第10話 決戦

 そしてひと月後、ついにその時が訪れた。

 一平との約束通り高瀬右京たかせうきょう率いる織田勢五百は、舟岡ふなおか山の麓より真っ直ぐに手取川の河原を掛け上ってきた。

 もちろん、途中の山々に物見の兵を向かわせてはいたが、右京にはこたびの戦の主戦場が、あの瀬木野せきのの河原より更に里の奥へと入った、鳥越城とりごえじょう辺りになるであろうと感じていたのである。

 そして一方、一平が予想していた通り、木村三蔵さんぞう率いる織田の別働隊八百も、観音山の南斜面をゆっくりと白山の里目指して侵攻していた。

 一平はこの知らせを聞くと、直ちに佐良善宗さがらぜんそうを大将に、村人達をそれぞれの持ち場へと配置した。


 相馬一平そうまいっぺい率いる鉄砲隊百名は、瀬木野の河原より少し先の広瀬ひろせの河原に場所を構えた。

 もちろん彼らの鉄砲隊には里山の村人達三百人も加わっている。

 鉄砲の射撃手の中には、腕に心得のある半数の僧兵も混じっている。当然その中には孫一やあの七坊丸しちぼうまるもいた。

 彼らは広瀬の河原いっぱいに広がると、それぞれ竹や板木いたぎを編んだ盾を何重にも施した。

 そこに四人一組の鉄砲班が百組ほど身をひそめているのだ。織田勢側から見ると、まさにそれはちょっとしたとりでのようにも見える。

 一平はその砦の真ん中に一本の旗を立てた。旗には大きく『おのれ』という一文字が記されている。

 この一向衆の布陣に、はじめ高瀬右京は驚いた。

 白山の里奥深くにある鳥越城での攻防を予想していた彼にとって、城を出て戦う一平達は想定の範疇はんちゅうではなかったのだ。

 右京は三百人の鉄砲隊を先頭に、一平達との距離をなお縮める。

 彼は鉄砲隊を二人一組とし、一方が射撃手、もう一方が竹で作られた畳一畳ほどの盾を持つ防御手とした。

 そして、それらの組には、一向一揆側の発砲と同時に前進することを伝えていたのである。


 「よいか、敵方が鉄砲を撃ったならば、すぐさま二人一組となり五十歩まで歩みを進めるのじゃ。ただし、絶対にこれ以上は進むではないぞ。これ以上時間が経てば、次の充填じゅうてんが終わり二発目を食らうことになるからじゃ。そして、二発目の発砲の後、射撃手は十分に狙いを定めて一人ずつ討ち取るのじゃ。さすれば、やがて敵方の鉄砲の陣を切り崩すこととなろう」

 さらに右京は織田方の鉄砲隊を、その弾がお互い届かないであろうぎりぎりの位置まで押し進めた。


 彼からはすでに、一向一揆の砦に掲げられた『己』と言う旗文字がはっきりと読みとることができる。

 しかしよくよく見ると、旗に記された『己』の文字は、上下が逆さに書かれている。兵のひとりが、それを小馬鹿にした。

 「敵はよほど慌てていると見えるぞ。何と旗の文字が逆さまではないか」

 しかし右京には、この旗の意味がすぐに読みとれた。

 「逆さ『己』とは、己を犠牲にしてでも守るべきものがあると言うことの意味なのか。いかにも一平らしい旗じゃのう」

 そう呟くと、彼は采配を右手に掲げ鉄砲隊を横一線に配置した。まさに、一揆軍と織田軍とは一触即発いっしょくそくはつの体勢が整ったことになる。


 一方その頃、火燈山の南斜面でも、佐良善宗率いる一向一揆軍が中ノ峠なかのとうげの切り通しの上で、木村三蔵率いる織田軍の到着を待っていた。

 彼に従った一揆軍は、百名程度の僧兵と里山の男達の計二百数十名である。

 彼らは皆、半弓を手にし、背中にも一間の槍を背負った。まさに一人で数人分の働きをする覚悟である。

 そしてその中には、太助や村の若い男達の姿も混ざっていた。

 「何としてでも、織田勢をここで食い止めるのじゃ。まずは仕掛けたわなを用いよ。続いては弓じゃ。それでも敵方が峠を越えるようであれば、槍による突撃をかける。槍が折れたら太刀たちを抜くのじゃ。それでも叶わぬ時は、己の肉体を盾にしてでも絶対に食い止めるのじゃ」

