第6話 考えない人

 誰か来たらしい。間延びしたチャイムの音が玄関から響く。俺は一瞬身構えて、この隙に飛び出せないかと考えを巡らせる。スズメバチは相変わらず周囲を飛び回っていて、指一本動かせないけれど、声を張り上げるぐらいならできそうだ。

「助けてくれ!」

 そう叫ぼうとして、最初の「た」も言いだせないうちに、スズメバチは俺の開いた口めがけて飛ぶ。慌てて唇を引き結び、うつむいてやり過ごすけれど、奴の周回軌道はさっきより狭まった気がする。またじわりと冷や汗がにじみ、部屋の空気が薄くなったように感じて、俺は肩で息をした。

「お待たせして悪いわね」

 静かにドアが開いて、美蘭みらんが戻ってきた。腕には三毛猫の小梅こうめを抱いている。その後ろには亜蘭あらんがいたけれど、彼は何故か寿司桶を捧げ持っていた。

「お腹すいたから、出前とっちゃった。鬼怒子きぬこさんがご贔屓にしてたお寿司屋さんがあってね、いつもすごいスピードで持ってきてくれるの」

 美蘭はそう言って小梅をソファに下すと、俺の方へ腕を差し伸べた。スズメバチはすぐさまその指先にとまり、彼女はそのまま窓辺へ歩み寄ると、窓を少しだけ開けて、凶暴な従者を夜の中へと放った。

「鬼怒子さんの定番、特上の握りよ」

 窓辺から戻ってきた美蘭は、亜蘭が運んできた寿司桶の一つを俺の前に置いた。こんなもの悠長に食ってられるか、と思ったのもつかの間、ウニにイクラ、大トロまでが艶々と光っているのを見ると、忘れていた食欲がこみ上げてきた。亜蘭は無言で食べ始めていたけれど、美蘭に「お茶入れたの、とってきな」と命令され、しぶしぶ立ち上がった。

「あと、これがいつもついてくる、小梅スペシャル」と言って、美蘭は小皿を手にとった。そこにはマグロの赤身にタイ、ヒラメ、ハマチといった刺身が花びらのように盛り付けてある。老猫小梅は当然といった顔つきで、自分の前に置かれたその小皿に口をつけ、ゆっくりと食べはじめた。

「おじさまもご遠慮なく」と、美蘭はまず大トロから頬張っている。ここで意地をはっても意味がなさそうだし、俺もヒラメに手をつけた。こんな状況でなければもう少し違った味がするんだろうけど、今の俺にはただそれが寿司だということしか感じられない。

 亜蘭もいつの間にか戻ってきていて、俺たち三人と三毛猫は黙々と食事を続けた。やがて美蘭が思わせぶりな溜息をついて「やっぱり人におごってもらうのって最高ね」と言い、亜蘭も「確かに」と頷いた。にわかに嫌な予感が走り、美蘭がそれを裏付けるように「おじさまにつけとくから。十五万円と一緒に返して」と笑みを浮かべた。

「いや、俺は自分の分しか払わないから」とはねつけると、美蘭は打って変わって冷たい顔つきで「金持ちのお坊ちゃんのくせに、本当にケチくさい」と吐き捨てるように言った。そこまで馬鹿にされると俺もなんだか開き直った気になって、「図々しいのはどっちだよ」と反撃した。

「偉そうなこと言うじゃない。だったら十五万円と利息、それからさっきのカフェ代と寿司屋の出前、今すぐ払ってみせなさいよ。無理なんでしょ?図々しいのはそっちじゃないの。ほとんどヒモ状態で彼女んちに居候してるのも判ってるんだから。看護師さんって、ダメ男が好きな人多いのよね。職業病って奴かしら」

