第3話

 口をゆすいで鏡に向き合う。僕の右後ろでその女性は話し始めた。

「私、自殺なんてしてないんです。本当は誰かに突き落とされたんです」

「誰か、って。突き落とされたとき一緒にいた人のことを覚えてないの?」

 静かにうなずいた。

「忘れてしまったんです」

「忘れた?」

「落ちていくところは覚えているんです。でも、その前が朧げで」

「まるでドラマみたいな都合の良さだ」

「そういわれても困ります。まさか、死んだらこんな風になるなんて思いもしなかったですし。生前から殺されるようなことをしていたわけでもないですけど」

「まあ確かに。僕も死んだ人と会話できるなんて思いもしなかったよ。でも、覚えてないって、どういうことなの。落ちて頭をぶつけたショックで記憶が飛んだ、みたいな? うちより高いところから落ちたならありえなくはないか」

 僕の部屋は十五階建てマンションの七階にある。ここより上から飛ぶのはまさしく自殺行為だ。話していて、飛んだ試しがないから何とも言えないと思ったけれども、何かしらに頭をぶって記憶喪失になった、なんて話はこの世にごまんとあるからそう考えるのが妥当だろう。

「ビルから飛んだら記憶が飛んだ——なんか小説っぽいですね」

 ふふふとまた女性は笑った。笑い事じゃねえんだよ。

「犯人捜しを手伝ってほしいっていうけど、そんな記憶もないんじゃ無理じゃない?」

「そこをなんとか」僕の肩にすり寄るように嘆願された。

「無理でしょ。ていうか出てってよ。死んだのはかわいそうだとは思うけれど、結局は他人だし——君の名前知らないくらいの他人だよ」

「私は晴野五月はれのさつきです」

「自己紹介されてもね」

「なんで! 名前知らないって言ったから教えたのに!」

「いや、名前を知ったところでさ」

「なんですか」むすりとされた。

「僕は君となんの関係もないんだよ。あるとしたら、せいぜい君が死ぬ前に一目見ただけ——ただそれだけの関係だ。関係と呼んでいいかも怪しいくらいの関係だ。それなのにどうして僕は憑りつかれなきゃ——」

 納得した。僕はこの女性に——この幽霊に憑りつかれた。最悪だ。

「なんで僕は君に憑りつかれなきゃいけないんだよ」

「知らないですよ。私だって好きで憑りついたわけじゃ——あ、この状況がよくホラー映画とかである憑りついている状態なんですね!」

 少し嬉しそうだった。

「喜んでんじゃねえよ。いい迷惑だ」

「そんなこと言われたって。こんな状況は現実じゃそうそうないですよ?」

「そうそうあってたまるか!」

「そうですよね……私が憑りつかれる側なら嫌だなあ」

「両親に教わらなかった? 自分が嫌なことは他人にするなって」

「教わりましたけど……これは不可抗力ですよ」

「不可抗力って。なんで憑りつかれたんだろ……」

 検討するに、もうなんとなく目星はついていた。死ぬその前に目が合ってしまったからだろう。今の僕にはそれ以外に思いつく理由がなかった。まいった。災難だ。最悪だ。いくら可愛いからって、美人だからって、幽霊はごめんだ。大学生が女ならなんだって腰を振ると思ったら大間違いだ。僕はそこらの盛りのついた獣じゃない。

「それしかないよなあ」

 ため息を漏らすと、そいつ——晴野さんは申し訳なさそうな顔をした。

「あの、すみませんでした。私があなたを見てしまったばっかりにこんなことになってしまって」

「いいよ。文句言ったってしょうがないのはわかってた。ごめんね」

「謝らないでください、私が悪いんですから」

「そりゃそうだけど」

「そこは普通否定しません?」

「しないよ、なんで否定するのさ?」

「……失礼ですけど、あなた彼女できたことないですよね?」

 急につんけんとした態度でまさしく失礼なことを聞いてきた。

「塩まいたら効くのかな」

「やめて!! ごめんなさい! プライベートに首突っ込んですみませんでした!」

「あ、でもさ、もし塩で君が除霊されるんだとしたら、それはそれでよくない?」

「困ります。私は私を殺した犯人を見つけたいんです」

「でも、警察の人が遺書があったって言ってたよ」

 昨日来た警察は確かにそう言っていた。あまり詳しい話はされていないけれど、自殺の線で間違いないだろうとのことだった。だったら最初から僕を疑うんじゃねえよと悪態をつきたかったのを思い出した。

