第7話 嘘つき美蘭

 ろくすっぽ授業なんか聞いてないのに、どうしてわざわざ学校に行くのか?人によっては友達に会うため、という答えもあるだろうけど、あいにく僕は誰かに必要とされるタイプじゃない。出席日数を確保するのと、ちょっと外の空気を吸いに、というのが答えだろうか。

 先生もそこは判ってるらしくて、僕のことは放っておいてくれる。だからこっちも邪魔しないように寝るか、本を読むか、寝るか、そんなところ。問題は授業が終わっても気づかないことがたまに、というかしょっちゅうあるって事だろうか。

亜蘭あらん

 いきなり誰かに軽く頭をはたかれて、僕は目を覚ました。顔を上げると風香ふうかが丸めたノートを片手に立っている。

美蘭みらんが呼んでるよ。あんた、またスマホ忘れてきたでしょ。人の迷惑少しは考えてね」

 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼女は足早に教室を出ていった。美蘭は学校ではとにかく僕と口をきかないから、用があってもスマホ経由。そして今日みたいにスマホを忘れると、誰か、たいがいは風香がメッセンジャーとして現れる。

 僕は開きもしなかった教科書を鞄に突っ込み、教室を出るといつもの場所、屋上に向かった。美蘭は馬鹿だから、やたらと高い場所に上りたがるのだ。たとえ今日みたいに曇り空で寒い日でも関係なくて、フェンスにもたれてタブレットを見たりしている。

「何の用?」と、僕は今日初めて声を出した。

「用もないのに口なんかききたくない。スマホの置き場所、靴の中に変えたらどうなの?でもそしたら次は、靴はくの忘れて出かけるのよね。あんたってそういう奴だ」

 美蘭はタブレットから視線を上げずにそう言った。

「必要な事だけ言ってくれるかな」

剛太ごうたんとこの猫が逃げた」

「逃げた?マンションの八階から?」

「猫連れて公園に遊びに行ったら、逃げたって。昨日の話。あのガキ本当に馬鹿だよね、犬じゃあるまいし」

 タブレットを足元の鞄に入れ、美蘭は風で乱れた髪をかき上げる。

「母親の春菜はるな宗市そういちさんに泣きついてきた。今から公園まで探しに行くらしいから、ちゃんと回収してもらって」

「今から?間に合うかな」

「間に合わせるんだよ。何のために苦心してあの猫を送り込んだと思ってるの」

 それだけ言うと、美蘭は僕の返事なんか聞こうともせずに立ち去ってしまった。僕は仕方なく階段を降り、一階の図書室に向かう。窓際の机を確保して、新着書のコーナーで手にとった「丸わかり進路シリーズ 航海士になるには」という本をとりあえず広げておく。ここなら七時まで開いてるから、これからの作業が多少長引いても大丈夫。やっぱり屋上は寒すぎるし。そして頬杖をつき、読書に没頭してるふりをして目を閉じる。

 最初はゆっくり、やがて速度を上げて、僕は自分の触手を剛太の住まいであるマンションの方へと伸ばしてゆく。触手だなんてそんな面白いもの、実際に生えてるわけじゃないけど、感覚としては近いものがある。  シャークはけっこう特徴のある波動を持った猫だから、見つけるのはそう難しくない。僕の中に何か、微妙にぶれていたものが重なりあうイメージが浮かんで、それが完全に一致した瞬間、僕はシャークの目や耳を借りて世界を感じている。

 ここは一体どこだろう。見えるのはくすんだ色の壁で、シャークはどうやら家と家の隙間に隠れていたらしい。思い切り伸びをして、道路とおぼしき方向に出てみると、正面に剛太のマンションが見えた。そう遠くは離れていない。道路を渡り、ドラッグストアの軒下を抜けてマンションの方へと向かう。

 家出中だというのに、そんなに空腹でもなくて、シャークはどこかで餌にありついたらしい。やたらと人なつこい性格だから、誰かにもらったのか、野良猫用の餌場を見つけたのか。とにかく、動き回る元気は十分に残っているので、僕らはかなりの速度で歩いた。走ればよさそうなもんだけど、猫は瞬発力の生き物だから、普段はなるべく省エネモード。こうして黙々と歩いているだけでも立派なことなのだ。

