第2話 ハカイ、ハカイ、ハカイ
「もし土曜にまた逃げたら、あんたを坊主にして後頭部にタコの刺青彫るからね」
この猫は最近ようやく僕と美蘭のきょうだい喧嘩にも慣れたらしくて、猫ドアをくぐってキッチンに入ると、僕の足元に寄ってきた。まずは餌の匂いを嗅ぎ、「本当にこれしかないのか?」と言いたげな目つきでこちらを一瞥し、それからようやく口をつける。
小梅は飽きっぽい性質で、「猫貴族」シリーズ四種類を順番に食べ、それから「キャットセレブ」と「にゃんヘルシー」をそれぞれ五種類。このローテーションを何度か繰り返し、それでも飽きたら駅前の商店街にある鶏肉屋で、プレミアムハーブ地鶏のささ身を買ってきてやらないといけない。病気になったりしたら、別のメニューがある。
たかが猫なんだけど、そうまでする必要があるのは、彼女が僕らの住む洋館の亡き女主人の飼い猫だからだ。遺言書には、小梅が天寿を全うするまで屋敷の売却および改装は厳禁、手厚く世話するようにとあり、別に用意されたマニュアルの「小梅
僕と双子の姉、美蘭は少し前からここに住んでいる。なんせ古いから、あちこちにヒビだの穴だのあって、そんなに住み心地は良くない。でも小梅の世話をすることで、亡き女主人の管財人からちょっとした手当が出る仕組み。ただ、その金は僕らの後見人に流れて、こっちの懐には入らない。おまけに半月ごとに獣医の安田先生が来ては健康状態をチェックするので、手抜きをするわけにもいかない。
獣医の相手なんて面倒なので、僕はそういう役目は全て美蘭に任せている。今日も誰かが猫の写真を撮影しに来るという話だったので、避難していた次第。
「撮影なんか一瞬で終わらせればよかったのに。どうしてまた来させるんだよ」
僕は土曜も逃げる考えでいたけれど、美蘭の脅しは必ず実行されるので、その点では慎重にならざるを得ない。
「やろうと思えばできたけどさ、来たのがこいつだったんだもの」
そう言って、美蘭はポケットから出した名刺をカウンターに放り投げた。僕はそれを手にとってみる。
「
「だからさ、その名字」
「え?柊、って、もしかして」
今更かよ、という美蘭の表情に、僕もようやく気がついた。
僕と美蘭は
とはいえ、聖母でもない限り処女懐胎は無理な話で、僕らにも父親はいる。彼の名は
「この人、僕らの親戚とかなの?」
「貴志の弟だよ。つまり私たちの叔父さん」
いきなりそんな事言われても、どう反応していいか判らない。僕は名刺をもう一度よく見てみた。
「アルバイト、だって。まだ学生なのかな」
「もう二十九だよ。貴志とひと回り離れてるんだから。出来の悪い弟がいるって噂はつかんでたけどね。美大で彫刻なんかやってさ、モノにならずにぷらぷらしてやんの」
美蘭は心底馬鹿にしたように肩をすくめた。
「それにさ、
彼女は冷蔵庫の前に行くと、腕を伸ばしてその上にある吊棚から籐の籠を下ろした。中には小梅とよく似た毛色の、モルモットのぬいぐるみが入っている。
「この仕掛けにあっさりハマった。二十歳過ぎた猫があんな高い場所に登るわけないのに。馬鹿だよね」
そう言って、美蘭はぬいぐるみを手の中で転がした。元はといえば小梅のおもちゃだけど、これを本物と見間違えるのはたしかに馬鹿かもしれない。
「その間、小梅は?」
「屋根裏にね、ちょっとだけ」
獣医にばれたらまずい話だけど、僕らは小梅をまあまあ大事にはしている。
「でもさ、この人が本当に叔父さんだとして、土曜にまた来させてどうするの?」
「とりあえず、お金だね」
美蘭は空になった籠を吊棚に戻しながらそう言った。
「誕生祝いとお年玉と、入学祝いにその他いろいろ。本当だったら叔父さんから貰ってるはずのお金がずいぶん保留になってるからさ、まとめて受け取らなきゃ」
「でも、僕らのことって秘密だろ?」
「第三者にはね。でも勇武さんは身内だから問題なし。私みたいな可愛い姪っ子がいるって判ったら、きっと喜んでくれる。あんたの事は知らないけど。少なくとも、似てるとは思うだろうね。二人ともすごく間抜けだから」
