第5話 もう一度会いたくて
「そういえば
「どうもこうも、速攻で決まっちゃってさ、もう飼い始めてる」
「もう、って、飼いたいとか言ってたの先週よね?」
「だから、速攻って言ってるじゃん」
「それにしても…」と、麻子は明らかに非難めいた声を出し、豆腐の味噌汁に口をつける。今日の夕食は俺が作ったんだけど、言いつけを守ってちゃんと出汁をとったので、これについて文句は出ないはずだ。
「いいペットショップを紹介してもらってさ、元気な猫がきたんだ。ほら見てよ」
俺はスマホを取り出すと、剛太がシャークと名付けた猫の画像を出した。
「何この猫。狸みたいに丸顔ね。ずいぶん大きいし」
「なんか、やっぱり子供にいきなり子猫は難しいって話でね。でもさ、トイレの躾もすんでるし、すごく懐っこいし、ちゃんと芸もするんだよ。猫踊り」
「本当に?」
麻子は全く信じてない口調でそう言うと、豚の生姜焼きに箸をのばした。
「でも、相手は生き物よ。そんな風に簡単に飼い始めるなんて、ちょっと信じられない」
「まあ、剛太の奴もちゃんと世話してるみたいだし。ペットショップのフォローもよくて、判んない事があると、すぐに来てくれるっていうし」
「ふーん、お金持ち御用達のペットショップはやっぱり違うのね。ともあれ、結果オーライって事?」
「そういう事かな」と頷き、俺はスマホをポケットにしまう。
俺にとっての結果オーライは、この猫の裏取引で手にした十五万円だった。臨時収入は貯金しろ、なんて麻子のアドバイスが守れるわけもなく、受け取ったその足でまずスニーカーを新調し、映画を二本見て、前から気になっていた腕時計を買い、焼肉屋で
「ねえ、今日の生姜焼き、なんかおいしいんだけど。ムラタヤの肉だよね」
「うん。いつも通りだよ」
なんてのは嘘で、今日の豚肉は同じムラタヤでも鹿児島芋焼酎黒豚というブランドもの。贅沢に罪悪感すら持ちかねない麻子だから、俺はこうして密かに労っているのだ。塩も沖縄産の焼き塩を補充したし、コーヒー豆もブラジルの契約農場から直輸入という奴を専門店で買って、キャニスターに入れておいた。
「やっぱ疲れてると肉がおいしく感じるのかな」と、麻子は首をかしげながら黒豚を噛みしめているから、俺の好意も無駄ではなかったわけだ。
それにしても、今回の話で一番儲けたのは俺ではなく、ペットショップだったらしい。あの
ただ、そこから透けて見えるのは、猫のあれこれは氷水に会うための口実らしいという事。まさかとは思うけど、こんどは春菜さんが不倫なんて展開は本気でシャレにならない。まあ、彼女を責めるのも酷というか、夫である
弟である俺にはよく判るけど、貴志は自分に非があっても素直に認めるような性分じゃなくて、いつの間にか本題をすり替えて最終的には勝ち誇った顔つきで終わらせる、という男だ。おかげで何を話しても、こっちにはいつも「あれでよかったんだっけ?」という疑問が残る。頭の回転は速いんだろうけど、俺が女だったら、ああいう奴とは絶対に結婚したくない。
「もう、この醤油さし、やっぱりイマイチ」
豆腐に醤油をかけていた麻子は、垂れてきた滴を落とすまいと不自然なポーズで固まっている。急いで俺がティッシュを差し出すと、「サキちゃんの内祝いでもらったけど、見た目ばっかりなのよね」と、文句をいいながら底をぬぐっている。
「ちゃんとした奴、買えば?」
「冬のボーナスもらったら考える」
麻子はティッシュを丸めてごみ箱へ投げると、豆腐を食べ始めた。醤油さしなんて、大した値段もしないものを買うのにボーナスを待ち、日々の不自由は黙って耐え忍ぶ。見習うべきかもしれないが、俺にあまり理解できない話だ。
「私、明日の夕飯いらないからね。送別会なの」
「了解、実は俺も明日の夕方は用があるからちょうどいい。でもさ、送別会って、例の人ようやく辞めるんだ」
例の人、というのは麻子の二年先輩で、「お金に困ってるわけじゃないから、いつだって辞められるんだけどね」が口癖の既婚者だ。しかし麻子は「残念ながら、別の人。まだ三か月しか働いてないのに、婚約者の転勤が急に決まったとかって、嘘くさいのよ。まあ、みんなで寿退職と見做さないって協定結んだから、お祝いは出さないけど」と不満顔だ。
「嘘も方便って奴じゃないの?」
「だからさ、嘘つくにしても、ついていいのと悪いのがあるでしょ?こういう場合は、家庭の事情、ぐらいで十分。下手な芝居なんかいらないのよ」
