第8話 言葉がわかるんだ

 人の脳は危機が迫ったことを感知するとアドレナリンを放出し、己のポテンシャルを限界以上に引き上げるらしいけど、俺の脳は今ひとつ感度がよくないらしく、かなりの危機だというのに、一時避難でお茶を濁している。

「秘密だなんて夢にも思わなかったのよ。だから、電話したついでに、こないだは勇武にごちそうしてもらって、なんて普通に言っちゃった」

 予想通り、麻子あさこに俺の散財をばらしたのは理沙りさだった。とりあえず泊めてくれ、と上がり込んでから、この話をするのはもう何度目だろう。

「俺ぜったい口止めしたはずだよ」

「それが記憶にないのよね。お酒が入ってたせいかな。でもまあ、お詫びのしるしに、好きなだけ泊まっていってよ」

 電車の中だというのに声も落とさず、理沙はいつもの調子でガハガハ笑った。

 彼女との付き合いは美大の頃からなので、ある意味で麻子よりずっと気心が知れている。何かにつけ豪快な女で、その分とんでもない失敗も多い。たぶん何かの発達障害、と自分で言ってるけれど、冗談にせよその要素ぐらいはあるかもしれない。細かくて地道な作業が大の苦手だけれど、独特な発想で一気に作品を仕上げるから、先生の評価は両極端だった。

 卒業後はアーティスト生活に入るのかと思っていたら、なぜかダンスに開眼し、インストラクターとしてあちこちのスタジオを回っている。最近では空いた時間で契約農家からの無農薬野菜直販を立ち上げていて、思いついたら短期間で形にするスタイルは美大の頃と変わらない。

「でもさ、勇武、本当にお金で解決しようと思ってる?」

「だって仕方ないだろ、出せって言われたんだから。とりあえず家賃ぐらいは持参しないと、帰るに帰れないし」

「せっかくのチャンスだし、結婚しちゃえば?」

「ええ?」

 つい声をあげたのと同時に電車が大きく揺れて、俺は理沙にぶつかりそうになった。

「だからさ、色々と迷惑かけて悪かった、けじめをつけるためにも結婚してくれってお願いするの」

「そんなバカな。どこの世の中にこんなきっかけでプロポーズする奴がいるんだよ」

「何であろうときっかけって大事よ。でなきゃずーっと長い春だもん。私と文吾ぶんごだって、彼のアパートでボヤが出たから結婚したんだもんね。部屋が水浸しになって、引っ越すついでに一緒に住もうか、じゃあ籍も入れとく?みたいな感じ」

「麻子はそういう、ノリのいいタイプじゃないから」

「違うって、待ってるだけ。絶対そうよ」

 理沙は自信満々だけれど、たとえそれが本当だったとして、俺はまだ結婚に踏み切る覚悟はない。先の生活も決まらないバイト暮らしなのに、家庭を持つなんてありえない話だ。

「ちょっと、何を暗くなんってんのよ」

「暗くなんかなってない」

「顔に出てるよ。せっかく可愛い甥っ子迎えに行くのに、もっとテンション上げていかなきゃ。ちょっと一緒にレッスンしてく?今日はラテンのクラスだからノリノリだよ」

 だから電車の中だっていうのに、理沙はその場でステップを踏み始める。

「お前のレッスン受けるくらいなら、タイツはいて白鳥の湖でも踊る方がマシだよ」

「わかった。披露宴はそれで、麻子とパ・ド・ドゥね」

 そう言って彼女は親指を立てると、満面の笑みを浮かべた。電車は緩やかに速度を落とし、俺は慌てて「じゃ、たぶん今日も泊めてもらうと思うから」と寝場所を確保してから電車を降りた。理沙はドアのガラス越しにまだ親指でグイグイやっている。

 いい奴だけど勢いがありすぎて、こっちが消耗するんだよな。旦那の文吾は対照的な性格で極端に人見知り。とはいえIT企業の正社員なんだから、社会性はあるのだ。でもまあ、いくら理沙が「すっごい穏やかな人だから」と言っても、何日も泊まり続けるのは無理だろう。


 駅前の商店街を抜け、数年前から共学になった元女子大の煉瓦塀を通り過ぎてしばらくゆくと、この大学の教育学部と提携しているフリースクールがある。建築雑誌に載りそうな外観だけれど、バブル期にレストランとして開業し、数年で潰れて幽霊屋敷になり、その後フリースクールとして復活したそうだ。

 ガラス張りのドアを押して中に入ると正面にカウンターがある。俺はもう顔見知りになっているスタッフに「ひいらぎです」と声をかけ、脇にあるロビーを覗いた。黄色やオレンジといった明るい色のソファが壁際に並び、授業を終えた生徒が何人か座っている。学年が離れているせいか、互いに我関せず、といった顔つきで漫画を読んだりスマホをいじったり。そして剛太ごうたは窓際の席でゲームに精を出していたけれど、俺に気づくとすぐに立ち上がった。

「お待たせ」と声をかけると、「別に待たされてないよ」と殊勝な事を言う。ゲーム機はリュックにしまい、スタッフに挨拶すると、彼はさっさと外へ出る。俺も慌てて「失礼します」と後を追った。

