第4話
これだ、というものを見つけるまで一時間はかかった。なんでも舞台というやつは、日本中いたるところで毎日のように上演しているらしく、僕の住む東京でも数多く上演されているらしかった。今日だけで両手の指じゃ足りないほどの舞台があるらしい。全く知らなかった。ドラマや映画と違って、ジャンルだけではなくて流派のようなものもあるらしい。そんなことを晴野さんは嬉々として話していた。一時間ほど探して、これと決めた舞台は家のある調布から二十分ほどで着く下北沢でやるらしかった。画面で見つけたときからこれがいいと言って聞かず、僕はどうでもいいのでその熱意に押されるがまま外出の準備に取り掛かった。
「本当にいいんですか?」
「いいよ、別に。冬休みで暇だったし。本当にこれでいいの?」
「はい!」
生きているように目が輝いていた。よっぽど好きだったんだな、と分かる。
「じゃあ行こうか」
僕はコートを着て、玄関に向かう。連れていくのは良いけれど、晴野さんの姿が見えないからついてきているのかわからないかもしれない。と、思っていると、コートの袖口が何かに引っ張られた。
「ありがとうございます」
声だけが聞こえた。どうやら相変わらず右後ろにいるらしい。
「別にいいってば。ちゃんとついておいでよ」
返事がした。玄関を出て、鍵を締め、エレベーターに向かう。エレベーターを待っていると、晴野さんが話しかけてきた。
「あの、私の姿って見えてるんですかね」
「いや、見えないけど」
「じゃあ、迷子になったら大変ですね」
「そうかもね。でも離れられないんでしょ?」
「あ、そうでした」
エレベーターがやってきた。乗り込む。
「エレベーターってあまり得意じゃないんですよね」
「なんで?」
「狭いところがあまり好きじゃなくて。もっと小さいころ、私田舎のほうに住んでいたんですけど、お父さんに叱られるたびに物置に入れられていたので……」
「ああ、そうなんだ。僕もその経験あるよ」
「そうなんですか?」
「うん、僕は大学進学で上京してきたから。実家は東北なんだ。家にも物置っていうか、納屋があってさ、そこに自前の米とか置いておくんだけど、親父に叱られたときはよく入れられたよ」
「物置仲間ですね」
「なんだそれ」
笑った。変な仲間ができたものだ。
「つうか、君の姿が見えなくても、声は聞こえるんだね」
「あ、そうみたいですね。でも、こうやって話していたら、傍から見たら危ない人ですよね」
「そうだね」
晴野さんが言う通りだった。僕はそこに晴野さんがいる、会話しているとわかるからいいけれど、傍から見たら——霊能力のないほとんどの人からしたら——僕が危ない人にしか見えないことは相違ないだろう。どうしたものか、と思って、名案を思い付いた。スマホを取り出して耳に当てる。
「何してるんですか?」
晴野さんが訊ねてきた。待ってましたとそれに答える。
「電話している振り」
「どうしてですか?」
「こうすれば、君と会話していても電話しているだけだと思われるでしょ。いちいち電話してるやつのスマホの画面なんて見ないだろうし」
「ああ、なるほど! そこまでして私と話したいんですね。照れますね」
「別に話さなくていいなら話さないけど」スマホをポケットに押し込もうとした。
「嘘ですごめんなさい。ちょっと嬉しくて」
「何が」
「死んだことは残念ですけど、こうやって、なんか、色々お話できる人ができたことが嬉しくて、ちょっと舞い上がってます」
時折、晴野さんは胸に来ることを言う。
「幽霊だから無条件で浮足立っているんですけど」
ふふふと笑った。ブラックジョーク過ぎて僕は笑えなかった。
「あれ、面白くありませんでした?」
「洒落にならないってやつだな」
またふふふと笑った。ずいぶんと楽しげだ。
エレベーターを降りて駅に向かって歩く。晴野さんは浮いている、と言っていたけれど、ちゃんとついてきているだろうか。
「ちゃんとついてきてる?」
「はい、今後ろにいますよ」
「なんか、メリーさんみたいだな」
「ああ、電話するたびに近づいてくるやつですね」
「そうそう、どんどん近づいてくるやつ。子供のときはあれも十分怖かった」
「今はもう怖くないんですか?」
「君に会ったからね。怖くないかな」
「酷いですね、まるで私が幽霊みたいな」
「だから幽霊なんだってば」
「そうでした」
揚々と晴野さんが話す。