 善宗の言葉には鬼気迫ききせまるものがある。

 「じゃが、けっして死に急ぐことだけはあってはならんぞ。それでは己の魂が、犬死となってしまうからじゃ」

 太助達はこの言葉に少しの驚きを感じた。以前の彼からは想像もできない言葉であったからである。

 太助は心の中で思った。この佐良善宗の中にも、一平が常日頃より実践している生への執着心しゅうちゃくしんが芽生え始めて来たのだと。

 「相馬様・・・」

 太助はもう一度彼の名前を呟いた・・・


 広瀬の河原に織田軍が到着した頃、河内かわうちたにに築かれたせきにも数名の若者達が集まっていた。

 彼らの役目は一平達からの合図とともに、堰を開け、濁流を一気に手取川へと流すことにあった。そのため、河原が見える高台より堰までの間に、彼らは一人ずつ合図の旗を振る為に配置されているのだ。

 すでに河内の堰には秋の長雨のおかげでもあるのだろう、満々と水を蓄えた湖ができていた。

 一平より堰を切ることを任された惣次郎そうじろうは、仲間の茂吉もきちとその合図が来るのを待っている。

 その惣次郎や木を切り出すことを生業なりわいとしている彼の仲間達は、今回の堰造りにも大いに役立ったのである。それに感心した一平が、作戦の一番大切な役割を彼らに依頼したのでもあった。

 惣次郎らも、この一平の気遣いを大いに感じていた。彼は今回の大役を間違いなく果たすため、山奥に住む仲間達を呼び集めた。よって、はじめ数人で充てられていた人数も、今ではかるく二十人を越えている。



 そしてついに、一向一揆軍と織田軍との戦いの火蓋ひぶたは広瀬の河原で切って落とされた。それは一揆側より、しびれを切らして発砲した一発の銃弾から始まった。

 織田勢は一斉に前進の合図でもある法螺貝ほらがいを鳴らす。同時に第一陣の鉄砲隊が、二人一組になって織田の陣より走り始める。

 これに呼応こおうするかのように、一向一揆側も一斉に射撃を開始した。

 織田の鉄砲隊は盾をかざして一度足を止めると、鉄砲の音が止むのを待った。そして銃声がしなくなるのを確認すると、再び一揆軍の砦を目指し進んで来るのである。

 一平はこの時を待っていた。

 彼だけではない。一揆側の射撃手は、すでに次の火縄銃を手にすると、心の中で十数え始めている。

 それは、戦いの前に一平が彼らに教えていたことでもあったのだ。


 「よいか、銃は合図と供に一斉に撃つのじゃ。さすればその後、織田勢はきっと前進してくるはずである。その時に射撃手は火縄を持ち替え、十数えるのじゃ」

 すかさず孫一が尋ねる。

 「相馬様、何故十数えなければならないのですか?」

 一平は火縄の銃口の先より弾を押し入れるふりをしながら答える。

 「火縄銃はどんなにその使い手が上手でも、弾込めには二十数えなければならん。そこで、織田の兵も心の中で十五数えるまで近づいてくるはずじゃ」

 「しかし、我らにはひと班三丁の銃がございまする」

 七坊丸も合点がいかぬ様子である。

 「そうじゃ。そこで鉄砲を撃てるはずがないと思っている織田勢を十分に引きつけてから、一斉に狙いを定めこれを撃ち抜くのじゃ」

 皆はごくりとのどを鳴らした。

 一平のこれほどまでの考え方に、空恐ろしいものまでも感じたからである。

 彼は言葉を続けた。

 「そして、まず狙うは射撃手のみじゃ。織田の陣に逃げ帰る者はそのままにしておくのじゃ。そして・・・」

 更に言葉を繋ぐ。

 「一度織田の前進を食い止めたら、我らは瀬木野の河原まで後退するのじゃ。そこでまた、これを繰り返す。瀬木野の河原で食い止めることができたら、次は河合の河原まで後退じゃ。その時、瀬木野の河原にいる織田軍めがけて河内の堰を切る合図を送るのじゃ」