「それはきっと嘘です」

 晴野さんがそう言い切った。

「警察が嘘つくの?」

「……ドラマだと警察が汚職しててなんてよくある話です!」

「そうかもしれないけれどそれはドラマでしょ? こっちは現実。死んだ君と話をしているなんて現実味がないけれどね」

「そう、そこです! 死んだ張本人が言っているんですよ! 私が嘘をついてどうするんですか!」

 よくよく考えればそうだった。死人に口なし——ではないのだ。余計なことばかり言う口のようではあるが。

「言われてみれば。でもさ、じゃあ警察が見つけた遺書っていうのは君を殺した犯人が書いたってこと?」

「多分そうです」

「死ぬ前の記憶が朧げなのに?」

「朧げですけど、私はそんな遺書なんて書いた記憶がありません」

「そもそもの記憶がないんだから、書いたことを忘れているだけかもしれないじゃん」

「それはないです」

「ずいぶんと言い切るね」

「記憶が朧げなのは、突き落とされるところから少し前までですから」

「少し前——ってどれくらいさ?」

「一時間、とか?」

 あまりのショックでその間の記憶だけが抜け落ちた、ようなことだろうか。

「ほんと、都合のいい記憶喪失だなあ」

「私もそう思います……でも、本当に、私は自殺する気なんてなかったんです……」

 鏡越しに見た晴野さんの顔は、生気を失って悲壮感がより満ちていた。死んでるんだから当然だけれど。でも、頬を伝った涙は生きている女性のそれと同じくらい男である僕の心をつかむ力はあった。

「ああもう、わかったよ、犯人捜し手伝うよ」

「本当ですか!?」

 変に除霊して悪霊みたいになられても困るし、なんというか、女の涙は武器だった。それは生きていようと死んでいようと変わらないらしい。

 最悪だ。最悪な冬休みだ。けれども、ドラマに夢中になるよりも、どこか、心のどこかでこの状況を楽しく思える自分がいた。不謹慎だけれども。

「とは言っても、僕は素人だから、そんなに力になれないと思うよ?」

「大丈夫です」

 何が大丈夫なんだよ。

「何せ被害者の私がいるんですから!」

 晴野さんは胸を張ってそう言った。

 どうやら大事なところを忘れていることを忘れているらしい。けれど、確かに被害者である晴野さんから証言を取れることはドラマや小説にはない強みだと思う。だったら、僕も頑張ってみるか。

「早速だけれど、交友関係とか教えてもらえる?」

「え」え、じゃねえよ。

「その、どうしても言わなきゃ——」

「ダメだろ。普通。何、もしかしてやばい友達とかいるの?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「じゃあなにさ」

「あの、その、私、友達いないんです」

「さっきジョジョ貸したって言ったじゃん」

「貸したなんて言ってません! 勧めたって言いました!」

「勧める友達はいたんでしょ?」

「いえ、その、ツイッターのフォロワーさんで……」

 無言。

「……やっぱ自殺なんじゃないの」

「それは違うって言ってるじゃないですか!」

「ああ、友達はいなくても知り合いはいる的な? 友達と呼べるほど仲良くないけど、ってやつ?」

「そういう人もそんなにいなくて……」

「現実的に考えたらそんな人が君を殺すわけないか」

 無言。

 さっきまでの威勢はどこかへ消えて、今は幽霊らしく存在が希薄だ。

「彼氏とかは?」

「生まれてこの方できたことがありません」

「じゃあ、そういう、なんていうの、肉体関係だけの友達とかは?」

「セクハラですよ!!」

「んなこと言われたって実際にそういうやつがいるんだからさ」

「いるんですか?」

「いるよ。彼氏できたことないって言われて、いざと思ったら——ってそっちの話はどうでもいいんだよ。そういう——男関係で恨まれてたりって線を考えたんだよ。……セクハラっぽくなったのは謝る。ごめん」

