがするほど濃厚な花の風味が広がって、やがて跡形もなく消えてゆく。
僕はティースプーンから蜂蜜が垂れないように注意しながら、瓶の蓋を閉めて元の場所に戻した。それから心おきなく蜂蜜を舐めつくし、水を飲んでいると、キッチンの入り口に小梅が姿を見せた。彼女は水飲み器のそばまで行くと、「ビャア」と鳴いてこちらを見上げる。水はなくて、赤ランプ点灯。仕方なく僕は、自分が飲んでいた水の残りを分け与えた。
後は勇武にやってもらおうと思って廊下に出ると、アトリエの明かりがついている。音楽は聞こえないけど、小梅のレコード鑑賞だろうか。ドアを開け、中をのぞくと、勇武がソファでいびきをかいていた。足元にはチューハイの空き缶が三本転がっていて、傍にディスカウントストアのポリ袋が落ちている。
僕は近くに寄って、彼の顔をしげしげと眺めた。なんか印象が違うと思ったら、髪型だ。外で飲むお金はないけど、髪は切った。たぶん何か理由があるだろうと周囲を見ると、ソファの後ろにガーメントバッグが置いてある。
髪を切って、スーツを着る。もしかして、就活する気になったんだろうか。僕は彼の心境を推し量るために、電源が入ったままのターンテーブルにのっているレコードを確かめた。ショスタコーヴィチの「交響曲第5番 革命」。
なんかこういうとこ、勇武ってつくづく単純な感じがする。しかし彼は途中で寝落ちしたらしくて、レコードはA面のままだ。「革命」の一番大事なとこは最後だから、僕はB面に返すと第四楽章に針を落とし、イントロのクレシェンドに合わせて音量を上げてみた。やがて戦闘開始を思わせる、トロンボーンの角張った雄叫びが轟き渡り、勇武は「んあ?」と呻いて目を開いた。
「なんだ、
彼はゆっくりと身体を起こすと、両手で何度か顔をこすり、「あのさ、一生のお願いだから、冷たい水持ってきてくれない?」と言った。
小梅に口がきけたら、さっきこれと同じ事を言ったかもしれないな、なんて思いながら、僕はキッチンに引き返し、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取ってきた。勇武はすごい勢いで水を飲み、濡れた口元を袖でぬぐいながら、「君は美蘭よりずっと親切だな」と言った。
「美蘭は僕より親切だよ。相手によるけど」
「なるほど。いいよ、判ってる。俺は嫌われてるってことだな。君にこないだ、濡れ衣きせられたもんな。俺のこと、スケベオヤジみたいに言いやがって」
彼はまだ酔いが醒めてないらしくて、妙に饒舌だった。アルコールなんて自白剤みたいなものだ、というのが美蘭の持論で、僕もそれに従って様子をみる事にした。「革命」は重々しいティンパニの響きを残して終結し、アトリエにはまた静けさが戻ってくる。
「おじさん、今日はどうしてこんなに飲んでるの?」
「そりゃあ、大人の事情ってこと。子供に判るか」
「僕もう十八だけど」
「でも君は彼女なんかいないだろう」
「彼女のいない大人だって、山ほどいるじゃない」
僕が事実を指摘すると、勇武はしばらく考えるような顔になって、それから「俺もそっちかもしれない」と呟いた。
「おじさんは彼女…」いるんでしょ?と続ける前に、勇武は「いいかあ、亜蘭」と、急に大声をあげた。
「女と住んでた部屋に、何日かぶりに帰ってみたら、男もののパジャマが干してあったんだぞ。これはどういう事だ。しかも俺より一回り大きいサイズだ」
「サイズはあんまり関係ないらしいよ」
「お前は一体何の話をしてる。俺はだな」と言って、勇武はまた考え込む。そして再び顔をこすり、「あれだ、ぶら下げる防虫剤」と言った。
「俺が戻ってこないように、わざわざあんなもの干しておきやがったんだ。いいか、ちょっと金の事で行き違いがあったからって、俺がいない隙に新しい男を引っ張り込むってのはひどすぎる」
「しかも一回り大きいサイズ」
「だからそれはいいんだって!」
サイズにこだわってたのは自分なのに、勇武は僕の言葉にかぶせるように大声をあげた。
「あのまま荷物だけ持って帰ってもよかったんだ。でもな、いいか、俺はそんなしみったれた男じゃない。金は用意したんだ。
バーンと、のところでソファの座面を思い切りたたくと、勇武は床に置かれていたチューハイの缶を拾い上げて口をつけた。もちろん何も出てこない。
「おじさん、本当にお金がないんだね」
「ない。バイトも今月いっぱいで打ち切りらしい」
「だから就活のために、髪を切ったの?」
「これは、あれだ。
「その優秀って言葉、成績だけじゃなくて、隠し子にもかかってる?」
「優秀なのは兄貴の成績だけ。君らは二人はどうしようもない、ろくでなしだ」
さっき僕のことを親切だと持ち上げたくせに、勇武は面と向かってひどい事を言ってくれた。そして、すっきりしたと言わんばかりに、再びソファに横になって目を閉じる。まあ確かに、自分はろくでなしかもしれないと思いながら、僕はインタビューを切り上げることにした。でも最後にあと一つだけ、聞いていない事がある。
「おじさん、どうして彫刻をやめちゃったの?」
「んむ」と低い返事があって、勇武は明かりが目に入らないように、額に腕をのせた。
「もしかして、3Dプリンターと関係ある?」
「んむ」ともう一度唸ってから、勇武は低い寝息をたて始めた。この質問に対するガードは、もっと深いところにあるらしい。これ以上は無理だな、と思って彼をその場に残し、ドアを開けると、小梅を抱いた美蘭が立っていた。
「面白い話、してたじゃない」
「立ち聞きしてたんだ」
「爆音で革命なんか流すからよ。小梅が慌てて逃げ込んできたから、何かと思って」
「彼、僕らのことは本気で嫌いみたいだよ」
「当たり前よ」
何を判り切ったことを、といった風に眉を上げ、美蘭は「小梅の飲み水、ちゃんと補充しといてね。あの馬鹿、いくら言っても出来ないんだから」とため息をついた。
「バイトもクビで、彼女にもふられたみたいだよ。本当に色んなこと、駄目な人なのかな」
「あんたのおじさんだからね」
美蘭はわずかに口角を持ち上げる。
「ねえ、なんか一族で大集合するパーティーに誘われたの、どうする?」
「あんた本気で言ってる?あれ皮肉だからね」
「そうなんだ。でも僕は、剛太が猫を連れてくから、一緒に行かないと」
「まあせいぜい楽しんでくればいいわ」
「美蘭も行きたいなら、勇武に頼んでみれば?」
「余計なお世話。招かれなくても、ちゃんと行くのが隠し子なりの礼儀ってものよ」
そして彼女は「小梅、お前今夜も私と寝る?」と言いながら、三毛猫を抱き寄せると、僕に背を向けて階段を上がっていった。
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