 次の通りに出ると、この前車を停めたコインパーキングが目の前だった。買い物帰りのおばさんが僕らに向かって「にゃんこちゃーん」と呼んでるけど、それには答えず、車の下を次々にくぐって前進する。美蘭が言っていた公園、というのはこの近くだろうか。僕らはいったん高い場所から確かめることにした。

 まずはパーキングのブロック塀に上り、そこから隣の歯科医院の看板に跳び移り、さらに見晴らしのよさそうな、一番端っこまで這ってゆく。風が吹くたびに看板は揺れたけれど、まあ落ちても怪我するほどの高さじゃない。首を伸ばして見回すと右前方、建物の隙間にすべり台らしきものが覗いている。あれだ。

 僕らは後ずさりして看板の付け根に戻り、そこから植木を伝って地上に降りた。走ってくる自転車をかわし、段差をよじ上り、道を横切る。狭いフェンスをすり抜け、落ち葉の積もった側溝を匍匐前進して、ようやく公園を取り囲む植え込みにもぐりこんだ。首だけ出して、あたりの様子をうかがう。

 すぐそばに桜の木があって、その下のベンチで中学生らしい女の子が二人、何かしゃべっている。その向こうにさっき見えていたすべり台があるけれど、誰もいない。僕らは植え込みから出ると、女の子たちを迂回して桜の根元に移動した。そこまで来ると、すべり台のほかにシーソーとジャングルジムが見え、傍にいる宗市さんと剛太が目に入った。

 宗市さんはキャリーケースを片手に立っていたけれど、剛太はうつむいてしゃがんでいて、猫の目にも明らかなほど、ふてくされている。自業自得なんだよな、と呆れながら、僕らは二人の方へと走っていった。先に気づいたのは宗市さんで、「ほら、見てごらん」と声をかけた。剛太は半信半疑、という様子で顔を上げたけれど、僕とシャークが駆け寄ってくるのを見るなり、「うわあ」と叫び声をあげた。

 あとは勢いってもので、僕らは剛太に飛びついてやった。奴は「帰ってきたあ!」なんて言いながら、もう泣いている。本当に情けないので、僕は「ばーか」と嘲り、それはシャークの口から「ニャーウ」という鳴き声で伝えられる。すると剛太は「シャークゥー!」と大泣きしながらぐいぐい締め上げてきた。

 困る。こういうの、すごく苦手なのだ。

 宗市さんはそんな僕の窮状を放置して、「よかったね。シャークは剛太くんのこと大好きだから、帰ってきたんだよ」なんて言うのだった。


 僕とシャークはキャリーケースに揺られて、猫おやつのささみジャーキーを食べながらマンションに戻った。迎えに出た春菜は「やっぱり氷水さんにお願いしてよかった。絶対に何とかしてくれると思ってたのよ」と、剛太よりもはしゃいでいた。とはいえ「一晩でも外にいたんだから、この猫、汚れてるわよね」と冷静でもあり、「洗ってもらえるかしら」と言い出した。

 宗市さんはもちろん、その程度のリクエストなら簡単にOKする。正直いって僕はもう疲れたから退散するつもりだったけれど、シャークが暴れて宗市さんに怪我でもさせたら、僕らの腹黒い後見人がぶち切れるので、もうしばらく協力するしかない。

 僕とシャークは風呂場に連行され、宗市さんの手できれいに洗ってもらった。猫は基本的に濡れるのは大嫌いだけど、シャークは温かいシャワーを浴びながら終始ご機嫌。春菜がタオルの代わりに用意した雑巾で水気を拭き、もう捨てるから使っていいと渡されたドライヤーで乾かしてもらった頃には、夕方になっていた。


 まるで実際にひと風呂浴びたような、妙な気怠さを引きずりながら、僕は図書室を出て醒ヶ井さめがい邸に帰った。玄関には見慣れたスニーカーが脱いであって、桜丸さくらまるが来ていると判る。

 ひとつ年上の彼は、僕や美蘭と同じ全寮制の小学校にいた幼馴染だ。父親が事業に失敗したせいで転校して、長いこと音信不通だったけれど、数か月前に偶然再会した。今の彼は奨学金とラーメン屋のバイトでやりくりする貧乏学生で、時々「三毛猫小梅こうめのレコード鑑賞」という醒ヶ井鬼怒子きぬこの遺言履行を手伝ってくれる。