そこまで言うと、美蘭は身を乗り出し、「もうごちそうさま?お腹いっぱい?」と小梅に話しかけた。立派な猫なで声だけど、人間には滅多にこんな声をかけない。小梅は餌入れにほんの少し食事を残して「ビャア」と鳴き、口元を舐めまわした。それからキッチンの隅に行くと、自動の水飲み器で「富士山の恵み」をゆっくりと味わい、猫ドアから出ていった。
そして土曜の午後、僕は逃走せずに柊勇武の訪問を待った。別に美蘭の脅しが怖いわけじゃなく、叔父さんってのがどんな奴か、見たかっただけだ。実のところ、父親の貴志は祖父である源二の秘書をしているから、たまにニュースの映像に映り込んだりして、その姿は知っている。細面に眼鏡をかけた秀才タイプで、何だか少しも自分の親だとは思えないけど、勇武はどうなんだろう。
約束の三時を少し過ぎた頃に、勇武は門のインターホンを鳴らした。それまで二階の自室にこもっていた美蘭は足早に降りてくると、居間のソファで寝ていた僕に「小梅連れてこい」と声をかけ、玄関に向かった。
僕は窓辺に行き、陽だまりで丸くなっている小梅を抱き上げる。細くて骨ばってるけど、毛並みはそう悪くなくて、まだ元気そうな感触。とりあえず応接間に行けばいいんだろうか、と思いながら居間を出ると、ちょうど外から勇武が入ってきたところだった。
彼は「どうも、お邪魔します。弟さん?」と、笑顔を僕と小梅に向けた。兄の貴志に比べると、全体的に丸みのある感じで、体つきはこちらの方がしっかりしている。僕は「あ、はい。
勇武の後ろに隠れるようにして立っていたのは、小学校の高学年らしい男の子だった。色が白くて、眼ばっかり大きく、まるで人形みたいな感じで、細い首が余計にその印象を強めている。彼は周囲を拒否するみたいに、自分の足元に視線を落としていた。
「すみません。急にベビーシッター頼まれちゃって。大人しい子なんで、邪魔はしませんから」なんて、勇武は高校生の僕ら相手に、やたらと腰が低い。美蘭は「気になさらないで」とか言ってるけど、目が笑ってないというか、明らかに「何だよこのガキ」と思ってる。勇武は「ほら、ゴウくんもごあいさつして」と促し、男の子はうつむいたまま、かすれた声で「ひいらぎ、ごうたです」と自己紹介した。
「同じ名字、って事は、ご兄弟?」と美蘭が尋ねると、勇武は「甥っ子なんです。人見知りなもんで」と、男の子の愛想のなさを肩代わりするように、あははと笑う。僕と美蘭は思わず顔を見合わせていた。
普段ほとんどお互いの目も見ない戦闘状態なのに、予想外の事が起きると何故かこういう反応になってしまう。もしかして、この男の子は僕らの弟って奴だろうか。美蘭はすぐに僕から目を逸らすと、人間向けの猫なで声で「ごうたくん、名前はどんな字書くの?何年生?」と質問した。
「質実剛健の剛に太い、で剛太。五年生です」という返事があり、美蘭は僕にだけ聞こえるように「名前負け」と呟いた。そして僕から小梅を抱き取ると「剛太くん、猫は好きかな?」と続けた。
「好きじゃない。意地悪そうだし」
「だよねえ」
美蘭はそのまま小梅を僕に突っ返し、勇武に向かって「じゃあ、撮影始めましょうか」と事務的に切り出した。勇武は剛太の素直すぎる発言に気をもんでいたらしく、勢いよく「はいっ!」と叫んでカメラを手にする。
「どこでも好きな場所で撮ってください。後は弟が猫をセットしますから。座るのも寝るのも、ご要望次第」
「ポーズまで決められるの?本当に?」
勇武は半信半疑だけど、簡単な事だ。何故なら僕は一度でも触れたことのある猫なら、思い通りに操ることができるから。もちろん猫によって相性はあるけど、写真撮影なんか楽勝だ。
「じゃあ、一階から始めていいですか?居間の、古い方のソファで撮りたいんですけど」
