第3話 お値段いくら

 俺の撮った猫写真はかなり好評で、野中のなかさんは社長に直談判して金一封をはずんでくれた。所詮バイトの身だから、大した金額が貰えるわけじゃないが、俺はその金で麻子あさこにケーキを買って帰ることにした。

 ケーキといってもその辺のじゃなくて、最近話題の、ネットで予約しないと買えないほどの人気店。ひと月ほど前に、情報誌に載せる写真撮影に行ったコネを利用して、取り置きしてもらったのだ。四種類も。

 ところが予想に反して、麻子はこの贈り物に大喜びしなかった。

「気持ちは有難いんだけど」と、彼女は紙箱のふたを持ち上げたままで言った。

「こういう風に、ぱーっとお金を使っちゃう癖、やめた方がいいと思うのよね」

「でもさ、これは臨時収入だし、ふだんの給料とは違うから」

「だからこそ、でしょ。なかったはずのお金なんだから、とっておくとかさ。ケーキ買うにしても、一人に一つでいいもの」

 全く、せっかくの好意に水をさすような発言。俺から見ればそんなの、わざわざ楽しみを減らして生きてるようにしか思えないんだけど、口にはせず「そっか」なんて、言葉を濁しておく。

 一つ年下の麻子は看護師をしている。当然俺よりも年収が高く、家賃と光熱費と食費の大半を負担してくれて、俺はかなりヒモに近い状態で、彼女のマンションに同居している。友達の紹介で知り合ったんだけど、一緒に住むようになったきっかけは、俺がアトリエ兼下宿にしていた部屋を引き払って、そのまま実家に戻るのも面白くない、という理由での一時避難。それがなし崩し的に伸び続けているのだ。

 麻子はとにかく倹約家だ。どうも富山の実家からして倹約家族らしいけど、まず衝動買いというものをしない。外食は極力避けて水筒持参、スーパーで買い物をすれば、かごの半分は値引き品といった具合。服も滅多に買わないし、外出するときは電気のブレーカーを落とす。それでも「東京ってなんでこんなにお金かかるんだろう」が口癖で、どうも物価水準が子供時代の富山に固定されてるみたいだ。

 そこまで金銭にシビアな彼女がどうして俺のヒモ生活を容認してるのか、ずっと謎だった。敢えて聞くのは怖いから、気づかないふりで過ごしてきたけど、俺たちの共通の友人である理沙りさに言わせると、そこが鍵だったらしい。

勇武いさむって、感謝はするけど遠慮はしないもんね。つまりさ、ありがとう、いただきまーす、なんて堂々と言われちゃうと、何だかそれでいいような気になるのよ。それに、麻子って三人姉妹の長女でしょ?どうしたって相手に合わせるし、勇武みたいなダメ人間には、自分が支えなきゃって思っちゃうのよね。でもね、ずっと借りを作ってて大丈夫よ。たぶん麻子はその方が優越感が持てて、気楽なはずだから。で、最後にその借りを結婚って形で一括返済すればいいわけ。勇武の持ってる切り札は、政治家一族の坊ちゃまって事だもの。血統書つきだもんね。そうすれば麻子も実家に顔向けできるし」

 酒が入っていたせいもあってか、理沙は遠慮なく俺たちの事を分析し、ガハガハ笑った。まあ当たっていなくもないようで、別に腹も立たないけど、俺は本当に麻子と結婚するのか?という事については、うまく想像できない、というのが正直なところだ。

「まあ、買っちゃったものはしょうがないか。野中さんに感謝して、いただきましょ」

 麻子は決意を固めたようにそう言うと、ケーキを箱から出し、コーヒーをマグカップに注いだ。値段は馬鹿みたいに高いけど、その割に小さいから、二つぐらい食べないと絶対に満足しないだろう。

「この甘酸っぱさ、絶妙のバランスね」

 麻子はカシスのムースを口に運ぶなり、そう言って少しだけ笑顔になった。俺も自分のモンブランを食べてみたけど、ほんの二口か三口で腹に収まってしまって、まあ確かにおいしいんだけど、という中途半端な気分にさせられる。