駅に着くまでもさんざんと話した。改札を通ると、晴野さんが「無銭乗車で捕まりませんかね」と言ってきたけれど、幽霊にまでお金を払わせることはないだろう。電車の中ではさすがに自重したらしく話しかけてこなかった。ただ、時折コートの袖口を引っ張ってきたので、そこにいるのはわかった。調布から京王線に乗って明大前まで向かう。準特急なのでたった二駅であるが、間が長い。田舎に比べれば短いけれど、都内沿線に乗っていると長く感じた。ついさっきまで晴野さんと話していて、それが消えてしまったから、というのもあるかもしれない。明大前について電車を降りた。小さく、「いる?」と声をかけると、「はい」と聞こえた。ちゃんと着いてきているらしかった。ホームの階段を登り、反対側のホームに歩く。
昼時でもやはり東京は人が多い。昼時だからかもしれないな——多分美味しいランチのお店があるんだろう、と考える。あったところでいつ行くかもわからないけれど。反対のホームについて電車を待つ。今度は京王井の頭線に乗り換えるのだ。数分待つとホームに井の頭線が滑り込んできた。あまり人は降りない。渋谷方面に向かいたい人が多いらしい。乗り込んで、窮屈な車内でつり革につかまった。袖口を強く掴まれた。見ればそこに人の手はない。どうやら晴野さんが握っているようだった。そこを見ていると、中年の脂汗を垂らしたサラリーマンがこちらを怪訝そうに見ていた。
おかしな風に見えただろうか、と考えてみる。おかしいか。袖口が急に締まるんだもんな。やっちまったな、と思いながら、何も知らないふりを決め込んで、下北沢に着くのを待った。二分もすればついた。早いもんだ。
とっとと降りて、改札を抜ける。そこでスマホをまた耳にあてた。
「大丈夫だった?」背後にいるであろう晴野さんに声をかけると、力なく、
「おじさんの息が臭かったです……」と言ってきた。思わず笑った。
死んでも嗅覚はあるらしい。
「そりゃ災難だったね」
「SOS出したのに何もしてくれないんですもん!」
「出してた?」
「袖握ったじゃないですか!」
「ああ、あれがそうだったのか、さっぱりわからなかった。ごめんごめん」
気づいたとしても何ができるだろうか。相手は幽霊なんだから対処のしようがないだろうに。すこし怒り気味の晴野さんの気を紛らわすために、「これから行く劇場はどこなの?」と聞いてみた。意外と効果があって、今まで後ろに引っ張られていた袖が今度は前に引っ張られるようになった。まるで犬の散歩のようだな、と思った。田舎にいたときは、小学一年生のころから飼いだした雑種の金太郎の散歩係が僕だった。そのときと同じような感覚がある。袖を引っ張る力がどんどん強くなって、楽しみにしているのであろうことが伝わってきた。ぐんぐんとさして知らない下北沢の街を、見えないナビゲーターに先導してもらいながら歩く。雑貨屋だったり、カレー屋だったり、いろいろあるもんだなあと思いながら周りを見ていると、はたと袖が止まった。
「ここです!」
ふふん、と短く鼻を鳴らした。さながら馬のようだった。
「なんか失礼なこと考えてます?」
「べつに。ここかあ。じゃあ入ろうか」
「はい!」
劇場に入っていく。映画館みたいにロビーがあって、そこでチケットの受付をしているようだった。どうやら僕が知らないだけで、名のある劇団らしく、ロビーには贈られた花がいくつも飾ってあって、中には昨日のドラマの主役から贈られたものもあった。
「すごい人たちなんだ」
「最近人気急上昇中の劇団さんです、きっと面白いですよ!」
へえ、と返して当日券を買いに行く。さすがに受付までスマホを耳にあてたままでいるのは気が後れたので、スマホを一度ポケットに押し込んだ。なんでもキャンセルが出て生まれたラスト三枚だったらしく、運がいいですねと受付のお姉さんに微笑まれた。後ろで晴野さんも「ラッキーでしたね!」と言っていた。もし買えなかったらどうするつもりだったんだろう。
受付のお姉さんが笑顔を絶やさず「七五〇〇円です」と言ってきて、思わずえ、と聞き返してしまった。高くね? そんなにするの? ゲームソフト一本分だぞ。聞き取れなかった体を装って、もう一度「七五〇〇円です」と言われたときはお姉さんに負けじと微笑んで、諭吉を一枚差し出した。背後で晴野さんが「すみません」と小さくいった。気にすんな。ちょっとびっくりしただけだ。ちょっとというかかなりだけど。チケットとお釣り、それと何かパンフレットのようなものをお姉さんから受け取って、受付を離れた。パンフレットやチラシがたくさん陳列してある隅のほうは人が少なかったので、そちらの方に行くと、晴野さんがもう一度「すみません」と謝ってきた。