「いつも歯医者の検診だとぐずぐずしてるのに、今日はずいぶん勢いがいいな」

「だって早く帰りたいんだもん。帰ってシャークと遊ぶんだ」

「なるほど。じゃあ、ママもOKしてるし、タクシーで行こう」

 俺はその場で手を挙げるとタクシーを停めた。

 剛太ももう五年生だし、フリースクールへの通学は一人でできるようになったけれど、歯医者だとか散髪だとか、付き添いが必要な時は俺の仕事として回ってくる。春菜はるなさんは未来の代議士夫人としての付き合いその他で多忙らしいし、俺は俺で小銭が稼げれば有り難く、編集プロのバイトと並行して引き受けている。そして俺の給料やタクシーチケットは、親父の事務所の経費で落ちるのだ。

 運転手に歯医者の住所を告げ、俺はシートに深くもたれた。

「そういえばあの猫、こないだ脱走したんだろ?」

「脱走じゃない、迷子になっただけ」

「でも、公園に連れてったら逃げたって、ママが言ってたぞ」

「だからさ、公園は広いから迷子になったんだよ」

 剛太は頑として、飼い猫が自分を置き去りにしたとは認めたくないらしい。

「結局、ペット屋さんが見つけてくれたんだろ?」

「違うよ。僕が公園まで迎えに行ったら、シャークは自分で帰ってきた。ペット屋さんはついてきてくれただけ」

「なるほどなあ」

 春菜さんから聞いた話とはずいぶん違ってるけど、終わった話だからまあいいか。タクシーの窓から外に目をやると、街のあちこちにクリスマスの飾りが咲き始めている。いつもプレゼントを渡す相手は剛太と麻子なんだけど、今年は剛太はともかく、麻子には難しそうだ。

「人間の言葉、わかるんだよ」

「えっ?」

 ついぼんやりしていたので聞き返すと、剛太は当然、といった顔つきで「シャークは人間の言葉がわかるんだ」と言った。

「ああ、ごはんとか、トイレとか、そういう言葉だろ」

「違うよ。僕の言ってること全部わかるんだ。僕もシャークの言葉がわかる。こないだも、公園で帰ってきた時にさ、迷子になってごめんね、って言ったもん」

「何?人間の言葉をしゃべったって事?」

「そうじゃない。ニャーウって鳴いただけだけど、あれはごめんねって意味だったんだ」

「ふーん」と納得したふりをして、俺は腕を組んだ。

 五年生にもなって、これは少々幼すぎるんじゃないかと思うんだけど、例の「路チュー」事件からの経緯を考えると、ファンタジーに逃避するのも仕方ないか。

「シャークは頭がいいからさ、ゲームもできるんだよ。ボタン一個しか押せないから、使えるゲーム機は決まってるけど、けっこう上手なんだ」

「ゲームねえ。そういえばあの、猫踊り。あれまだやってるのか?」

「猫踊りはパパの前で一回だけやった。あとは封印してるみたい」

「封印って、猫がそう言ったのか」

「ううん。でもそんな感じがする。シャークは普段はふつうの猫のふりをしてるけど、僕と二人だけの時は、色んな事するよ」

「へーえ」

 さらっと聞き流したふりをしながらも、俺は何だか不穏な気分になった。シャークはそもそも美蘭みらんが連れてきた猫だ。ゲーム云々はさておいて、何か怪しい正体を隠しているかもしれない。あの美蘭が何の下心もなく行動したとはどうしても思えない。彼女は剛太が腹違いの弟だと判っているのだ。

「剛太、もしもだけど、シャークのこと、飼えなくなったらどうする?」

 恐る恐るきいてみると、一瞬で彼の表情はこわばった。

「そんな事、絶対にないよ」

「うん、いや、まあそうなんだけど。家の中で誰かが猫アレルギーになっちゃったり、シャークが病気になったり。本当にもしもの話…」

「シャークが飼えなくなったら、僕はシャークと家出する」そう答えた剛太の目にはもう涙があふれて決壊寸前。

「いやいやいや、だからさあ、もしもの話だから、な?」とフォローしたところで収まりそうもない。とりあえず「また今度、そのゲームを見せてよ」などと言って機嫌をとるしかなかった。


 うっすらと消毒薬の匂いがする歯医者の待合室に座り、俺は剛太の検診が終わるのを待つ。別の診察室からは、あの鬱陶しいドリルの音が聞こえてくる。その音すら美蘭の差し金のように思えて、俺は大げさに溜息をついた。

 今更シャークを剛太から引き離すことは不可能だし、あの氷水ひみずとかいうペット屋だって、人当たりはいいけど何を考えてるか判りはしない。つまり、美蘭は父親の妻とその息子にいつでも手が出せる状態というわけだ。そしてこの俺は、金をせびられたり、怪しげな儲け話を持ち掛けられたり。

