第10話 やらしい目で見てる
「水が空になってんだけど、なんで気づかないわけ?」
「あれ、そうかな。判んなかった」
「判んなかった」
美蘭は俺の口調をそっくりまねて繰り返すと、「
年寄の三毛猫、
おまけに飲み水は水道水じゃなくて、銘柄指定「富士山の恵み」。これを一階と二階に置かれた自動の水飲み器に常時補充しておく必要があるけれど、まあ俺はルーティン作業を繰り返すのが苦手な性分なので、今回みたいに切れてしまったりするわけだ。
「だからさ、赤ランプが点灯してたら給水なの。小梅マニュアルにも書いてあるでしょ」
キッチンまで行くと、美蘭は隅に置かれた水飲み器をあごでしゃくった。
「ごめん、見えてなかった」
俺は素直に謝ってみせる。美蘭の小生意気な態度にいちいち反応していてはきりがないし、これも仕事だと割り切ってしまえばいいのだ。それでも彼女は「どれだけ時間たってんの。もう補充通り越して完全に干上がってるし」と、追い打ちをかけて俺に背を向けた。
正直いって、生き物の世話というのは俺に一番向いてない仕事だ。子供の頃から、捕まえてきた虫とか貰った金魚とか、次々と昇天させた実績があるし、
世話をされる相手には申し訳ないけど、時として頭からすっぽり存在が抜け落ちてしまう。だから俺は、まだ小学生の
「富士の恵み」の新しいペットボトルを取ってきて、水飲み器に補充し、マニュアルに従って周囲の床を拭いておく。少しでも濡れていたりすると、小梅が寄り付かないからだ。全く、俺にとって小梅は、
ようやく任務完了して顔を上げると、美蘭の奴、制服を着替えもせず、ブレザーだけ脱いで夕食を作っている。といってもパスタを茹でて、瓶詰のトマトソースに和える程度みたいだが、マッシュルームなんか刻んでみたりして、包丁を持つ手つきはなかなか様になっている。
醒ヶ井作品の贋作は引き受け損ねたけれど、美蘭をモデルにちょっとした像を作れば、小遣い稼ぎになるかもしれない。成金系のコレクターに裸婦の小品はけっこう人気だし、俺は自分の作品が田舎の金ピカ御殿の、なんちゃってローマ風呂を飾っていたところで別に構いはしない。問題は、儲け話に乗って美蘭が脱ぐかどうかだけれど。
女の子にしては背が高いし、脚が特に綺麗だからこれを強調するポーズでいく。お尻の形もいいが、難を言えば胸が薄い。客受けを考慮して、Cカップぐらいに上積みしておけば大丈夫だろう。
「美蘭、おじさんがやらしい目つきで、舐めるように見てるよ」
いきなり、そう声をかけたのは亜蘭だった。いつの間に帰ってきたのか、俺のすぐそばに立っている。
「ひ、人聞きの悪いこと言うな。俺はただ、包丁扱いが慣れてると思って、感心してただけだ」
美蘭は黙って振り向き、俺はその手に握られた包丁が自分めがけて飛んでくるのを覚悟した。しかし彼女は冷たい目で俺をほんの一瞬見ただけで、無言のまま包丁をおき、椅子の背にかけていたブレザーを羽織ると、キッチンから出ていってしまった。ややあって、力任せに玄関のドアを閉める音が響いた。
「あーあ」と、呆れたような声を出し、亜蘭は湯気をたてているパスタの鍋に近づいて、トングで一本取り出して味見した。
「ちょっと茹で過ぎだけど、しょうがないな」
彼はパスタをフライパンに移すと、美蘭が刻んでいたマッシュルームとトマトソースを加え、適当に火を入れてからパスタ皿にあけた。そして窓際にある、朝食用の小さいテーブルに運び、冷蔵庫からパルメザンチーズを取ってくると、無造作に回しかけて食べ始める。
「そのパスタ、美蘭が作ってたんだけど」
「大丈夫だよ。彼女しばらく戻ってこないから」
「それって、俺のせい?」
亜蘭は無言のまま頷くと立ち上がり、俺が床に置いていた「富士の恵み」のペットボトルの残りをグラスに注いで飲んだ。
「言っとくけど、やらしい目つきだなんて、それは完全に君の誤解だからな」
「でもさ、料理してる女の子の後ろ姿を見てて、何も感じない男なんかいないもの。僕は弟だから、どうでもいいけど」
しれっとそう言ってのけて、亜蘭はまたパスタを食べ始める。俺は身の潔白を証明するために「そういう事じゃなく、彼女は綺麗だから、料理をしてても絵になると思っただけだ」と釈明した。
「美蘭に向かって、綺麗だなんて絶対言っちゃ駄目だよ」
「なんで。立派なほめ言葉だぞ」