 実際にいたんだ。大学一年のときに出会った女性で彼氏はいないが——忘れよう。

「でも、本当にいないんだな? 今更嘘言ったってお互い困るだけなんだから本当のことを言ってくれよ」

「本当にいません。それ以上言うなら呪いますよ」

「もう呪われてるようなもんだよ」

 唇を尖らせている晴野さんの目はずいぶんと冷たい。めんどくせえ。

「じゃあ、友達関係は一回なしと見るか。ほかにいる知り合いっていうと?」

「家族と、学校の先生——」

「そういや君は学生なの?」

「はい、高校生です。あ、高校三年生でした」

「……そっか」

「……はい」

 これから、ってときに死んだのか。まだどこかあどけなさの残る晴野さんの顔は後悔の色が滲み出ていた。やりたいこと、あったろうに。

「私、芸大に行こうと思っていたんです。舞台の仕事に就きたくて。本当だったら来週、受験でした。その、高校では演劇部に所属していて、私舞台が好きなんですけど、お芝居が全然できなくて、でも舞台が好きで、どうにか関わりたいなあって思ってて。それで、顧問の先生にお前はモノづくりが好きみたいだからそういう方面を目指してもいいんじゃないかって言ってもらって。それで、その、そういうのもいいなあと思って」

 急に、そんなこと言われても、なんていうか、返す言葉が見つからなかった。

「すみません、急に話して」

「いやいいよ。僕はそういう舞台とかわかんないけど、目指してたものがあったんだろ。高校生なのに立派だよ。——っていうとなんか上から目線でおっさんみたいだけど。すごいと思う。うん、すごいと思うよ」

 月並みだった。晴野さんが、「ありがとうございます」と笑ったけれど、何とも言えなかった。

「ていうか、じゃあさっきの、私を殺したの、ってやつ、あれ演技だったんだな。僕はうまいと思ったよ。超怖かった」その半面、怖すぎてイラっともした。

 恥ずかしそうに晴野さんは「演劇部ですから」と言って笑ってくれた。

「受験が終わったら、お母さんがいくつか舞台に連れて行ってくれるって約束してくれてて。大きな舞台って——あ、えっと、大きな劇場でやるようなお芝居ってチケット代が高いんですけど、いくつかもう予約してくれてたみたいで。楽しみにしていたんですけど、もう、無理ですね」

 残念だなあ、と笑う晴野さんの顔は無理をしているのがよくわかった。

「今日とか明日やってる舞台? ってないの?」

 気づけばそんなことを口に出していた。

「え?」

「別に赤の他人だけどさ、少しくらい情けというか、なんというか、いいよ。犯人も捜すけど、行こうよ」

「でも」

「いいよ、徳を積むわけじゃないけど、人助けだ人助け。少しくらい、やりたかったこと、やろうよ」

「でも……」

「勘違いするなって。僕は君に早く成仏してもらいたいんだ。後悔とかがあって、変に悪霊とかになられたら困る。君が幽霊になるのが初めてなように、僕だって幽霊に会うのは初めてなんだから」

 赤の他人にそこまでする義理もないけれど、本当に、気の迷いというか、きれいな言葉で着飾れば”心の中の天使が囁いた”——というようなもので、我ながらどうしてこんな風なことを言ってしまったのだろうとも思う。でも、僕が生きているからこそ思うことだけれど、死んでしまった晴野さんが何かしたかったことをこれから先、晴野さん自身ができることはもうないのだ。だったら、別に少しくらい夢を見させてあげるくらい、いいことのような気がした。善人ぶって、自分の心を満たしたいだけなのか、それとも、夢があって、そこに向かって歩もうとしていた晴野さんがまぶしかったのか。

「……ありがとうございます」

 けれども、あんな悲しそうな顔は、ドラマや映画でも見たことがなかったから、どうしてか犯人捜しのついでに少しくらいは何かしてあげたいと思ってしまったのだった。

 スマホで舞台について調べる。それを背後にいる晴野さんにナビゲートしてもらった。とても楽しそうで、いかにも女子高生、というような高揚感にあふれていた。楽しさは伝染するようで、僕も少し気分がよかった。

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