「でもさ、わざわざ金一封を出してくれたんだから、勇武の写真はかなり評価されたって事でしょ?」

「ある程度はね」

「だったらさ、もっと写真やってみたらどうかな。写真の仕事が来たら、全部回してもらえば?」

 またか、と俺は思う。良かれと思っての事だろうけど、麻子は俺がちょっとした仕事をしただけで、そっちの方で頑張ってみたら?と押してくる。知り合って間もない頃、俺はまだ彫刻をやっていたし、その時はやっぱり、もっといい作品できるよ、と励まされていた。しかし残念なことに、麻子のエールは俺にはそう気持ちよくないというか、何だか見当外れで、むしろ黙っていてくれた方が有難いのだった。

「それよりさ、ここのケーキ屋って、フェイスブックに写真アップして感想コメントすればポイント貯まるんだよ。二十ポイントで五百円値引きしてくれる」

 俺は話題をそらそうとスマホを取り出したけれど、ラインが来ていたので先にそっちを確認した。送ってきたのは兄の妻、俺にとっては義姉の春菜はるなさん。

剛太ごうたが猫飼いたいんだって。ペットショップつきあってあげて」ときた。

「ちょっと、本気かよ」

 つい唸ってしまったら、麻子が心配そうに「どうしたの?」と覗き込む。「剛太が猫飼いたいらしくて」と説明した途端、彼女は「またか」って顔になり、「それで、すぐに飼ってあげるわけね」と、あからさまな皮肉をこめて言った。

「まあねえ、少しでも元気になってほしいんだと思うよ」

 身内を贔屓するわけでもないけど、結果として俺は春菜さんを援護していた。甥っ子の剛太は有名私立小の五年生だけど、もう半年以上学校に行ってない。きっかけはクラスでのいじめで、その原因を作ったのは彼の父親、つまり俺の兄である貴志たかしだった。

 貴志は国会議員である父親、源治げんじの後を継いで政治家になるつもりで、三年前に大手商社を退職してからは、源治の秘書として人脈作りに励んでいる。しかし何故か余計な人脈も作っていて、妻以外の女性と路上でキスしているところを週刊誌に載せられてしまった。

 一介の議員秘書の不倫なんてネタにもならない、と言いたいところだが、相手が「元ヤン、シンママ、美人都議」で、しかも対立政党だったので、記事は「ひいらぎ元農水相長男、路チューで父に叛旗?」として注目を集めた。そして騒ぎは剛太のクラスに飛び火し、彼は「路チュー」と呼んでからかわれた。

 更に不運だったのは、同じクラスに父親が貴志と元同僚という子がいて、「剛太のパパとママ、デキ婚なんだ。その時もきっと路チューだぞ」と暴露した事。まあ「デキ婚」なんてうまく繕えば「授かり婚」で、大した問題じゃないが、タイミングが悪かった。週刊誌の発売から三日後に剛太は学校を休み、それからずっと登校していない。

 そして剛太は学校だけでなく、スイミング、ピアノ、英会話、書道、器械体操といった習い事も全部行かなくなって、家にずっと引きこもり。一時は山村留学の話も出たけれど、これには祖父母から待ったがかかり、紆余曲折の末、先月からようやく、知人に紹介されたフリースクールに通いだしたのだ。

「剛太くんのママって、何でも先回りし過ぎじゃない?こないだも、色鉛筆欲しいって言ったらドイツ製の百二十色の奴を揃えたんでしょ?それって、全然剛太くんのためになってると思わないわ。欲しいのをずっと我慢して、努力して、やっと手に入ったっていう喜びを取り上げてるのと一緒じゃない」

 この手の話になると、麻子はとにかくヒートアップするから、俺はできるだけのらりくらりと答える。どうやら春菜さんは同性に嫌われるタイプのようで、姑である俺の母親も「ハズレ嫁」と呼んで憚らないし、親戚連中にも評判が悪い。これが初めてじゃない貴志の女性問題についても、「春菜さんも原因の一つね」なんて言われている。俺から見ると自分に素直で、変な小細工をしない人なんだけど。

「彼女としては、剛太に一生懸命になれるものを見つけてほしいんだと思うよ。それにさあ、本当に欲しいものなんて、結局は手に入らないし」

 俺は少しぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと、床に寝転がった。いつも目に入る、天井のクロスの継ぎが微妙にずれてるところをぼんやり眺めていると、麻子が硬い声で「本当に欲しいものって、何?」ときいてきた。