「わかりました」と頷いて、美蘭は勇武を居間に案内した。小梅を抱いた僕もそれに続き、後から剛太がついて来る。美蘭はソファの上にあったクッションをどけて場所をつくり、僕はそこに小梅を下ろすと、少し離れる。それから一度深呼吸して、この三毛猫の中に潜った。
お腹はそう空いてなくて、気分はまあまあ。少し眠いけれど、人間の相手が嫌な程じゃない。目の前では勇武がカメラのモニターをのぞいていて、上から美蘭の声が降ってくる。
「ポーズ、こんな感じでいいですか?」
「ちょっと頭を上げて、カメラの方なんて、向きますかね」と、勇武は半信半疑だ。
「大丈夫です」という返事を合図に、僕は小梅の身体を少し起こして首を持ち上げ、視線をカメラに合わせる。勇武は「おお?」なんて言いながら、慌ててシャッターを切った。
「丸くなったりもできますか?」
「もちろん」
そして僕は小梅の背筋から力を抜き、ソファの上で身体を丸めると、前足に顎をのせた。目を閉じるとそのまま寝てしまいそうなので、ずっとカメラを見ておく。勇武は心底驚いた様子で「すごいなあ」と声をあげた。その後ろでは剛太が、死ぬほど退屈そうな顔つきで立っている。
居間から始まった一階での撮影は順調に進み、僕らは二階へと移動した。勇武は剛太に「行くぞ」と声をかけたけれど、彼は「ここで待ってる」と言って窓辺の椅子に座り、リュックから取り出したゲーム機で遊び始めた。
階段を上りながら、美蘭が「大人しい子なのね」と言うと、勇武は「まあちょっと、心配なぐらい」と苦笑した。
「俺が小さい頃は、少しもじっとしてられなかったんだけど、あの子は本当に物静かなんです」
「でも心配するほどじゃないわ。うちの弟なんて、小学校の頃は、意識がないのかと思うほどぼんやりしてましたから」
「それは言い過ぎじゃないかな」
勇武はフォローしたけど、実際のところ僕はひどくぼんやりした子供だった。学校の授業なんかいつ始まっていつ終わるのか、てんで見当がつかなくて、周りの動きと美蘭の命令に従って行動していたし、忘れ物は日常茶飯事。上履きとかハンカチとか、身の回り品は面白いように失くしたから、僕の傍にはブラックホールがあると言われた。
そして極めつけは何と言っても「神隠し」。学校や寮に迷い込んできた猫をかまっていると、知らないうちに同調してしまって、自分と猫の区別がつかなくなる。で、百葉箱の下とか、下駄箱の裏とか、誰も気づかないような場所で、猫を抱えたまま半日ほど座り込み、最後は美蘭に「回収」された。
まあ、僕が猫と同調しやすいのは偶然であって、この動物に特別な思い入れはない。今のように、多少は役立つこともある能力ってところだ。
勇武の希望を聞きながら、僕は小梅を窓枠とかベッドの上にのせ、言われた通りの姿勢をとらせ、シャッターを切るのに十分な間、静止させた。小梅は年寄りだから、動き回りたいという欲求が極端に少なくて、簡単なことこの上ない。撮影なんかあっという間に終わってしまった。
「いやあ、こんなにうまく進むとは、ちょっと予想してませんでした」
仕事が片付いて安心したのか、勇武は来たときよりずっと寛いだ様子でソファに座り、美蘭が出した紅茶を飲んでいる。彼が一人だったら、ここからが勝負というか、叔父さんと僕らによる感動のご対面と、小遣いおねだり活動に展開するはずだったけど、予想外の客、剛太がいるのでそうもいかない。
「アップルパイ焼いたの、召し上がる?」なんて上品ぶって、美蘭はトレイを運んできた。ずっしりと中味の詰まったアップルパイが載ってるけど、もちろん彼女がそんなもの作るはずなくて、宗市さんに焼いてもらったに決まってる。
「すごいな、手作りか。遠慮なくいただきます」と、勇武は何も疑わずに皿を受け取る。美蘭が「剛太くんもどうぞ」と声をかけると、彼はこちらに背を向けたまま「アップルパイ嫌い。ピザとか酢豚のパイナップルも嫌い。果物の焼いたの、大嫌い」と言った。
「だよねえ」と頷いて、美蘭はトレイをテーブルに置き、勇武の隣に腰を下ろした。