 「もし織田勢がそれよりも早く、瀬木野の河原を越えてきたら?・・・」

 孫一は一平の顔色を伺った。

 しかし一平はこれには答えず、村の者達に念を押す。

 「けっして勝ちにはやってはいかん。必ず撃っては次の場所まで引くのじゃ、よいな」


 こうして彼らは一平からの教え通りに、十を数えた。

 「・・・しち、はち、く、とう」

 一斉に百丁の火縄銃が織田勢めがけて狙いを付ける。と同時に、河原には雷にも似た轟音ごうおんが鳴り響いた。

 防御を取る暇も与えられなかった織田の兵達は、崩れるようその場に倒れていった。

 最初の一撃で、五十人以上もの死傷者を出した織田勢は、慌ててもとの位置まで陣を下げる。

 これには流石の高瀬右京もきもつぶした。

 それでも彼はすぐに気を取り戻すと、すかさず後方に控えさせておいた槍隊に別の指示を与え、前面の一揆軍をにらみ返す。

 ところがそんな彼の気負きおいとは裏腹に、相馬一平率いる一向一揆軍は目の前の陣を簡単に引き払うと、そのまま後方へと後退を開始しているのである。


 「一平―っ、何を考えておるのじゃ!」

 右京は声に出して怒りをあらわにした。

 彼は再び前進を始めると、瀬木野の河原まで後退した一平達の後を追った。


 手取川の銃声が周りの山々に響き渡っていた頃、ここ中ノ峠の切り通しでも、一向一揆軍と織田軍との戦が始まっていた。

 最初一揆軍は切り通しの上から、織田勢めがけて大石や丸太を落とした。

 不意を付かれた織田勢には死傷者も出たが、それでも戦慣れした織田方はすぐに体勢を立て直す。

 さらに戦上手の木村三蔵は、切り通しを二手に分けて迂回うかいし、佐良善宗らの背後へと回り込んだ。そして彼らが気付く間もなく、善宗の陣めがけて織田勢は突進してきたのである。

 彼らは兵の数にものを言わせて、接近戦に持ち込もうとしてきたのであった。


 たちまち一向一揆軍は窮地きゅうちに立たされた。

 それに加え、織田の兵が持つ槍は二間半にけんはんと太助らのものよりもはるかに長く、まともにぶつかっては敵うはずもない。

 そこで一向一揆軍は、中ノ峠より火燈山の森へと戦う場所を移すことにした。ここならば、むしろ槍は短い方が扱いやすく、それに様々な山の地形に慣れていない織田軍よりも太助らの方に一日いちじつちょうがあったからである。

 前半押され気味であった一向一揆勢も、徐々に反撃を開始し始めていた。

 太助は半弓を携えては、敵陣深くまで分け入り次々と織田の兵を倒して行く。

 槍の使い手の林抄りんしょうも負けてはいなかった。彼は二本の短槍たんそうを見事に使いこなすと、時には斬り時には突いて、織田の兵をひとりまた一人と倒していった。

 僧兵達も決死の戦いをしている。

 それは、数人の織田兵を道連れに崖より飛び落ちた者や、斬られてもなお、敵の兵にみついて抵抗する姿からも伺い知れることができた。


 これらに織田方の兵達は恐怖した。

 しかしそれでも、次から次へと新手あらてを繰り出す織田勢に対して、一向一揆側も少しずつその体力が奪われてきた。

 善宗は残った兵を集めると、最後の突撃を行うむねを伝える。


 「皆もよう戦った。ようせいを全うしてきたものじゃ。これより織田勢の中を強行突破する。一人でも多くを斬り、そのまま山を下るのじゃ」

 善宗は静かに両の手を胸の前で合わせた。僧兵達は一言も喋らずに、これに続いて手を合わせる。

 「南無阿弥陀仏・・・」

 太助は心の中でそう呟くと、静かに太刀を抜いた。


 前面の森に織田勢の旗指物はたさしものがうごめいている。

 それでもなお佐良善宗率いる一向一揆軍は、己の生を全うするためにその森へと突進して行ったのである。

 太助は手傷を負いながらも、その手に太刀を握っては前へと進んだ。

 その太助の目に、四方から槍で突かれた林抄の姿が映った。彼は腹に刺さった槍を自ら引き抜くと、その槍で織田の兵を三人重ねて突いてみせた。しかし同時に、それは太助が見た林抄の最後の姿でもあった。