 聞こえてくるのは、ベートーベンの交響曲第六番「田園」で、嵐も過ぎて第四楽章も半ば。僕はオーディオの置かれているアトリエに入ると、ソファにいるであろう桜丸の姿を探した。でも彼は一人じゃなくて、隣には美蘭がいた。しかも何故か、彼は美蘭の膝に頭をあずけている。

 僕と目が合うと、桜丸は慌てて飛び起きようとしたけれど、美蘭はそれをねじ伏せるように押さえつけ、僕に向かって「ライト持ってきて!」と叫んだ。

「え?なんで?」

「いいから早く!耳に虫が入ってとれないんだって」

 そう説明されて、僕は回れ右をするとライトを取りに走った。たしかキッチンだと思って探してみると、入り口の柱に取り付けてある。電池の寿命が怪しくて光は弱いけれど、耳をのぞくぐらいは大丈夫だろう。大急ぎでアトリエに戻ってみると、「田園」はもう終わっていて、桜丸はこちらに背を向け、レコード棚の前に立っている。美蘭は小梅を膝に抱き、僕を見るなり「遅い」と言った。

「すぐ見つからなくて。虫は?」

「勝手に出てった」

「じゃあ、よかったじゃないか」

「あんたがトロいせいよ。神の思し召しだね」

 それだけ言うと、美蘭は小梅を膝から下して立ち上がり、アトリエを出ていった。仕方ないので僕はソファに座り、小梅の耳をライトでのぞいてみたけれど、「ビャア」と嫌がられただけだった。桜丸は棚から抜いたレコードを片手にこちらを向くと、「ごめん、悪かったね」と謝った。

「それはいいけど、耳、大丈夫なの?」

「うん」とだけ言って、桜丸は新しいレコードをターンテーブルに置くとアームを下した。今度もやっぱりベートーベンで、「皇帝」だ。彼は戻ってくると小梅を抱き上げて、僕の隣に座った。

「桜丸って、ベートーベン好きだよね」

「うん。何だか励まされてるような気分になるんだ」

「ふーん。そういえば、交響曲第五番って奴さ、僕はあれ、「ベートーベンの運命」ってのが正式なタイトルだと思ってた」

「誰か別な人の作曲だと思った?」

「そう。音楽家なのに耳が聞こえなくなって、それでも作曲を続けて、っていう、ベートーベンの伝記みたいなものだよね?って美蘭に確かめたら、あんたが弟だっていう運命から逃れたいって言われた」

 桜丸は少しだけ笑うと、「嘘つき美蘭」と言った。

「本当のこと言うと、さっきのだって嘘だよ。虫なんて、いやしない」

「じゃあどうして、ライトなんか取ってこさせたの?」

「毛づくろいの時間が欲しかったんだよ」

 桜丸は膝の上の小梅を何度か撫でた。彼の大きな手のせいで、年寄猫はふだんより一回り小さく見える。

「さっき僕は美蘭の隣に座ってて、レコードを聴くうちに眠くなってきた。だから、もたれていいかなってきいた。彼女はいつもの調子で、好きにすれば、なんてそっけなかったけど、僕は思い切って彼女の膝に頭をのせた。彼女は別に押しのけたりせずに、黙って僕の髪を撫でてくれた。怒ってはいなかったろうけど、困ってたかもしれない。どっちなのか聞こうかと迷ってたら、君が帰ってきた」

「つまり、僕が邪魔したって事かな」

「そういうわけじゃないけど、あのままってのもね」

「もし、まだ眠いんだったら、僕の膝で寝てもいいよ」

「大丈夫、もう眠くない。それに、申し訳ないけど男子の膝で寝るのは好きじゃないし。できれば女の子、っていうか、美蘭がいいんだ」

 こういう時、なんて言うんだっけ。「お役に立てずにすみません」だろうか。たしかに、僕らが再会してしばらくの頃、桜丸は美蘭の事を好きだと言っていた。でも美蘭は妻帯者の三十代とつきあってて、なのに自分から桜丸をベッドに誘ってみたり、そのくせうまく行かなかったり、とことん支離滅裂。だから桜丸もすっかり愛想を尽かしたと思ってたんだけど。