 とっさに何も言い返せず、俺は不敵な笑みを浮かべた美蘭をにらみ返すしかなかった。一体どうやって俺の身辺を探ったんだろう。

「どうせ今のバイトも大した稼ぎじゃないんでしょ?だからさ、ちょっとしたお仕事を紹介してあげる。優しい姪っ子だと思わない?」

 美蘭は立ち上がると、サイドボードからノートのようなものを取ってきて、俺の目の前に置いた。ずいぶん古びているけれど、スクラップブックらしい。

「おじさまって、彫刻の勉強してたのよね。大学院までいって、賞もとったことあるんでしょ?そのキャリアを十分に生かせる仕事よ」

 言いながら、彼女はスクラップブックのページを繰った。貼ってあるのはどれも彫刻家、醒ヶ井さめがいまもるに関する記事で、作ったのは娘の鬼怒子らしい。

「ほら、これなんだけど」と美蘭は黄色く変色した新聞記事らしいものを指した。見出しには「幻の醒ヶ井作品どこに」とあり、粒子が荒いモノクロの写真もついている。

「数ある醒ヶ井守の作品の中で、これだけが所在不明なのよね。制作したのは戦時中で、いったんは美術展に出したんだけど、戦意高揚に全く寄与していないとかって出品拒否されて、それっきり所在不明」

 美蘭の説明を聞きながら、俺は写真に目をこらした。白っぽい石彫の抽象作品だけれど、当時これを評価した人間は少なかったに違いない。

「これを探せとでもいうのかよ」

「まさか。そんな面倒くさいことするわけないし」

「じゃあ何だ」

「だからさ、腕に覚えありのおじさまに作っていただきたいの」

「は?レプリカ?」

「じゃなくて、これそのもの。実は戦後のどさくさで売り払われて、ほぼ七十年の間、温泉旅館の蔵に眠っていたのです!なんて具合に発見するのよ」

「それはつまり、贋作ってことか」

「贋作だなんて聞こえの悪い。行方不明だった醒ヶ井作品を作るの。今出てきたらいくらで売れるか、考えてみて。買い手は絶対つくもの。おじさまには製作費を払うわ。つまり、売れるのを待たずに、すぐお金がもらえるわけ」

 美蘭は今にも電卓を叩き始めそうな勢いだ。

「何もこのショボい写真だけで作れってわけじゃないわよ。創作ノートやスケッチは残ってるし、美術展の記録から、ほぼ正確な大きさも判ってる。必要なら何度でも、醒ヶ井守記念館に行って、他の作品を好きなだけ見ればいいわ。そのためのお金はこっちで持つから」

 よせばいいのに、俺はいつの間にか、すすけた写真の中に浮かんだ白い彫刻を作る段取りを考えていた。素材は大理石だろうか、人が膝を抱えてうずくまったような形で、今で言うなら、座ってスマホを覗き込んでいる人間のようにも見える。背筋にあたるラインは深く湾曲し、屈強な青年を思わせる太い腕や、広い肩甲骨のような隆起もある。しかし、肝心の首から上は存在しない。つまりこの「人物」には頭がないのだ。さしずめ「考えない人」とでも呼ぶべきだろうか。

「おじさまやっぱり芸術家よね。目を見てれば判るわ、その気になってるのが。心配する事は何もないわよ。おじさまの名前なんか絶対に出さないし、完成したからってすぐに売るわけでもない。こっちは時間をかけてやるつもりよ」

 美蘭はさっきカフェで座っていた時のように、妖しく囁きながら俺を絡めとりにくる。気がつくと、三毛猫小梅も俺の隣に座り、じっとこちらを見ている。まるで両方から同時に口説かれているような具合だけれど、俺はふと我に返った。

 こいつら一体何者だ。

 兄貴の隠し子だとかいうけど、それはとりあえず保留。問題は、踊ってみせる猫だとか、人を監視するスズメバチだとか、影を踏んで動きを封じるとか、そういったトリックだ。ついでに、俺の身辺調査もそこに含めるべきかもしれない。

「おじさま、十万か二十万ぐらいしかもらえないと思ってる?私だってファインアートについてはちゃんと理解してるから、おじさまの才能と情熱にふさわしい金額は出すつもりよ」

 美蘭はそこで言葉を切った。悔しいことに、俺はその続きを待っていたけれど、彼女が何か言おうとしたその時、誰かがドアをノックした。まさかこの双子以外に人がいるとは予想もしなかったので飛び上がりそうになったが、ドアを開けたのは美蘭たちと同じ年頃の青年だった。