 佐良善宗も複数の矢をまといながら、それでも前に進むことを止めなかった。彼は最後、立ったままの状態で静かに呼吸することを止めていた。

 こうして、火燈山南面における佐良善宗率いる一向一揆軍と木村三蔵率いる織田軍との死闘は、一応の決着がつこうとしていた。


 そして半時後、火燈山へと向かった一向一揆軍が全滅したという知らせが、一平の元にもたらされた。同時にそれは、白山の里へのもう一方の入り口が、織田軍によってこじ開けられてしまったということを意味する。

 一平は直ちに、村人達を鳥越城へと避難させようとした。

 しかし、不思議なことに木村三蔵の織田軍は火燈山口よりこの里へと攻め込むことはなかった。

 何故なら、彼が率いてきた軍勢の内、その三分の二以上にもあたる六百名ほどがすでにこの戦で死傷していたからである。その数は実に、一向一揆側の三倍にも達していた。

 その上、足を負傷した木村三蔵は、やむなく軍勢を松任城へと引き返えさせたのであった。


 「太助・・・」

 一平は心の中で血の涙を流した。

 隣では孫一が火燈山の方を向いてえている。


 「相馬殿、前面の織田勢が瀬木野の河原近くまで押してきていますぞ」

 急に徳兵衛の声で、一平は我に返った。

 「いま少しじゃ、いま少しで織田勢を瀬木野の河原まで誘き寄せることができる」

 そう言うと、一平は鉄砲隊に叫んだ。

 「今じゃ、放てーっ」

 再び一平達一向一揆軍は、織田方に多大な損害を与えると、今度は全体を河合の河原まで後退するよう指示を出す。

 村人達を含む鉄砲隊は、一斉に後退を開始した。ところが・・・


 ところが、当然後を追ってくるはずの織田軍は、瀬木野の河原の手前から一歩も前に進もうとはしないのである。

 そう、この時高瀬右京は後退をする一揆勢に、いや相馬一平に何かただならぬものを感じ取っていたのである。

 彼は軍を整えると、静かに状況を分析し始めた。

 「兵の数では、まだこちらの方が多いはずじゃが、いったい一平は何をたくらんでおるのじゃ」

 そこへ、右京の元にも火燈山からの知らせが届いた。知らせを聞いた彼は、前面の一揆軍を構成する者達の内、兵と呼べる者はほんのわずかであり、ほとんどが里の村人であるということを確信した。


 一方、後退しつつある一向一揆側にも変化があった。

 孫一は織田方が追撃してこないということを知ると、村人らを先に河合の河原へと急がせた。

 そして、彼を含む若手衆に声をかけると、両手に鉄砲をたずさえ、今まで陣を張っていた瀬木野の河原へと引き返し始めたのである。これには、七坊丸をはじめ何人かの僧兵も従った。

 途中これに気付いた一平は、すぐさま孫一達を迎えに出ようとしたが、それは徳兵衛らによってはばまれた。

 「相馬殿、孫一らの気持ちがお分かりにならぬのか」

 徳兵衛は一平の両肩に手をかけると、その目から涙を流す。

 「あやつらは、相馬殿の策を成し遂げるため、この戦で白山の里を生き残らせんが為に己を捨てる覚悟で戻ったのでございまする」

 「ならん、けっしてそのようなことがあってはならんのじゃ」

 一平は彼の身体にすがり付く何人もの村人を振りほどくと、それでもなお瀬木野の河原に向かおうとする。

 その彼の行く手を阻むかのように、こうが一平の前にひざまく。


 「先日、一平様は敵方に捕まった太助らを救おうと、太刀も持たずに出て行かれました。でもけっしてご自分は死ぬために行くのではない。生きるために参るのだと仰せになりました。孫一らも同じでございます。けっして彼らは死ぬために戻ったのではございません。私たちを生かすために、そして自らの生を全うするために戻ったのでございます」