「確かに、果物は加熱すると酵素が破壊されるって言いますものね」なんて言ってるけど、内心は「このクソガキ」だろう。勇武は慌てた様子で、「剛くん、人が出してくれたものに、そんな失礼な言い方しちゃ駄目だろう」とたしなめ、「すいません、あの子ちょっと偏食があるもんで」なんて言い繕ってる。
「気になさらないで。自分の意見をはっきり主張できる日本人なんて、むしろ頼もしいわ」
「いやいや。でもこれ、本当に美味しいね。お店で売れるよ」
勇武はさかんに褒め言葉を連発してるけど、それはまんざら嘘じゃないだろう。僕は抱いていた小梅をクッションの上に下ろすと、美蘭から一番遠い場所に座り、アップルパイを一切れとった。少し温めてあって、まず発酵バターとシナモンの香りが鼻をくすぐり、それから肉厚な林檎の甘さが噛むごとに舌に広がってゆく。美蘭も「自分で焼いた」とか嘯いてたくせに、陶然とした顔つきで味わっているんだから、説得力がない。
「それにしても弟さん、本当にこの猫のこと、思い通りに扱えるんだね。正直いって半信半疑だったけど、びっくりしたよ」
あっという間にアップルパイを平らげてしまった勇武は、手を伸ばして小梅の背中を軽く撫でた。
「あの程度の撮影なら、簡単すぎるくらい」と、美蘭は得意げに微笑んで紅茶を飲んだ。
「てことは、もっと色々できるのかな」
「そうね」と言って、彼女は立ち上がり、小梅を抱き寄せるとまた腰を下ろした。
「猫踊りなんかも得意かしら」
「猫、踊り?って、どんなの?」
「それはこうして」と、美蘭は小梅を膝にのせたまま手拍子を始め、僕に一瞬だけ視線を投げる。やれ、って合図だけど、何をどうすればいいんだか。仕方ないので僕は小梅に同調すると前足を持ち上げ、美蘭の手拍子に合わせて猫踊りらしきものを舞ってみせる。途端に勇武は「マジで踊ってる」とのけぞった。本当に単純な男だ。
「これ、犬みたいに調教したんですか?」
「まあ少し違いますけど。他にもあるの、お見せしましょうか」なんて、美蘭は次のネタに入ろうとしたけれど、僕はそういつまでも言いなりになる気はない。日頃の鬱憤を晴らすチャンスでもあるので、美蘭の鼻の孔に狙いを定め、思い切って猫パンチをお見舞いした。
「ふお!」という悲鳴が聞こえて、見事命中。爪は出してないから流血沙汰にはならないけど、これで美蘭は怒り狂ってるはずだ。勇武は「大丈夫?」なんて言いながら「やっぱり猫は猫だなあ」と納得してる。僕は反撃を逃れるため、何食わぬ顔をして席を立ったけれど、振り向いたところで、椅子から伸び上がってこちらを見ている剛太と目があった。どうやら僕たちの騒ぎが気になったらしい。というか、美蘭は彼の気を引くために猫踊りをやっていたのだ。
剛太はすぐに僕から目をそらし、また俯いてゲームを始めた。一体何のゲームをやってるんだか。さりげなく後ろから近づいて覗き込むと、ひっきりなしに小さな声が聞こえる。
「ハカイ、ハカイ、ハカイ」
彼はそう繰り返していた。かすれた、怒りを含んだ声で、彼が「ハカイ」と唱えてボタンを押す度に、小さな画面の中では赤と黄色の禍々しい炎が明滅する。
なるほど、と僕は思う。子供ってのは傍から見られてるほど気楽な商売じゃない。むしろ思い通りにならない事の方が多く、しかも自分では状況を変える力もなくて、ひたすら耐え忍ぶしかなかったりするのだ。剛太が一体どんな生活をしてるかは知らないけど、このひねくれ具合からすると、まあ色々あるんだろう。
「そのゲーム、面白い?」
別に興味もないんだけど、僕は何故かそう尋ねていた。剛太は一瞬びくんと肩を震わせ、それから恐る恐る、といった感じで僕の方を振り返ると「つまんない」と言った。
「ふうん。つまんなくても、やるんだ」
「だってしょうがないもの」
それだけ言うと、彼はまたゲームを覗き込み、「ハカイ、ハカイ」と唱え始めた。
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