「あ、こんばんは」

 彼は俺と目が合うなり、にこやかにあいさつしたので、俺もつられて頭を下げた。美蘭は彼の方へ振り向くと「キッチンにお寿司あるわよ」と言い、こちらへ向き直って「全部で四人と一匹分払ってね」と微笑んだ。

「冗談じゃない。なんで君の彼氏にまでおごる必要があるんだ」

 俺が言い返すと、美蘭は一瞬、面食らったような表情を浮かべた。しかしそれはすぐに優雅な笑みに塗り替えられる。

「残念ながら私はおじさまの彼女みたいに、ダメ男を餌付けする趣味はないの。あの子は幼馴染って奴。かわいそうに超貧乏学生なの」

 高校生ふぜいにとことん馬鹿にされ、俺のプライドはズタボロだった。一刻も早くこの場を立ち去り、酒でも飲みたい。その思いからつい、「ちょっと、考えさせてもらえないか」という言葉を吐いてしまった。要するに、とりあえず退場するための逃げ口上だ。美蘭もそれは百も承知だろうけれど、「いいわよ」と頷いてみせた。

「返事はできるだけ早くちょうだいね。こっちにも予定ってもんがあるから」

「判った」とだけ言って、俺はようやく立ち上がり、できるだけ落ち着いた素振りで玄関に向かった。美蘭は「送りましょうか?交通費足りないんじゃない?」と言いながらついてきたけれど、俺はそれには答えず、後ろ手にドアを閉めた。


 翌日の昼下がり、俺は鎌倉のとあるマンションにいた。バイト先には体調不良、なんて嘘をついたが、そうしてでも会う必要のある人物がいるのだ。政治家一族である我が家の大番頭ともいうべき存在、つじさん。

勇武いさむ君が訪ねてくれるとは、本当にびっくりだよ。女房もいれば喜んだだろうけど、今ちょっと膝を悪くして病院に入っていてね」

 そう言って彼は、自分で淹れたコーヒーを出してくれた。八十ちかい男性の独り暮らしにしては、家の中はすっきりと片付いていて、引退した今も万事こまめに働く性分は変わっていないらしい。俺は形ばかりの手土産を渡すと、ソファに深く座り、壁にかけられた集合写真を見上げた。

 辻さんは群馬の農家の四男坊で、集団就職で上京して間もないころに参院議員だった俺の大伯父、ひいらぎ欣造きんぞうの事務所で雇われ、それからずっと、うちの父親に代替わりしても働き続けた功労者だ。壁の写真は大伯父が叙勲を受けた祝賀会のもので、彼の仕事人生における一つの到達点なのだろう。

「前に来たのは確か三年前だね。欣造先生の十三回忌の帰りに送ってもらった。あの時は春の嵐で大変だったねえ」

 現役時代に手帳いらずと言われた記憶力は健在で、五十才ちかく若い俺よりずっとましだ。彼は「娘が持ってきてくれたんで、よかったら」と、焼き菓子の入った菓子鉢を出してくれた。

「どう、最近は。彫刻の方はまだ休んでるの」

「まあ、そんなとこかな」

「なるほど。しかし人の一生は、そうのんびりしていられるほど長くもないぞ。気がつけば私のような老いぼれになってしまう」

「辻さんは老いぼれなんかじゃないよ」

「そんな事言ってくれるのは勇武君だけだよ。で、今日はまたどういう風の吹き回しで?」

「ちょっと、確かめたい事があって。兄貴の事なんだけど」

貴志たかし君?例の週刊誌の話か?」

「いや、それは関係ないっていうか、もっと昔の話。あのさ、兄貴に隠し子がいるって、本当かな。学生時代につきあってた女の子との間に、双子がいるって」

 俺がそう言ったとたん、にこやかだった辻さんの表情が、凍りついたように固まってしまった。

「その話、どうやって知った?」

「それはちょっと言えない。でも嘘だとも思えなくて。やっぱり本当なのかな」

 返事の代わりに大きな溜息をつき、辻さんは右の耳たぶを何度も引っ張った。これは彼が思案するときの癖で、昔はよく「また耳が伸びちゃうよ」とからかわれていた。

「まあ、世の中というのはいつ何が起こるか判らない。勇武君も立派な大人だし、柊家の大切な一員だ。欣造先生や源治げんじさんが築いてきたものを守るためにも、知っておいた方がいいかもしれない」

