第4話 噂の猫踊り

「さすが貴志たかしの奴、いいとこ住んでるじゃん」

 いつになく美蘭みらんは上機嫌で、口元に笑みを浮かべて助手席にふんぞり返っている。僕らが目指すのは二十三区内の高級マンション。そこが会ったこともない父親、ひいらぎ貴志と妻の春菜はるな、息子の剛太ごうたの住まいだった。日曜の午後の日差しが眩しいほどに降り注ぐ中を、僕が運転する黒いGT-Rは場違いな感じで走り抜けてゆく。

 美蘭は時々後部座席に目をやって、三つ並んだキャリーケースの様子を確かめた。中にいる猫たちは皆じっとして、目的地に着くのを待っている。その隣で狭いのも気にかけずに座っているのは宗市そういちさんだ。

 彼は僕らの偏屈な後見人の下で働いていて、私生活も共にしているという物好きな人で、年齢はたぶん三十代。しかし彼自身は至ってまともというか、僕らと関わっているのが不思議に思える穏やかな人物だ。僕と美蘭はまだ高校生だから、お金にからんだ書類の話が出てくると、彼が大人要員として手を貸してくれる。

「あの剛太って、本当に猫なんかほしいのかな。嫌いって言ってたのにさ」

「ガキなんてみんな気まぐれだもの。今更いらないって言ったって、押しつけちゃうもんね」と、美蘭は足を組み換え、「もうすぐ着くよ」と猫たちに声をかけた。

 

 ひいらぎ勇武いさむから再び連絡があったのは、彼が三毛猫小梅こうめの写真を撮りに来た次の週だ。電話を受けた美蘭は、「あのガキやっぱり引っかかった。猫飼いたいってさ。あんたの猫踊りは凄いねえ。効果抜群だねえ」と、小梅を撫でまわした。実際に猫踊りをやらせたのは僕なんだけど、まあそういう事は全てカウントされないんだから仕方ない。

「ちょっと調べてみたんだけど、剛太の奴、不登校で引きこもってるらしいよ。原因がまた笑っちゃうんだけど、貴志の不倫スクープでいじめられたの。あの人本当に節操ないよね。嫁さんともデキ婚らしいし、当時も二股で、もう一人には慰謝料払ってケリつけたって。あと、商社勤めの間は派遣社員に手をつけてて、議員秘書になってからは選挙事務所のアルバイトとか、銀座のホステスにもいったらしい」

 美蘭は可笑しくてたまらないといった様子で父親の女遍歴を披露したけれど、僕自身はそこまで女の子に熱心じゃないので、本当に親子なんだろうかと、あらためて不思議になってきた。

「とりあえず猫、三匹ほど用意しなきゃ。野良でもいいから探してきて」

「それじゃ避妊手術とか、間に合わないよ」

「保護団体がつかまえて手術してる奴がいるじゃん。でも、耳に印ついてるし、さすがに野良上がりってばれるか」と考えて、美蘭は小梅の主治医である安田先生に電話した。五分ほどあれこれ話し込んでいたけれど、「八王子にある猫シェルターにいいのがいるらしいから、適当に見繕ってきて」という命令が出た。

 というわけで僕は一人、車を走らせて猫を物色しに行った。猫シェルターはかなり郊外の、雑木林に隠れるように建てられたプレハブ住宅で、下手な猫屋敷に比べるとずっとすっきりした施設だった。僕が来ることは安田先生から伝わっていたらしくて、来意を告げるとスタッフの女性がすぐに案内してくれた。

 猫は一匹ずつ壁際に並べられたケージに入っていて、病気や怪我をしている猫と子猫だけが、人間の事務所の一角で別に世話を受けている。ざっと見渡して猫の数は二十数匹。その中からまだ若く、避妊または去勢手術済で、気立てのいい健康な猫という条件で候補を選ぶ。

 まあ、撫でてみれば大体のところは判るから、僕にとってそう時間のかかる仕事じゃなかった。一回目のチェックで選んだのは六匹。そこからもう一回、今度は抱き上げて、ちょっと入念に調べてみる。まずは人間のことを恐れてないか、神経質じゃないか、それなりに賢いか、僕との相性はどうか。

 美蘭が剛太に猫を飼わせようとアプローチしたのは、何も情操教育とか、そんな優雅な目的じゃない。要するに、猫を送り込んでおけば、僕はその猫を通じて家の中の様子を知る事ができるし、猫を操って剛太を動かし、両親に働きかける事もできる。そうやって、今は途絶えた僕らの養育費に代わるものが手に入らないかと探りを入れるわけだ。