 そう言う香の目からは、涙が止めどなく溢れ出る。

 「それは、一平様がお作りになられた、あの旗を見ればお分かりになられるはずでございます」

 香は瀬木野の河原にはためく一本の旗を指さした。

 そこには孫一達が掲げる逆さ『己』の文字がはためいている。


 「孫一―っ、孫一―っ!」

 一平は何度も何度も彼の名を呼んだ。


 一方、河原についた孫一達は、早速竹の盾を配置し、鉄砲に弾を詰め込んでいる。

 「よいか織田の兵が攻め込んできても、この瀬木野の河原より一歩も先へは通すでないぞ。ここで食い止め、時間をかせぐのじゃ」

 「おうーっ!」

 孫一のげきに、河原へと戻った数十人の若者達は、みな覚悟を決めた。もちろん運命を供にした僧兵らもである。

 彼らはにじり寄る織田勢に向けて、鉄砲の狙いをあわせた。


 その時、期せずしてときの声が上がった。見ると、揚原山より瀬木野の河原へと続く斜面を織田の別働隊が駆け下りてきたのである。その数およそ二百。

 そう、その前すでに高瀬右京が後方の槍隊に対し指示を出していたそれである。

 槍隊は一目散に孫一達の陣へと突入した。

 孫一達もこれに鉄砲で応戦する。見る見る河原は両軍の死傷した兵であふれる。そして、これに呼応こおうするかのように前面の右京率いる鉄砲隊も歩みを進めた。

 しかし、勝敗を決するのにそう多くの時間は必要としなかった。

 最初こそ聞こえていた鉄砲の音も、今ではほとんど聞こえない。まさに瀬木野の河原は一向一揆軍の屍と織田勢で埋め尽くされていたのである。


 一平は身を乗り出して、河原に横たわる大きな岩の上の一点を見つめた。

 そこには、あの孫一が河内の堰へと続く山に向かって、大きく旗を振っている姿があった。

 「惣次郎―っ、茂吉―っ、今じゃ、堰を切るのじゃーっ」

 その孫一目掛けて、織田の鉄砲が一斉に火を噴く。

 彼は何発もの銃弾を浴びつつも、それでもただひたすら旗をひるがえらせる。そしてついに、その合図は次々と伝えられ、惣次郎達にも届いた。

 「合図じゃ、茂吉、堰を崩すぞ!」

 惣次郎と茂吉は堰を繋ぎ止めている縄を斬った。

 しかし、目の前の堰は崩れるどころか流れ出す気配すらない。

 「惣次郎、堰が崩れんぞーっ!」

 見ると、堰を繋ぎ止めている縄が途中で切れている。当然、それに繋がれているはずの添え木や丸太はぴくりとも動かない。

 惣次郎は斧を手にすると、堰の川底へと駆け下りる。

 「よいか、茂吉。上のくいを抜くのじゃ。同時に、わしが底の縄を断ち切る」

 「惣次郎、そのようなことをしたら、お前も濁流と供に流されてしまうぞい」

 茂吉は木の板を手で動かそうとしてみたが、板はびくともしない。


 惣次郎は枯れるほどの大声で叫んだ。

 「茂吉、今やらねば里の者すべてを失うことになるのじゃ。早く杭を抜くのじゃーっ」

 「惣次郎―っ」

 茂吉は半狂乱になりながらも、堰の杭を抜き始める。堰の下へと続く川道には、少しずつその濁った水が流れ始めた。

 川底の惣次郎も、手にした斧で次から次へと丸太を繋いだ縄を切り始めた。

 やがて、堰を止めていた丸太や石と供に、貯めていた水が一気に堰を崩した。一瞬にして濁流は鉄砲水となり、地響きを伴いながら河内の渓から手取川へと流れ出した。


 「惣次郎―っ、惣次郎―っ」

 目の前を流れる濁流の中に、茂吉は何度も何度も彼の名前を叫んだ。


 その頃、孫一らを制圧した織田勢は、瀬木野の河原に新しく陣を構えようとしているとことであった。

 そこに突然、山筋より鉄砲水が襲ってきたのである。織田軍は逃げる術も無かった。

 手取川へと放出された水は、そこにある全てのものを飲み込みながら、濁流となって川下へと向かう。それは一瞬のできごとのようでもあり、永遠に長く続く時間の連続のようでもあった。

 一平達は、目の前のできごとにしばし我を忘れていた。

 ふと気が付くと、すでに瀬木野の河原に横たわるあの大きな岩の上には、旗を持つ孫一の姿は何処にもなかった。

 「孫一までもが・・・」

 一平は水嵩みずかさの増した手取川にひざまでつかると、震える唇を噛みしめた。


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