 俺は黙って頷き、彼の話の続きを待った。

「もう二十年近く前になるな。貴志君が東日商事への就職も決まって、大学卒業を目前に控えた三月の事だよ。いきなり事務所に夜久野やくのと名乗る人間から電話があって、お宅の息子さんがうちの身内を孕ませた、なんて言ってきたんだ。性質の悪い脅しかと思ったけれど、貴志君に話を聞くと、身に覚えがあるというわけだ。ちょうど選挙を控えていた頃で、とにかく表沙汰にするなという命令をうけて、私はその人物に会った 。

 彼は何というか、あやしい、としか言いようのない相手だった。彼、と呼んではおくけれど、実際には男とも女ともつかない姿形と服装で、年の頃はまあ四十代だったと思う。夜がそのまま服を着て歩いているような、暗いというか、冷ややかな雰囲気の人物でね、しかも頭が切れそうだ。貴志君がつきあっていた女の子の親戚らしくて、彼女の親の代わりに自分が話をつけるという話だった。

 正直いって途方に暮れたよ。貴志君がかなりの軟派で、大学のサークルやなんかで賑やかに遊んでるのは知っていたけれど、そこだけはうまくやっていると思ってたんだ。でもまあ、柊家の危機は何があっても回避するのが私の仕事だからね。欣造先生には内緒だし、源治さんは選挙前でそれどころじゃないし、若奥様はショックで寝込んでるという具合ではなおさらだ。

 夜久野は色々と言ってきたけれど、話は結局のところ金の無心だった。お腹の子供は双子だと判ってるから、養育費も二人分出せ。母親は未成年なので慰謝料を払え。東京では育てられないから引っ越しの費用を出せ。帝王切開になるから病院代を払え。次から次へと要求を出してきたけれど、そのほとんどをきいてやったよ。

 どうしてそんなに弱腰だったのか、不思議に思うかもしれないけれど、この夜久野って奴は普通じゃないんだ。政治の世界に身を置いていれば、ヤクザだとかそういう相手と関わりを持つこともあるし、私はそれにはある程度慣れている。しかし彼はもっと別の世界の人間だった。この世に実際に裏側というものがあるとすれば、まさにそこから現れたような、違う空気を漂わせていた。正直私は彼のことを恐れたし、貴志君の子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 だってそうだろう?本当ならその双子は、柊家の一員として皆から祝福されて生まれてくるはずなのに、敢えて手放すという選択しかできないんだから。しかもきっと、この夜久野という奴と同じ、裏側の世界で育ってゆくんだ」

 そこまで話すと、辻さんは一息ついてコーヒーを飲み干し、「もう一杯どうかな」と言って席を立った。俺はぼんやりと座ったまま、彼の話を何度も再生していた。

 もしかすると辻さんも、その夜久野という人物に関わったおかげで、俺が見たスズメバチや猫のように奇妙なものに遭遇したのかもしれない。でなければ、温厚ではあっても臆病ではない彼がそこまで恐れをなす理由が判らない。

 窓の外に目を向けると、辻さんが丹精こめて手入れをしているベランダの盆栽が見えた。彼はずいぶん昔にこのマンションを買っていたけれど、仕事のためにふだんは都内で独り暮らしをしていて、奥さんと一人娘だけがここに住んでいた。ようやく彼もこっちに移ったのは、ほんの十年ほど前で、その時にはもう一人娘は嫁いでいた。