「さあね。それすら判んない」なんて答えながら、俺はスマホを手にとり、春菜さんに「了解。ちょっと調べとく」と返事していた。


 そうやって調べてみたものの、猫ってのは案外高くつくらしい。下手すりゃ軽の新車でも買えそうな値段の奴もいる。

 疲れているらしく、早々に寝息をたて始めた麻子の隣で、俺はようやくスマホの電源を切って目を閉じた。俺の周囲で猫を飼ってる人間はみんな、拾ったり貰ったりで、買ってくるという発想がない。しかしそういう猫では多分、春菜さんは納得しないだろう。剛太の飼う猫なんだから。

 俺が最近になってようやく理解した春菜さんの哲学は、子供だからって適当なものを与えず、息子には常に上質な本物を、って事らしい。だから服や靴はもちろん、文房具や自転車、弁当箱にバスタオルまで、品質とブランドにこだわっていて、下手なプレゼントは却って悪影響、という理由でバザーかゴミ箱送りなのだ。

 俺はかなり世間にうといので、何かあるとすぐに麻子に相談するんだけど、春菜さん関係の話は彼女の神経を逆なでするらしくて、今回の猫問題もそれ以上話はできなかった。とはいえ、彼女も春菜さんに興味がないわけじゃなく、何かあると数日後、思い出したように「で、あの話って結局どうなったの?」ときいてくる。「色々迷ったみたいだけどさ、新潟の工場で作ってる鋏を注文したって」なんて答えると、呆れ顔で「私のなんか百均で買った奴よ」と片づけるんだけど。

 まあとにかく、麻子を頼る事はできないが、猫の事は考えなきゃならない。本来は貴志の役目だけど、兄はそういう話をされても「こっちは忙しいんだ」と不機嫌になるだけらしいし。それで春菜さんが不機嫌になったら、可哀相なのは剛太だ。それにしてもあいつ、なんでいきなり猫なんてほしくなったんだろう。嫌いだとか言ってたくせに。

 そこまで考えてようやく、俺は三毛猫の小梅こうめと、世話をしている美蘭みらん亜蘭あらんの双子に思い至った。彼らなら、何かいい案を出してくれるかもしれない。


 翌日はバイトだったので、昼休みを待って俺は美蘭に電話してみた。といっても番号を知らなかったので、まずは醒ヶ井さめがい鬼怒子きぬこの管財人に電話し、そこから彼女に連絡してもらって、俺の携帯にかけてもらったんだけど。幸いなことに、十五分ほどで彼女はつかまった。

「そういうご用件ですか」

 美蘭の声を聞きながら、俺は彼女の涼しげな目元を思い出していた。あの顔は誰かに似てると感じたんだけど、やっぱりユディトだ。

 ユディト、というのは旧約聖書に出てくる美しい未亡人だ。敵の将軍になびいたと見せかけてその寝首をかき、一族を危機から救った。この話は男にとってインパクトがあるみたいで、古来多くの画家が題材にしている。俺が彼女のことを知っているのも、美術史のクラスで習ったからで、今まさに男の首を斬り落とさんと剣をふるっているものもあれば、侍女に生首を担がせて、買い物帰りのように楽しげに闊歩しているのもある。

 美蘭は色白だけど、欧米人らしい顔立ちというわけじゃない。しかしその雰囲気はやはりユディトだ。ほっそりして嫋やかにすら見えるのに、平然と男の寝首をかきそうな、胆の据わった気配がある。

「剛太くんが猫を飼うのなら。子猫はやめた方がいいわ。だからペットショップもお勧めしません」

「どうして?子猫の頃から飼った方が慣れるんじゃないの?」

「あんまり関係ないわ。子猫って確かに可愛いけど、世話がけっこう大変。食事の間隔も短いし、トイレのしつけもあるし、何より体力がないから病気が心配。それに、小さいうちに親兄弟から離すと、社会性が身に着かなくて、平気で人を噛んだり引っ掻いたりする事もあるし。大人ならまだしも、剛太くんみたいな子供だったら、猫のこと怖くなったりするかもしれないわ」