「やっぱりやめといた方がいいよ。美蘭なんて狂暴なだけだし」

「悪いけどさ、僕に対しては狂暴じゃないから」

 善意ってのは伝わらないものだ。なんだか面白くなくて、僕は立ち上がるとレコード棚へ行って、次にかける曲を探した。けっこうな枚数があり、ピアノ教師だった鬼怒子の好みは幅広い。バッハやモーツアルトはもちろん、ロマン派から近代まで、西洋古典音楽のスタンダードは一通り、ピアノ曲は勿論、オーケストラも室内楽もそろえてる。特に好きだったのはドビュッシーとラヴェルらしく、中でも「ダフニスとクロエ」は輸入盤も含めて十枚ほどあった。

 彼女のコレクションは二十世紀前半で止まってるわけではなくて、そこから更に現代音楽という時代まで広がる。並行してジャズのアルバムが混じり、一方でビートルズ登場。他にもストーンズやキング・クリムゾンまであって、鬼怒子の年を考えると、かなり雑食性の新しいもの好きだったようだ。

 僕が見た限り、彼女のコレクションで一番新しいのはYMOのアルバムだ。それと前後するようにCDも集めてはいるんだけど、どうやらこのメディアはお気に召さなかったらしくて、アナログ盤の流通が減るのにつれて蒐集をやめてしまったみたいだ。

「次はこれ聞こうかな」

 僕がディープパープルのアルバムを引っ張り出すと、桜丸は「やめた方がいいんじゃない?セロ弾きのゴーシュみたいになったら困るだろ?」と言った。

「何それ」

「宮沢賢治の童話だよ。ちょっと腕前に自信のないセロ弾き、つまりチェロ奏者のゴーシュって青年がいてさ、彼が家でひとり練習してると、次々と動物が訪ねてくるんだ。その中に猫もいる。でもけっこう上から目線で、批評家めいた事を言うから、ゴーシュはむかついて、「インドの虎狩り」っていう、強烈な曲を爆音で弾いてやるんだ。猫はパニック状態で部屋じゅう走り回って、やっとの思いで逃げてゆく」

「それで終わり?」

「いや、物語はもっと続くけど、僕が心配してるのはその辺」

「なるほど。忠告ありがとう」と礼を言って、僕はレコードを棚に戻した。うかつな事をして小梅がひきつけでも起こしたら大騒ぎになる。

桜丸は「ディープパープルも悪くはないけどね」と笑って、小梅を膝から下すと立ち上がった。

「もう今日の音楽鑑賞は十分だと思うよ。僕もそろそろバイトに行かないと」

「美蘭に黙って帰るの?」

「そうだね。彼女がここに戻らないって事は、一人でいたいんだから、邪魔したくない」

「僕を避けてるだけかも。呼んでこようか?」

 彼は黙って首を振ると、鞄を肩にかけて玄関に向かった。僕も後をついて行ったけれど、何だかすっきりしない。

「ねえ、桜丸には狂暴じゃないんだろ?だったら美蘭の部屋まで行っても、出てけ馬鹿とか怒鳴られたり、ものを投げられたりしないと思うよ」

 そう言ってみると、桜丸は困ったような顔で「これも一つの駆け引きって事。なんだ帰っちゃったのか、残念、って思ってほしいんだ」と説明した。それから「今の、美蘭には秘密だよ」と付け加えた

「でもね、僕はここを出た瞬間から、次はいつ来れるだろうって、そればっかり考えるだろうな」

「だったらここに住めば?部屋なら空いてるし、小梅の世話してくれたら、家賃は別にいらないよ」

「そういう想像するのは楽しいけどね。じゃあ」

 桜丸は軽く手を振って、ドアの向こうに消えてしまった。僕はアトリエに戻り、レコードをひっくり返して「皇帝」の続きを聴いたけど、何だか耳に入ってこない。僕が考えていたのは、どうして美蘭と桜丸はお互いに好きなようで、素直にそう振る舞わないのかって事だ。

 桜丸はあけっぴろげだし、とにかくまっすぐ進む性格だから、問題は主に美蘭にあるみたいだ。でもそれは仕方ない。僕も美蘭も、母親から「本当にひねくれてて、死ぬほど憎たらしい」と言われ続けていたし、三つ子の魂百までって奴で、今もそんな感じなんだろう。まあ、じっさい百歳まで生きてみないと、証明はできないけど。


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