 六匹の猫から、僕は最終候補として三匹を選んだ。一匹は茶トラの雄で、とにかく呑気だ。次が三毛の雌で、少し小梅に似ているから剛太にアピールするかもしれない。そして最後はブラックスモークの雄。こいつは人間でいえば健康優良児って奴だろうか。僕と相性がよさそうなのはブラックスモークだけれど、柊家の様子をモニターするぐらいなら三匹とも合格だった。

 指定された書類に必要事項を書き込んで、僕はこの三匹を借り受けた。期限は三日で、選ばれなかった猫は返す必要があるけど、何だか面倒くさい。どうにかして三匹とも押しつけられたらいいのに。


 マンションの近くにあるコインパーキングに車を停め、僕たち三人は猫の入ったキャリーケースを運んで柊家に向かった。といっても美蘭は手ぶらで、僕が二つ、宗市さんが一つだ。猫の飼育に必要なケージや何かも持参してるけど、こっちは帰りにもう一度運ぶことにして、今は置いていく。そしてエントランスでインターホンを押し、ドアを開けてもらうとエレベータに乗り込んだ。

「セキュリティはどうってことないよね」

 防犯カメラを見上げながら、美蘭は呟いた。今日はタートルネックの白いセーターにジーンズ、キャメルのピーコートという極めて穏やかな服装。僕もパーカーとジーンズにモッズコートという格好で、要するに相手に警戒感を与えず、ただの高校生ですとアピールしてるわけだ。宗市さんはといえば、普段はイタリア生地でオーダーメイドのスーツなんかさりげなく着てるくせに、ペットショップの店長というキャラ設定で、マウンテンパーカーにフリースを合わせ、ジーンズにスニーカーというコスプレ状態だ。

 エレベータを降り、廊下の突き当たりにある八〇三号室のインターホンを押すと、「はあい」と高い声の返事があって、すぐにドアが開いた。顔を出したのは栗色に髪を染めた目の大きな女性で、これが剛太の母親の春菜、つまり僕らの父親の配偶者らしい。まず宗市さんがにこやかに「ご依頼いただきました猫ちゃんをお連れしました、氷水と申します」と挨拶し、お供である僕と美蘭も頭を下げた。

「こちらこそ、わざわざ来ていただいてすみません。どうぞ上がって下さい」と、中に案内され、廊下を抜けてリビングに入ると、そこには勇武と剛太がいた。

「あ、どうも。今回は本当にお世話になっちゃって」

 勇武はソファから立ち上がり、慌てて僕らに近づいてきた。剛太もそれに引っ張られるようについてくる。

「剛太くんこんにちは、猫、好きになってくれたの?」

 美蘭が例によって人間向けの猫なで声を出すと、剛太はふてくされたような顔で「まだそんなに好きじゃない」と言った。

「大丈夫よ。きっと大好きになるから」

 そして美蘭は早速、宗市さんが提げていたキャリーケースから三毛猫を取り出した。

「ほら、これは女の子。うちにいた小梅に似てるでしょ?」そう言って差し出されたけど、少し怖いのか、剛太は黙ってじっと見ている。代わりに勇武が腕を伸ばして「なかなかの美人じゃない?」と抱き取った。春菜は「なんか普通っぽいわね」とあからさまに首をかしげている。

「あと二匹いるんですよ」と宗市さんが話をつないだので、僕は急いで茶トラとブラックスモークも外に出す。茶トラはフロアに降りるなり、ソファの足元に敷かれたラグの上に移動すると昼寝を始めた。どうやらそこから向こうが床暖房エリアらしい。ブラックスモークは多少の警戒心があるのか、周囲の匂いをかぎ回っている。

「これって黒猫?でも縞模様があるみたいね」

 春菜はそう言いながら、自分に近づいてきたブラックスモークから距離をとった。彼女は猫が苦手みたいだ。美蘭はしゃがんで「こういう毛色はブラックスモークっていうんです。真っ黒じゃなくて、一本の毛に濃淡があるから、縞みたいに見えるんです」と、猫の腹を撫でてみせた。

「あんまり見かけない柄だよなあ」と言いながら、勇武は三毛を床に下ろし、こんどはブラックスモークを抱き上げようとしたけれど、両手で触れるなり「うわ、何じゃこりゃ」と声を上げた。

「どうしたの?」と剛太が尋ねると、彼は「これ本当に猫?なんか異様に固太りだけど」とブラックスモークを抱え上げた。

「ほら、足もなんか太くて短いし、顔も大きくて丸いし、これで尻尾がなかったら熊だよ。エビ餃子みたいにプリップリ」

 確かにこいつはシェルターにいる猫の中でずば抜けて元気だった。要するに筋肉質で一番体力があるのだ。美蘭は「足がちょっと短いのは、マンチカンって種類のミックスだからかしら。でも可愛いでしょ?」とフォローしている。剛太もさすがに気になったのか、「僕も触りたい」と腕を伸ばしている。勇武は「見た目より重いぞ」と剛太に手渡したけれど、そこで美蘭が声をかけた。