「へえ、そういうものなんだ。やっぱり猫のことよく知ってるなあ」と、俺はつくづく感心していた。

「じゃあ君と弟さんなら、どういう猫を選ぶ?」

「少なくとも、一歳にはなってる猫。それ位なら、もう性格がはっきりしているから。もちろん雄なら去勢済み、雌なら避妊手術済み。丈夫で、気立てがいい子かな。血統書なんかいらないし、短毛の方がお手入れが楽だわ」

「なるほど。でもさ、そんなに大きな猫だったら、もう誰かの飼い猫だろ?まさか野良猫を拾ってくるわけにもいかないし」

「大丈夫よ。三日ほど待っていただけたら、何匹か準備できるから、剛太くんとお見合いすればいいわ。うちは小梅がいるので無理だから、そちらまで連れていきましょうか」

「そうなの?じゃあええと、剛太の家でお見合いできるように、話つけておくよ」

「判りました。あと、猫を飼われるのが初めてなら、必要なもの一式そろえておきますね」

 ちょっと情報収集するつもりだったのに、美蘭はさっさと話をまとめてしまった。高校生でこのレベルなら、社会人になる頃にはとんでもない事になりそうだ。おれはかなり気圧されながら「あの、その猫ってのは、お値段いくらぐらい」と肝心な質問をしていた。

「避妊か去勢の手術とワクチン代は実費で、ケージや何かは上代の八割をいただきます。そして猫本体ですけど」と、美蘭は言葉を切った。

「立ち入った事をうかがいますが、ご予算いくらほどで考えておられました?ペットショップの相場ぐらい?」

「う、まあ、そうかな」

「つまり剛太君のご両親は、それくらい出すつもりなのね」

「まあ多分、よっぽどの事がない限りは」

「そして柊さんは、間に立っておられるだけ」

「そうです」

「判りました。正直に申し上げますが、猫本体は無料です。ただし、柊さんも私も、いわば無報酬で動いてるわけですし、少しはお礼していただきたいですよね。ですから、剛太くんのご両親には、猫の本体価格として三十万円申し受けます。これを柊さんと私で折半しましょう。ちゃんとした請求書も領収書も出しますから、ご心配なさらないで。じゃあ、いつお伺いすればいいか、ご連絡をお待ちしています」

 よどみなく流れる美蘭の言葉は、俺の頭の中でいつまでも回り続けていた。

「柊くん、大丈夫?」

 後ろから野中さんに肩をたたかれ、俺はようやく我に返ってスマホを耳から離した。

「あれでしょ、どっかの採用面接とかうけたんだ。背中に緊張感みなぎってたもの」

「いやいや、そんなじゃないけど、ちょっと慣れない用件で」

「そう?でもさ、正社員の口とか、ちゃんと探した方がいいと思うよ」

 そう言いながら、野中さんは「どうぞ。金田くんの草津温泉土産」と、饅頭の入った箱を差し出した。

「他のバイトの子と違って、柊くんはじき三十だし、彼女さんも心配してるでしょ」

「そうっすかね」とごまかしながら、俺は有難く饅頭を頬張った。

「柊くんて天邪鬼なところがあるからさあ、頑張れって言った途端にやる気なくしたりするもんね。なんかあれ?頑張ってもできなかったら恥ずかしいとか、そんな事先読みしてるの?」

「まさかまさか、励ましはいつだって嬉しいです。ところで野中さん、いきなり十五万円手に入ったら、何に使います?」

「十五万?大金なようで、そうでないような」と、彼女は大げさに首をひねった。

「家族四人で旅行いったら十五万なんか一瞬だしなあ。それなら予算三万円の外食五回の方がいいかな。それとも、こっそりパールのピアスでも買うか…でも、あんたその十五万、どうしたの?」

「いや、俺じゃなくて、友達が競馬で勝ったらしくて」

「そういう時は次のレースに突っ込むんだよ!他人の儲け話なんか面白くもない」なんて言いながら、彼女は二つ目とおぼしき饅頭を食べ始めた。俺はといえば、やっぱりこの十五万円、貯めるなんて夢にも思わず、春菜さんに「猫、見つかりそうです」とラインで送っていた。



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