「気にすんなって。ちょっとびっくりしただけ。で、これ面白いんでしょ?」
「はい、それは自信をもって言えます!」
「ならいいよ」
と返して陳列されているチラシを適当に眺めて、本当に舞台というものがたくさんあるのだと理解した。いくつかチラシを手に取って見てみる。最近だとアニメやゲームを原作とする舞台もやっているらしかった。
「そろそろ席に行きましょう」と背後から晴野さんに言われて静かにうなずいた。映画館と違ってどうやら飲み物やポップコーンは売っていないらしい。薄暗い劇場に入って、チケットに記載されている座席に向かう。その最中、何やら音楽が流れていることに気付いた。映画だとコマーシャルみたいなものだろうか。
指定席はなかなかに舞台から遠かった。近い席だと舞台からわずかに一メートルくらいしか離れていないように見えたし、なんだかもったいない気もした。しかしそこである発見があった。薄暗い劇場に入ると、晴野さんの姿が少しだけ見えるのだ。それが果たして僕だけなのか、ほかの人にも見えているのかわからないけれど、純度百パーセントで文字通り透き通って見える晴野さんのことをほかの人も見えているのだとしたら、なかなかにやばい気がする。見えませんように、と願いながら席に座った。おそらく明るさが関係しているのだろう。晴野さんは僕の前で、立ったままもじもじとしていた。回りを見ると、まだ隣席には客が来ていないようだったので、これ幸いと少しばかり見える晴野さんに声をかけた。
「どうやって見るつもりなの?」
晴野さんがうーん、と首を傾げた。
「なんなら僕は外で待っていようか?」
「それはだめです! 一緒に見ましょう!」
「でも、席に座って見たいでしょ? 浮いて見ることが出来るならいいけど」
「う、浮いて見ます」
そう言って晴野さんは僕の膝の上に腰掛けた。言動が嚙み合っていない。
晴野さんは僕が今晴野さんの姿を見ることが出来ているとわかっていないようだった。なんだって急にそんな行動をとったのかわからなかったし、正直、気恥ずかしいので遠慮したかったが、それと同じか上回るほど、このまま膝に座っていてほしいと懇願する自分もいた。悲しき男の性だった。しかしこんなのがもし誰か霊能力をもっていて見えてしまう人に見られてしまったらと思うと気が気でないのも事実だった。けれどもそれよりも、可愛い女の子に膝に座られる、というその事象のほうが大切だった。いくら幽霊であろうと、だ。されてみればされてみたで欲が出るのが人間なんだなと思った。
段々と客席が埋まっていって、僕の両隣の席も埋まった。晴野さんが邪魔にならないように少しひじ掛けに体重を預けて見ることにした。ありがたいことに席はゆとりがある作りになっていたから、ひじかけにもたれても隣の人の迷惑にはならないようだった。
舞台上に人が出てきて、客席からちらほら歓声があがった。始まったのかと思ったら、晴野さんから、「前説です」と言われた。なんだそれ、業界用語か? 舞台壇上にいる男性は携帯電話の電源を切れだの飲み物は飲むなだの、注意事項を列挙して最後に一発ギャグを放って去っていった。客席の半分くらいは笑っていたけれど、もう半分は静かなものだった。僕は舞台への向き合い方がわからず後者になっていたが、晴野さんはそんなに笑えるのかと感心するくらい面白そうに笑っていた。さっきの男性のアナウンスでは、あと少々で舞台が始まるらしい。
さっき渡されたパンフレットでも見るかと開いてみたら、さっき手にとって見たチラシがたくさん挟んでいるだけで、パンフレットでもなんでもなかった。狐につままれた気分だった。閉じて、膝上の晴野さんを見る。そわそわとしていた。ていうか、なんで僕の上に座れるのだろう。さっき電車の中ではおじさんとおじさんの間に潰されるようにいたはずだ。まったく姿が見えなかったから想像もつかなかったけれど、今はその姿が見えるから気になってしまった。もしかしてあのおじさんの怪訝な顔はそこに晴野さんがいたからだったのだろうか。けれども今の周りに人がいる状況で声をかけるほど僕は肝が据わっていないので、あとで尋ねてみようと思った。
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