 目を閉じて椅子の背にもたれると、このあいだつじさんから聞いた話がよみがえってくる。

「この世に実際に裏側というものがあるとすれば、まさにそこから現れたような」

 とはいえこの言葉は、美蘭と亜蘭あらんの身内である夜久野やくのという人物についてのものだ。美蘭だってまだ高校生だし、亜蘭に至っては姉の使い走り程度。それに彼らに流れる血筋の半分は、俺と同じ柊家。そこまで恐れる相手だろうか。

 見知らぬ誰かを苛むドリルの音がひときわ高まり、そしてまた低くなって、やがて消えてゆく。いくら不快でも、実際に痛いのはほんの一瞬。それがトータルで何秒だろう。一生続くってわけじゃないのだ。

 俺が再び目を開いたのと、剛太が診察室から出てきたのはほぼ同時だった。ピンクの制服の衛生士が「剛太くんお疲れ。次も虫歯ゼロでがんばろうね」と手を振ってくれる。本当のことを言えば、春菜さんは近々矯正治療を始めるつもりらしいけれど、剛太はまだそんな事は知る由もなく、大きな声で「ありがとうございました」と頭を下げている。

 受付で支払いを済ませて外に出ると、俺は再びタクシーを停めて行く先を告げ、剛太にチケットを渡した。

「悪いけどさ、一人で帰れるかな。ママはもう戻ってると思うから」

「いいけど、シャークに会っていかないの?」

「うん、また今度にするよ。今日はちょっと急ぎの用があるんで。ママにはちゃんと電話しとくから」

「わかった。じゃあね」

 剛太はとにかく早くシャークと遊びたいらしくて、一人で帰ることは全く問題にしていない。さっさとタクシーに乗るとガラス越しに手を振って、行ってしまった。俺はスマホを取り出すと、春菜さんに電話する前に、美蘭の番号を呼び出す。

「やっとかけてきた」

 それこそ猫をかぶっていた頃とはうってかわって、そっけない声が聞こえる。

「どう、仕事受ける気になった?」

「まあ、そうだな。条件次第っていうか…」

「せっかくやる気出したとこで悪いけど、もう他で決まっちゃったから」

「ええ?!」

 情けないことに、俺はかなり大声で叫んでしまっていた。美蘭はその冷たい呆れ顔が浮かぶような声で「だから急いで返事してって言ったの。こっちは商売なんだから、おじさま一人に絞るなんて悠長なことしてられないのよ」

「つまり、誰か他に、贋作づくりを引き受けた奴がいるってことか」

「贋作じゃないし。何度も言うけど、行方不明だった幻の作品。誰がやるのか本当は秘密だけど、おじさまには教えてあげる。ベトナム人留学生のトランさんが、二つ返事で引き受けてくれた。勉強になります!頑張ります!ってね。ガッツが違うんだよ、情熱のある人間は。あれは大成するね」

 それに引き換えあんたは、と言わんばかりの上から目線。更に彼女は「それはそうと、お金はいつ返してくれるの?」とたたみかける。

「俺が返すのは寿司一人前の代金だけだ」

「何を言ってんだか。上握り四人前とカフェ代と、あと猫のリベート十五万ね。この十五万を返せないなら、猫は没収するから」

「猫を返すのは無理だ」

「そうお。まあいいけど。ところでさ、あの猫が急に死んじゃったら、剛太くんきっと泣くよね。ギャーギャー唸りながら家じゅう走り回って、白目むいて血なんか吐いて倒れたら、一生トラウマだね」

「何が言いたい」

「別に」

 俺の耳の底に、忘れかけていたスズメバチの羽音がよみがえる。それは歯医者のドリルのように、大きくなったり小さくなったりはするけれど、消えようとはしない。

「君は弟が可愛くないのか?」

「亜蘭のこと?」

「もう一人いるだろう」

「そんなの知らない。じゃあ聞くけど、おじさまが可愛がるのは小学生の甥っ子だけなの?」

 そう言われると、俺は急に後ろめたくなって、辻さんの言葉を思い出してしまう。

「本当ならその双子は、柊家の一員として皆から祝福されて生まれてくるはずなのに」

 しかし、と俺はその湿った考えを切り捨てる。美蘭が思わせぶりな事を口にするのは、はったりに過ぎない。親族の情に飢えた少女の擬態の陰には、獰猛な獣がいる。

「可愛がられるには、それに見合う理由が必要だからな」

「まあ意地悪なこと。ところでおじさま、幻の作品はこれで片が付いたけど、仕事はそれだけってわけじゃないのよ。このごろ亜蘭がちょっと忙しくて、小梅こうめの世話係を誰かに頼もうと思ってるんだけど、おじさまどうかしら」

「小梅?あの三毛猫か」

「そうよ。朝晩の餌やりと、爪切りとか歯磨きとか。細かいことはマニュアルに書いてあるけど、これをやってくれたら家賃ただで住ませてあげる。いつまでもヒモ生活じゃしょうがないでしょ?他にも雑用なら色々あるし、ちょっとはお金貯めた方がいいんじゃない?」

「大きなお世話だ」と言いながらも、俺の頭にはある考えが浮かんでいた。毒を食らわば皿までって奴か。こうなったら、とことん美蘭に近づいて、彼女の弱みでも探り出してやろうじゃないか。

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