「だから駄目なんだ。まだ、女の子どうしならいいけど、大人の男がそんな事言ったりしたら、本気で具合が悪くなる。で、怒り狂って、結局は僕が迷惑するから」
「具合が悪くなる?どういう意味だ」
「白雪姫みたいなもんだよ。毒りんご食べたのは僕だけどさ」
それだけ言うと、亜蘭は空になった食器をシンクに放り込み「これお願いしていい?代わりに後で小梅の猫ヨガやっとくから」と、出ていってしまった。何が白雪姫だ、意味不明な事ばっかり言いやがって。この双子はふだん喧嘩ばかりしているくせに、俺を陥れる時だけは強力タッグを披露するから腹が立つ。
力任せに食器やなんかを洗い、振り向くと小梅が水を飲みに来ていた。喉が渇いていたのか、ずいぶん長いことちゃりちゃりと舌を動かしている。結局のところ、美蘭も亜蘭もふた言めには「面倒くさい」と口にするくせに、小梅に関しては細かい事までちゃんと気配りしているみたいで、俺がいちばん怠慢という事か。それを駄目押しするかのように、小梅はこちらを一瞥し、口の周りをなめて「ビャア」と鳴いた。
昼の弁当は肉巻き野菜が二つとエビホタテコロッケ一つとロースカツが一つ。ドレッシングはイタリアン一つと和風ごまだれが三つ。味噌汁はわかめ二つとしじみ二つ。コンビニでキャラメルポップコーンの大袋を買うのも忘れずに。
俺は頼まれた買い物を両手に提げて事務所に戻ると、ミーティングルームのテーブルに並べた。そこへ待ってましたとばかりに
「悪いわね。私もお弁当ぐらい買いにいって、ちょっとは外の空気を吸いたいんだけど」
年末に向けてスケジュールは押しまくっていて、正規のスタッフは連日の深夜残業らしい。家が遠い男性社員は寝袋持参で泊まることもあるけれど、女子はとりあえず帰宅して、タッチアンドゴーで出社。俺を含めた長期のバイトは、そこまで忙しいってわけでもなく、こうして修羅場で戦う社員たちの後方支援に努めている。
「電子レンジでチンしたんじゃなくて、できたてで温かい食事って嬉しいよねえ」
「私、昨日の帰りにコンビニ寄ったら何もなくて、おつまみコーナーのくん玉とシリアルバーで我慢したの」
口を開けば悲惨なエピソードしか出てこない彼女たちだが、とりあえず化粧はしているものの、顔もずいぶん疲れている。夜勤明けの麻子もこういう感じで帰ってきたよな、と思いながら、俺は自分のロースカツ弁当のふたを開けた。脂ののった肉とソースの香りが一気に押し寄せてきて、頭に居座る数々の面倒に霞をかけてしまう。
まずはしじみの味噌汁を一口飲み、カツと白ごはんを交互に半分ほど食べ、ケチャップをまとったスパゲティを味わう。それからようやくサラダにごまだれドレッシングをかけて、こちらも半分ほど食べる。ここで少しペースダウンして、後半戦はより味わって同じパターンを繰り返すのが俺のやり方。
「
野菜巻きフライを食べていた野中さんは、思い出したように声をかけてきた。
「いや…なんでそんな事を?」
「新田さんが言ってたの。今週になってから柊君を毎朝駅で見かけるって。バイトでも引っ越したら住所変更の届けがいるの、知ってる?」
「あ、はあ。でも引っ越したわけじゃなくて、マンションの水道設備を修理することになって、友達んとこに避難してるんです」
「あらそうなんだ。私てっきり、彼女と喧嘩して追い出されたのかと思った」
冗談だろうが、まさかのホールインワン。俺は内心冷や汗もので「そんな恐ろしい事言わないで下さい」と苦笑していた。俺が麻子と住んでるのは別に秘密じゃないけれど、ほぼヒモ状態というのはさすがに言ってない。しかしこのまま何日もいけばさすがに怪しまれるし、新田さんに会わないルートを早いとこ見つけるしかない。
「でもあれよね、こういう時にこそ、新居探して籍も入れようか、なんて話になるんじゃないの?」
なぜだか、野中さんは
「ならないっすよ。向こうは今すごく忙しくて、そんな事を考えてる場合じゃない」
「やーねえ、すごく忙しいからこそ、そういう事を考えたくなるの。ね?」
「そうそう、もし今プロポーズしてくれたら、誰が相手でも受け入れちゃうと思う」
「灰色の現実よさようなら、バラ色の未来よこんにちは」
女たちは口々に好きなことを言って、盛り上がっている。俺は矛先をそらすため「野中さんが結婚を決めたのって、どのタイミングだったんですか?」と尋ねてみた。
「まあ、成り行き」と、さっきまでの盛り上がりが嘘のようにそっけない。