「なるほどね」と素直に頷きながら、俺はこの話題をさっさと流そうとしていた。婚約者だとか寿退職だとか、そんな危険ワードが入った場合にはとにかく、同意して終わらせるのが鉄則。しかし麻子はそんな俺の思惑をものともせず、「だいたい何よ、婚約者って。勿体つけちゃってさ、どこの上流階級だか」と、まだぶつくさ言っていた。
翌日、麻子がその、気乗りのしない送別会に向かう頃、俺はバイト先の近くにあるカフェを目指していた。約束の時間に三十分ほど遅れてしまったけれど、
「ごめんごめん。帰る間際にプリンターがおかしくなって、直せる人が他にいなくてさ」
「お気遣いなく。こちらこそ、お忙しいのにお誘いしてすみません」
相変わらず大人みたいな口のきき方だけど、学校帰りらしくて制服姿だ。彼女は手にしていた文庫本を閉じると、あらためて微笑みかけてきた。なんか勘違いしそうだけど、俺がここに来たのにはまっとうな理由がある、というか彼女の方から「うちの小梅におもちゃを色々貰ったんですけど、もうお婆さんだから少しも遊ばなくって。よかったら剛太くんの猫ちゃんに使っていただけないかしら」と連絡してきたのだ。
俺がコーヒーを頼むのを待って、彼女は「猫ちゃん、元気にしてます?」と尋ねた。
「ああ、おかげさまで元気過ぎるぐらい。ペットショップの氷水さんも、よく相談にのってくれるらしくて。何より剛太がね、暇さえあれば遊んでるらしいから、おもちゃはすごく喜ぶと思うよ」
「だったら嬉しいわ」と、彼女は隣の椅子に置いていた紙バッグを手にとると、中から色々取り出した。
「このボールは中に鈴が入っていて、追いかけて遊ぶもの。こっちは手に持って、釣り竿みたいにして、猫ちゃんをじゃらしてあげるの。運動不足には一番いいと思うわ。あと、これは投げると回りながら落ちてくるから、それをキャッチして遊ぶの」
俺は知らなかったけど、世の中には猫用のおもちゃという市場が存在するのだ。友達んちの猫なんか、丸めたコンビニの袋とティッシュの空き箱ではしゃいでたのに。
「でもこれさ、買えば高いんじゃない?」
「もらい物ですから、気になさらないで。それより私、剛太くんが猫を好きになってくれたのが嬉しくて」
「そうなんだよね。いい猫を紹介してもらってありがとう。でもあのシャーク、たまに猫踊りとかするらしいんだけど、本当のところ、どうなってるんだろう。剛太の奴、シャークは言葉が判るって信じてるみたいで」
「もちろん、猫は人間の言葉ぐらい判ります」
俺のコーヒーが運ばれてきたので、美蘭は猫おもちゃを紙バッグに片づけた。
「ただ、判らない方が何かと好都合だから、普段は知らんぷりしているだけ。シャークの場合、剛太くんのことを大好きだから、彼が猫踊りをしてほしい時にするんです」
「マジで?」
「マジで」と答え、美蘭はコーヒーを飲んだ。
「もっと知りたい事があれば、弟に聞けばいいわ。もうそろそろ来るはずですから」
「え?弟さん、
正直いって、美蘭のように綺麗な子とデートごっこは悪くないと思っていたところなので、俺の声には落胆が混じっていたかもしれない。美蘭は軽く眉を上げると「あの子も
「君と同じように?どういうこと?」
「だから、こんなのただの口実」
そう言って、美蘭は指先で猫おもちゃの入った紙バッグを弾いた。
「私、もう一度柊さんに会いたくて仕方なかったの。初めて会った時からずっとよ。柊さんの顔だとか声だとか、いつも思い出してしまうし、そうしたら胸が苦しくて息もできない感じ。夜も眠れなくなっちゃって、友達にはこのごろ少し変じゃない、なんて言われるし」
「あ、そう、なんだ」
美蘭の言葉を聞くうち、俺の頭の中は真っ白になった。切れ長の涼しい瞳はまっすぐにこちらを見ていて、心なしか潤んでいるような気がする。ほんのわずか、苦し気に寄せられた眉と、懇願するような声の響きが俺の理性を崩しにかかる。
「美蘭」
気がつくと俺は腕を伸ばし、彼女の冷たい指先に手を重ねていた。一瞬、怯えた小動物みたいな震えが伝わってきたけれど、すぐに静まってゆく。
「こんな気持ち、亜蘭には内緒ね。あの子は柊さんのこと、頼れるお兄さんみたいに思ってるだけだから」
「わかった。でも、何ていうか、話が突然過ぎて。こっちはいい年だけど、君まだ高校生だよね。」