「剛太くんさあ、小梅の猫踊り、憶えてる?この子も少しだけできるかもよ」

「本当?」

「試してみようか」と言いながら、美蘭は素早く僕に目配せして、手拍子を取り始めた。仕方ないから僕は剛太の腕の中にいるブラックスモークに波長を合わせ、ほんの少しだけ猫踊りを舞ってみせた。といっても単に、手拍子に合わせて前足を交互に振るだけのことなんだけど。

「うっわ!なんで?」と、先に食いついたのは勇武だった。

「これこれ、春菜さん、これが噂の猫踊り。なんで初めてなのにできるんだろう。こいつは見た目も変わってるし。ちょっと特殊な猫かもしれない」

「本当に?でも三十万円もするんだから、やっぱりそういう事なの?」

 春菜は半信半疑の顔つきで、息子が抱いているブラックスモークを覗き込んでいる。どうやら彼女にとって、特殊とか特別ってのは大事なキーワードらしい。

 美蘭はここぞとばかりに「やっぱり判っちゃいますよね。実はこの子、他に欲しいっていう人が何人かおられて、借りるのが大変だったんです。でもやっぱり剛太くんに一度会ってもらいたくて」とたたみかける。きっかけを作ったのは自分なのに、勇武は「そうなんだあ」とやけに感心していた。後になって「騙された」なんて騒ぐ人間は大体このパターンで、自分で作った夢の世界に自分で入り込んでしまうのだ。

「ね、剛太、この子本当にいいんじゃない?ママも気に入ったな」とか言われて、剛太もブラックスモークを抱いたまま黙り込んでいる。何せついさっき猫踊りを見たばかりだし、ここはあと一歩だけど、美蘭は敢えて沈黙を守った。三毛はいつの間にかソファの上で寛いでいるし、茶トラはまだ昼寝中だ。

 リビングは一瞬静まりかえって、部屋の隅に置かれた加湿器の蒸気だけが呼吸音みたいに響いていた。僕は駄目押しの猫踊りをやるべきかどうか迷ったけど、美蘭の指示がないので静観する。そして、ようやく剛太が口を開き、「僕、これ、にする」と言った。


「全員、秒殺だね」

 三毛と茶トラをキャリーケースに戻しながら、美蘭はそう囁いた。すでにブラックスモークはさっきまで茶トラのいた場所で丸くなっていて、ずっと前から飼われていたかのように寛いでいる。春菜はキッチンでお茶の用意をしているらしく、宗市さんは剛太に子供向けの「猫の飼い方」なんて本を手渡している。その横で勇武が「剛くん、猫に名前つけてやんなきゃ」と、こっちの方が浮かれていた。

「こいつ本当にプリプリだからさ、俺だったらプリ夫にするな。猫だからレオナルド・ネコプリオだ」

 自分で言って自分でうけてるけど、この名づけの趣味の悪さは美蘭に通じるものがある。やっぱり血は争えないってとこだろうか。剛太はそれを無視して「名前、シャークにする」と言った。

「シャークって、猫なのに鮫か。どうして?」

「だって鮫は強いもん」

 どうやら剛太は自分で先に名前を考えていたらしい。宗市さんは「そうだね、強い名前つけてあげたら、きっと元気に育つよ」と笑顔で賛成していた。


 そして宗市さんは春菜と剛太を相手に猫の飼い方を一通りレクチャーし、僕はその間に車に残してきた猫飼育セットを運び込んだ。ケージを組み立て、トイレに砂を入れ、爪とぎもセットして、三年分ぐらいまとめて働いた感じだ。作業がようやく終わる頃には、春菜の手から封筒入りの現金が手渡され、宗市さんは僕らの後見人が作ったペーパーカンパニー名義で領収書を切った。宛先はひいらぎ源治げんじの個人事務所になっていて、要するに孫の飼い猫を経費で落とすって奴だ。

 僕らが立ち去る段になって、勇武はまあまあの演技力で「じゃ、俺ももう帰るわ」とか言って後をついてきた。殊勝にも茶トラが入ったキャリーケースを引き受け、「本当に色々お世話になりました」なんて言ってるけど、彼が待ってたのは本日の報酬だ。パーキングまで戻ってくると、美蘭は宗市さんから封筒を受け取り、中から万札を十五枚抜いて「じゃあこれ、お約束したお金です」と差し出した。

「くれぐれもこの事はご内密にお願いします」と彼女が念を押すと、勇武は「もちろん!」とつんのめりそうな勢いで答え、受け取った金を数えもせず、メッセンジャーバッグに突っ込んだ。