 どうしてそんな風に、自分の家族と離れてでもうちの一族に仕えてくれたのか、ありがたい話なんだけど、俺には未だに理解できない。男が男に惚れるって奴かもしれないけど、辻さんにとって俺の大伯父、「欣造先生」というのはほとんど神格化されていて、それ故に俺みたいな落ちこぼれでも「身内」というキーワードで大事にしてくれるのだ。彼がもし美蘭と亜蘭に会ったらどうするだろう。いや、もしかするとこっそり会いに行くか、少なくともその姿ぐらいは見たことがあるんじゃないだろうか。

「それ、遠慮しないで食べてよ」

 サーバーを手に戻ってくると、辻さんは焼き菓子を勧め、俺のカップにコーヒーを注いでくれた。正直いって何か食べようという気がしないほど、頭の中がいっぱいだったけれど、せっかくだからフィナンシェを一つ口にした。

「ねえ、辻さんはその双子には会ったの?」

 俺の質問に、彼は首を振った。

「何だか怖くてね。会ってしまったら、先生には内緒で私が育てよう、なんて気になって、連れて帰ってしまいそうで。それもあって、話し合いが片付いてからは、努めて思い出さないようにしていたんだよ。でも彼らももう十八になったから、養育費の支払いも終わった。認知はしていないから、何かの理由でこっちから接触しない限りは、完全に縁が切れた状態だよ」

「何かの理由って、極端な話だけど、兄貴が病気になったりして、骨髄移植が必要です、なんて場合?」

「まあ、それも一つの可能性ではあるね。でも私は貴志君が結婚して、剛太ごうた君が生まれたことで、気持ちとしてはずいぶん楽になったよ。これでとりあえず、柊家の跡継ぎは大丈夫だって」

「剛太は政治家ってキャラじゃないけどなあ」と、俺が苦笑すると、辻さんはそれを制するように「勇武君」と唸った。

「君は自分が柊家の一員だという自覚はあるか?私は君のその、自由で大らかな性格は本当に素晴らしいと思う。しかしだ、じき三十だというのに、まるで糸の切れた凧みたいにふわふわしているのはどうだろう。彫刻家になるために努力している最中というならまだ判る。でもあんなに打ち込んでいた事を投げ出したままで、しかも完全に辞めたという意思表明もしていない。

 君は自分に教育を与えてくれた家族に対して、これからもそうやって態度保留のままでやり過ごすつもりなのか?若奥様からきいたところじゃ、今は女の人と住んでるらしいが、彼女と結婚する気はあるのか?」

 ある程度覚悟はしていたけれど、辻さんはここぞとばかりにど真ん中のストレート球を次々と投げ込んできた。俺はとにかく「わかりました」「よく考えます」なんて言葉でひたすら逃げと守りの体勢。結局ここでもズタボロにされて、逃げるようにして別れを告げてきた。


 この季節はとにかく日の落ちるのが早い。夕闇の坂道を下りながら、とりあえず手が空けば、といういつもの癖で、俺はスマホを取り出していた。三十分ほど前に麻子あさこからの着信が一件。今日は非番のはずだけど、トイレットペーパー買って来いとか、そんな用だろうかとかけ直す。

 いつになく長く待たされて、ようやく出た彼女は少し騒がしい場所にいた。

「さっき出られなくてごめん。何か急ぎの話?」と尋ねると、しばらく間があって、「急ぎってわけじゃないけど、簡単な話でもないわ」という答えがきた。明らかに、声が堅い。

「つまり難しい話?」

「難しくはないけど、私には面白くなかった話。勇武、こないだ理沙りさとブンちゃんに焼き肉おごったんだってね。大盤振る舞いで二軒めも行ったって」

「いや、あの」

 なんで知ってるの?なんて言わない方がいいに決まってる。とにかく、情報は既に漏れてるのだ。

「そんなにお金があるんなら、今月から家賃と共益費半分出して。電気も水道もガスもね。あと食費もお願い。あんたの方がたくさん食べるんだから、割合は七三にしましょう。さかのぼって払ってくれてもいいわよ」

 早口でそうまくし立てて、電話は切れた。俺は何だか足元からずぶずぶと地面に飲み込まれるような気がしたけれど、そんな都合のいい事は起こらず、とりあえず今夜どこに身を寄せるかを考えるしかなかった。








 






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