「でも、もう十八歳だもの。言ってる意味、わかるでしょう?」
「え?」と、考えるふりをしたものの、霞がかかった俺の頭の中には「十八歳=犯罪じゃない」という公式が輪郭をとり始めていた。今夜いきなりは無理として、次の機会。麻子の夜勤は次いつだ?しかし相手は高校生だし、むしろ昼間の方がいいだろうか。とするとバイトを休めそうな日は…
「柊さん」
美蘭は自分の指先に置かれた俺の手にもう片方の掌を重ねると、息がかかるほど顔を寄せてきた。
「十八歳になったから、もう養育費も出なくって、正直すごく困ってるの。柊さんの家って、お金持ちなのに冷たいわよね」
「何?何の話?」
いきなり美蘭の声が低くなったのに驚いて、俺は思わず腕を引こうとした。しかし向こうはとても女と思えない力で押さえつけてくる。
「ねえ、誰からも聞いてない?お兄さんの貴志さんが、学生時代に女子高生ひっかけて双子産ませちゃった話。今から十八年ばかり前なんだけど」
「いや、きい、て、ない。けど双子って、もしかして」
「そのもしかして、よ。つまり勇武さんは私と亜蘭のおじさまって事。偶然とはいえ、そちらから会いにきて下さって、すごく嬉しいわ」
「いやちょっと待って。どこにもそんな証拠ないし」
「証拠って、DNA鑑定したらすぐに判るもの。ねえおじさま、私たちすごくお金に困ってるの。養育費が切られてからは、あちこちバイトを掛け持ちしてるんだけど、もうギリギリ。少し助けていただけないかしら」
「つまりその、要するにお金がほしいって事?」
俺は渾身の力を振りしぼって、ようやく美蘭の手から逃れた。彼女は獲物を前にした猫のように目を光らせ、「お小遣いでいいのよ」と言った。
「いや、悪いけど、そんなことできないから」
「だったらこないだあげた十五万円返して。今すぐ、利息つけてね」
「そんな、急に言われても」
「本当に嫌よね。いい年して、たったの十五万も用意できないなんて。今すぐママに電話でおねだりすれば?本人だからオレオレ詐欺にもならないし。代わってくれたら、初孫の私から、おばあさまに直接おねだりしてもいいけど」
美蘭は低くて鋭い声で、途切れることなく話しかけてくる。このままじゃ完全に向こうのペースだ。俺は思い切って席を立つと、走るようにして出口に向かった。三十六計逃げるに如かず、コーヒー代も踏み倒しだが、仕方ない。しかし急ぐあまり、ちょうど入ってきた客に軽くぶつかってしまった。
「すいません」と声だけかけてすり抜けようとしたけれど、相手はいきなり俺の腕をつかんだ。
「おじさん、もう帰るの?」
そう言って覗き込んだのは、亜蘭だった。途端に背筋を寒いものが走り、俺は奴を振り払って駈け出そうとした。その時、背後から美蘭の声が飛んだ。
「亜蘭、影踏め!」
突然、俺は動けなくなってしまった。
いや、腕も、肩も、動きはするんだけれど、肝心の足が上がらない。何かで床に貼り付けられたように固まっているのだ。一体何が起こっているのかと、視線を足元に落としても、例の金で新調したスニーカーが見えるだけ。ただ、そのすぐ傍で、亜蘭の爪先が俺の影を踏んでいる。
「おじさま、恥ずかしいから人前で大騒ぎしないで下さる?」
気がつくと美蘭が俺の肘に腕を回していた。彼女はそのまま耳元に唇を寄せると「大事な話があるから、うちに行きましょ」と囁いた。
これはもう完全に「拉致」だ。カフェを出るなり車に乗せられ、俺は
ついこの前、和やかに猫の写真を撮っていた居間で、俺は冷たい汗を流しながら一人でソファに座っていた。この隙に窓から脱出すればよさそうなものだが、ほぼ不可能。美蘭の奴、「お茶入れてくるわね」と出ていったけれど、去り際に「面白いもの見せてあげる」と、掌を差し出した。そこには見たこともない大きなスズメバチがのっていて、彼女が軽く息を吹きかけると、低い羽音を唸らせて宙に浮かんだ。
「変な事考えたら、すぐこの子に伝わるからね。たかが蜂一匹と思うでしょうけど、刺されたら三日三晩は眠れないわよ。目なんかやられたら、後遺症ものよね」
そしてスズメバチは今も俺の目の前に鬱陶しく浮遊している。その距離わずか数センチ。途切れることのない羽音の低い唸りと、時々感じるかすかな風が、この生き物が幻覚じゃないことを物語っていた。
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