「それは、相手任せってこと?」
「じゃなくてさ、子供」
普段は自信満々の野中さんが、妙に伏し目がちになってそう言うと、女子二人が「授かり婚?!」と悲鳴のような声を上げた。
「ていうかさ、お互いけっこう年とってるし、急ぐ理由もないし、もし子供できたら籍だけは入れようって話になってたの」
ぶっきらぼうに説明して、彼女は味噌汁を飲んだ。残る女子二人は俺と同じく三十前後だけど「それって、経済的に余裕があるから、いつでも来いって事ですよね。旦那さんかっこいい!」などと、俺には耳の痛いことを言って騒ぐのだった。
「遅くなってごめん」
午後の作業を始めようと席につくと、食後の歯磨きを終えた野中さんが、千円札を手にしてやってきた。
「おつりはスイーツ貯金に入れといて」と、二、三百円の話ながらいつも気前がいい。俺は「どうも」と紙幣を受け取ると、角の擦り切れた薄い財布にしまい込む。野中さんは、「私が有閑マダムだったら、新しい財布をプレゼントしたいな」と言って、俺の机にもたれた。
「あのさ、まだ来年の話だけど、うちの会社が吸収合併されるらしいの」
「どっかに移転するんですか?」
「場所はここのまま。ただ、経営母体が変わるっていうか、別会社の一部門になって、業務縮小。今いる社員の半分ほどは、親会社が経営する派遣会社との契約に切り替えるらしいわ」
「バイトはどうなるんですかね」
「何も聞いてないけど、たぶん、もうバイトを使う余裕はないと思うの」
「え、でもこないだ金一封なんか出たのに」
「柊君」
野中さんは素早く周囲を見回してから、空いていた隣の席に座った。
「まずは社長が切られるの。経費の使い方が適当だって指摘は前からあったんだけどさ、経理がとうとうオーナーに直訴したの。で、こないだ臨時の役員会議よ」
「はあ」と相槌をうってはみたものの、どうも実感が伴わない。そんな俺の様子に苛立ったように、野中さんは声を低くして「たぶんバイトは全員、年内いっぱいよ。他の二人は実家住まいだし、一人はまだ院生だからいいけど、柊君はちゃんと身の振り方を考えないと」と言った。
「正社員の口を探すのか、本腰入れて彫刻やり直すか、それとも他のこと考えてるのか」
いきなりきかれても、そんな事思いつくはずがない。「野中さんは残るつもりなんですか?」と尋ねると、彼女は首を振って「たぶん無理」と答えた。
「だって私、社長と大学のサークルが一緒で、その引きで入ったからさ、色んな意味で社長派なの。彼が切られるのに残れるはずないし、うまくいっても派遣じゃあね」
「じゃあ、辞めるんですか?」
「そうね。とりあえずフリーランスになると思う。うちは旦那が勤め人だからそういう選択もあるけど、他の子たちは厳しいわよね。でもこの話、まだ黙っててね」
「はあ」と頷いてはみたものの、言えるわけがない。
「私もまだ聞いたばっかりで、ここしばらく馬鹿みたいにきついスケジュールで仕事してたのが空しくなっちゃった。今年はボーナス出ないらしい、ってのが、話の発端だったんだけどさ。柊君も、クリスマスパーティーとか、予定入れすぎると後で財布が苦しくなるから、気をつけた方がいいわよ」
「パーティーって言っても、俺の仲間内はみんな、持ち寄りで飲み食いするぐらいですから」と、野中さん世代が持つ「若者」イメージを訂正したその時、俺はもっと重大なパーティーの予定を思い出していた。野中さんが自席に戻ってから、慌ててスマホを取り出し予定を確かめる。ヤバい、もう来週だ。
絶対に抜けられないそのパーティーの名前は「頌亥会」といって、元々は十二月の一日が命日である大伯父、柊
仕方ない。もう毎年の事だから顔は出すけれど、問題は麻子の部屋に置いたままの、スーツと革靴だった。去年も同じのを着たんだし、一式新調すればいいか、と言える余裕はどこにもない。俺はスマホを片手に背中を丸めると、慌ててメッセージを打っていた。
「いきなりで申し訳ないけど、荷物とりに行きます。都合のいい時間おしえて」
それから気もそぞろで午後の仕事を片づけ、帰り際にスマホを見てみると「今日は夜勤だから、いつでもどうぞ。家賃と共益費はテーブルに置いといてください」という返事が来ていた。
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