第5話

 そう思っているうちに客席上の電灯がゆっくりと消え始め、それに合わせて一度は聴いたことがある洋楽のボリュームが増していく。ナイトミュージアムで聴いたあれだ。きっと始まるのだ。音楽が止まり、舞台の方に灯りがついた。端整な顔の優男がスポットライトを浴びている。ライトの影響もあるだろうけれど、男の肌は血の気が引いたように真っ白だった。

「それは波の音だった。それは地鳴りのようだった。微かな揺れはあっという間に大気を割いた。地が脈打って怒りをマグマの如く噴き出したかに思えた」

 どういうことだ。と思ったけれど、こういうものはきっと適当に程よく受け流しながら噛み砕いて聴いていけばいいのだろう。

 横目に見た晴野さんが真剣に見入っていて、良かったと思った。

 舞台は歌って踊っての舞台だった。話はなんというか、どういうことなのかわからなかったが(僕が素人だったからだと思いたい)、面白いか否かで言えば面白かった。訳の分からなさが面白かったとも言える。なんで急に歌うのか、なんで急に踊るのか分からなかったけれど、それが癖になった。ラストは啜り泣く声も客席中から聞こえて、ああ、ここは泣けるシーンなのかと納得した。宿敵である褌姿の天狗をテンガのような槍——というかテンガで貫いた主人公の姿はブリーフ一枚で、その天狗は実は主人公の父親だったらしく、泣き合い抱き合い謝り合って死んでいったが、そんな姿だったから僕はギャグなのだと思ったのだ。静かに笑っていて良かった。声を出して笑っていたら白い目で見られたに違いない。ていうかこんな下ネタ丸出しの舞台が人気急上昇ってどういうことなんだ日本。

 上演が終わって、カーテンコールというやつがあった。それくらいは流石に知っていた。みんなでお辞儀をするやつだ。と思っていたら、ただ礼をするだけでは済まないらしい。一度舞台袖に去って行って、よし立とうと思ったらなかなか拍手が鳴りやまなかった。おや、と思っていると、また舞台袖から役者のひとたちが現れて、もう一度深く頭を下げた。よし今度こそ、と思ったら、この舞台をやることになった経緯について話し始めた。僕は興味がないので心底どうでもよかった。周りを見れば何人かはそそくさと席を立っている。なんだ聞かなくてもいいのか。僕もそうしたかったけれども、晴野さんが舞台同様真剣に聴いているから出るに出られない。

 舞台上に目を戻すと主宰だという二枚目な青年は、僕より一回り年上だそうで、青年という呼び方は正しくなかった。かれこれもう二十年芝居をしていて何か思うことがあって劇団を立ち上げたのだそうだ。啜り泣く声はまだ止まらない。彼の熱いスピーチも終わらない。なんというか新興宗教のような雰囲気があった。新興宗教をよく知らないけれど。

 よく見ればその人を見たことがあった。ドラマに出ていた。昨日のやつだ。昨日のドラマで主人公の刑事の後輩でお調子者なやつだ。ああ、と声を出しそうになって、声帯が震える前にここは家じゃないと口を閉じた。

 どれほどその主宰が話しただろうか。十分は優に超えたと思う。それだけ話して、ようやくお辞儀をして拍手が起こった。つられて僕も拍手をした。立ち上がろうとしたとき、「それでは当劇団恒例のじゃんけん大会を行いたいと思います!」と宣言された。まじか。

「それではみなさん、お手数ですが席をお立ちいただいて、手を天高くつきあげてください!」

 ぞろぞろと周りの客たちが立っていく。僕の目の前で揚々と晴野さんが立ち上がるのが見えた。さっきまで暗かったのに客席のほうの明かりも付いてしまった。その瞬間、晴野さんの姿が見えなくなってしまった。彼女の姿を見るのには明るさが関係しているのだろうか。それにしても、四面楚歌のように立ち聳えられてしまっては出ていくことはできなさそうだ。仕方なしに立ち上がって、右手を挙げた。壇上の主宰の合図でじゃんけんをしていく。一戦目、勝ってしまった。二戦目、勝ってしまった。三戦目、勝ってしまった。四戦目、勝ってしまった。

 ああ、とか、わあ、とか、負けては座っていくひとたちを後目に僕は最後まで残ってしまった。壇上に呼ばれた。行きたくねえ。けれども、姿が見えなくなる前に、晴野さんが勢いよく立ち上がったのを思い出して、彼女に渡せばいいかと思って壇上に向かう。向かう道中はまるで僕もその舞台に出ていた役者のようだった。客席中から視線を感じる。かなり気恥ずかしい。僕の後ろでは姿の見えない晴野さんがひゃあとかうおおとか言っていた。きっと喜んでくれるだろう。壇上につくと、拍手が起こった。

「おめでとうございます! こちら、当劇団の特製Tシャツです! 今回のスタッフのサイン、全員分あります。裏方さんたちのぶんもありますよ」

 小さく笑いが起きた。笑うところだったのか?