 僕はその後も残った猫をシェルターに返しに行ったりして、ありえないほど働いたので、家に戻るとそのままベッドに直行して眠った。自慢じゃないけど僕の特技は寝る事で、暇さえあればいくらでも眠れてしまう。しかしそれを邪魔するのは三毛猫小梅だ。彼女は猫ドアから僕の部屋に入ってくると枕元に座り、ビャアビャア鳴いて夕食を催促した。

 美蘭もどこかに出かけてしまったらしくて、仕方ないから僕は起き上がってキッチンに行き、今日の餌である「キャットセレブ 比内地鶏のスープ煮」を出してやる。鬼怒子きぬこが使っていた踏み台に腰掛けて、小梅がゆっくりと食事するのを見ていると、動物の世話は本当に面倒だと思えてくる。剛太の奴、子供のくせにこんな事の何が面白いんだろう。

 そう考えると、今はどんな様子だろうかと少し気になって、僕は目を閉じると剛太に引き取られた猫、シャークに意識を飛ばしてみた。奴も寝ていたらしくて、僕に起こされてようやく起き上がるとケージの外に出る。マンションの探検はすでに一通り済ませたらしくて、少し水を飲んでから大きく伸びをした。ちょうど目の前を春菜が通り過ぎ、「剛くん!」と声を上げながら足早に廊下を歩いて行く。

 これはきっと剛太の部屋に行くに違いない。僕とシャークは春菜のスリッパの後を、音も立てずにつけてゆく。すぐにドアの開く音がして、春菜の甲高い声が降ってきた。

「もう、いつまで怒ってるの?パパの前で芸をしないからって、猫に八つ当たりしてもしょうがないでしょ。今日はせっかくパパが早く帰ってきたんだから、ちゃんと一緒にごはん食べて!」

 春菜の足のかげから覗いてみると、剛太は勉強机に向かい、手元のゲーム機を一心に操っていた。どうやらまた破壊活動に精を出しているらしい。

「もうあんな猫嫌いだ。いらない」

「剛くん!ちゃんと世話するって約束したでしょ?どうしてそんな無責任なこと言うの?」

 爆発一歩手前、という苛立ちを含んだ声は、猫の耳にはこの上なく不快だ。シャークは急いで立ち去ろうとしたけれど、僕はそれを制した。ここで返品されては今までの苦労が水の泡だ。僕はシャークを操って部屋に駆け込み、ジャンプして剛太の机に飛び乗った。そして彼の正面に回り込むと、猫パンチでゲーム機をはたき落とし、後ろ足で立ち上がると前足を軽く振ってみせた。

「あ…」と剛太の口から声が漏れた。彼は涙の痕が残っている大きな目を更に見開くと、僕とシャークを抱え上げてリビングへと突進した。

「パパ、パパ見て!こいつやっぱり猫踊りするんだ!」

 会心のトライ、と言わんばかりに、剛太は僕とシャークをコーヒーテーブルに下ろした。その正面、ソファに座っていたのは父親の貴志で、彼はいぶかしげな顔で手元のタブレットから視線を上げた。

「いい?見ててね」と言うなり、剛太は美蘭を真似て手を叩き始めた。これを無視するとまた何か騒ぎが起きそうだし、事なかれ主義者の僕は仕方なく猫踊りをひとくさり舞ってみせる。実の父親との初対面がこんな形になるとは夢にも思わなかったけど、まあ人生なんてそんなものだろう。

「ね、すごいでしょ?」

 興奮のあまり肩で息をしている剛太に比べ、貴志は落ち着きはらって「最近のペット屋は大変だな。こんな事までさせて猫を売ってるのか」と、皮肉っぽい笑いを浮かべた。

 彼は四十代に入ったところだと思うけれど、年の割に若く見える。でもその若さはどちらかというと頼りなさ、みたいな方向に振れていて、政治家としては損かもしれない。とはいえ、メタルフレームの眼鏡をかけた一重の目元は鋭くて、見るからに頭脳明晰な秀才といった感じ。これで不倫相手と路上でキスしてたというんだから、人というのは判らない。

「なんだ、剛くん、よかったじゃない。パパにも見てもらえて」

 さっきとはうって変わって穏やかな様子で、春菜がリビングに戻ってきた。不倫騒動にどう落とし前をつけたのか知らないけど、剛太は父親が好きみたいだし、春菜もうわべは仲がよさそうに見える。

「じゃあ、ごはんにするから、猫はもう片付けてちょうだい」と言いながら、春菜はさっきまで僕とシャークがのっていたテーブルに除菌スプレーを吹きつけ、ペーパタオルで丹念に拭った。剛太はシャークを抱き上げはしたものの、腕が疲れてきたらしくて、ぶら下げるようにして運ぶと、ケージの中に「片付け」た。その後ろから春菜の「ちゃんと薬用せっけんで手洗いするのよ」という声が追いかけてきた。

 


 

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