 受け取って、礼をする。「意外と恥ずかしがり屋?」と聞かれて苦笑いした。こんな状況で恥ずかしがらないやつはいないだろう。そそくさと壇上を降りて、席に戻る。そしてようやく、解放された。壇上で深く頭を下げた面々が舞台袖に降りていって、また戻ってくるかと警戒したが今度こそ終わった。ぞろぞろと出口に向かう客と混じって僕も出ていった。劇場を後にして外に出ると、晴天で目が痛かった。袖をぐいと引っ張られて、「面白かったですか?」と晴野さんに声をかけられた。

 スマホを耳にあてる。

「面白かったよ。こういうの、初めて見たからよくわからなかったけれど、面白かった。また見たいと思ったよ」

「よかった」

「晴野さんは面白かった?」

「面白かったです! 大満足です! ありがとうございました!」

「このまま成仏しちゃうくらいの勢いだな」

「それは困りますね。私を突き落とした犯人を見つけなくちゃ……でも、確かにもう成仏していいかもしれないとも思うんですよねえ」

 晴野さんの顔は見えないけれど、どこか嬉々としているように思えた。

「本当だったら見ることの叶わなかった舞台を見ることが出来たわけですし、今幸せな気持ちなんです。犯人を見つけたって、この幸せな気持ちに勝るとも思えないですし」

「じゃあこのまま成仏しちゃえば?」

「はい、と頷けないのが乙女心です」

「幽霊心じゃない? 知らないけど」

「かもしれませんね」

 晴野さんが笑った。

「犯人、誰なんだろ」

「友達がいないんだから友達の線は消えたわけでしょ? ほかにいるとしたら? あ、でも友達じゃないにしても恨みを買っていた、なんてことはあり得るんじゃないかな。君の人となりを知らないから適当だけど」

「私、恨みを売っていたんでしょうか……」

「ドラマの定番だと、痴情のもつれだよね。君が知らないだけで君のことを好きな誰かがいて、その誰かを好きな誰かがいて、そいつに恨まれた、みたいな」

「ああ、私もててたのかな」

「嫌な女みたいなセリフだ」

「やめてくださいよ、悪女は苦手です」

 ふうん。僕はほとんど歩いたことのない下北沢の街を当てもなく歩いた。空腹なのでどこか飲食店に入りたかったが、あてもないのでどこに入ろうか迷う。

「そういえば、さっき劇場で君の姿が見えたよ」

「え」晴野さんが止まったようで、袖がどこかに引っかかったように伸びた。おかげで行きかう人たちに変な目で見られた。

「なんだって僕の上に座ったのさ?」

「あ、え、あ、あっと。えっと」

「まあ、僕も僕で恥ずかしくて君の姿が見えているなんて言えなかったのは悪いと思うけど」

 半分本当だ。

「その、月並みですけど」

「うん」

「恋愛をしてみたかったので」

「はあ」

「膝の上に座ってみたりして」

「うん」

「でも途中から舞台に集中しちゃってそれどころじゃなかったんですけど」

「だろうね」

 どんどん前につんのめっていった晴野さんの姿を見て、ああ、楽しんでいるんだなとは思っていた。

「忘れてください。幽霊ですし」

「オーケー、忘れる」

「あ」

「なに?」

「少しは覚えていてもいいですよ? あなたもてない人でしょうから」

「失礼だな」

 ふふふ、と晴野さんは笑った。

「さて、じゃあ犯人探すかあ」

 返事を聞いてまた歩き出した。歩きながら、考えた。

「犯人像がまったくわからないけれど、そういえば、どうしてあのマンションに? 家はあそこなの?」

 上の階にいけば家族向けの大きな部屋が用意されていたので、もしかしたらそこに住んでいたのだろうか。

「違います。全く知りません。どうしてあそこにいたのかわからないんです」

「記憶からなくなった一時間で見知らぬマンションにどうしてやってきたか、がわからないとどうしようもないみたいだなあ」

「一時間で、どうしたんだろう」

「知らねえよ。思い出してくれ」

 うーん、と晴野さんはうなった。一時間で人は衝動的に死にたくなるものだろうか。心理学を学んでいないのでそういうことは詳しく知らないが、突発的に自殺を図ろうとすることはあるのだろうか。以前、うつ病のひとが自殺するのは鬱状態が軽減して自殺をする元気が出たから行動に移すと聞いたことがあった。けれども話している限り、晴野さんがうつ病だったとは思えない。それに、落ちていく一瞬であったが、あの時見た晴野さんの顔は鮮烈に記憶に焼き付いているが、疑問に思っているような顔だったように思う。都合よく記憶の中で形作っているだけかもしれないが。

「あ、私」

 ふと晴野さんが声をだした。

「あの劇団さんのことをよく知っているんですけど」

「だって好きなんでしょ?」

「はい、追っかけレベルです」

「きも」

「そういうのひどいですよ。女の子はみんな何かしらを追いかけたくなるんです」

「ほんとかよ」

「あなたは何か追っかけるほど好きなものとかないんですか?」

「ないかな」

「無味乾燥な人生ですね」

「ほっとけ。流れるように生きるのが僕だ。それで、劇団がどうしたの?」

「その、私があの劇団の舞台を見に行きたいって言ったのは、大学に行って、いずれはあの劇団のスタッフになりたいと思っていたからなんです」

「なるほどね。たしかに素人目でも衣装とか小道具っていうの? あれとかすごかったもんね」

「そうなんですよ、すごいんです! 細かいところまで手を抜かないというか!」

 晴野さんの劇団談義が始まった。適当に聞き流しながら、でも、その夢も絶たれたのかと思うと、かわいそうに思った。

「だから、見れてよかったと思いました」

「そう」

「成仏してもいいくらい」

「でも嫌なんでしょ」

「はい」

「わがままな幽霊だな」

「死んだんだから少しくらい我儘言ってもいいじゃないですか」

「そうやって悪霊が生まれるんだろうな」

「それは嫌ですね……」

 今度は僕が笑った。生前にこの子と出会っていれば、もっと仲良くなれたかもしれない。どうやって出会うのかとか、現実的に考えたら考えるだけ無駄だけど。

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