第2話
まるで今まで呼吸を忘れていたかのように、息苦しさを感じてがばりと起き上がった。全身は寝汗でびっしょりと濡鼠のようになっていて、シーツも汗を吸収しきれなかったようで湿っていた。ぜえぜえと息をしながら乾ききった喉が痛くてさすった。窓の向こうは昨日と同じように晴れきっていて、青々としていた。冬だから空気が澄んでなおのことそう思うのだろう。
僕はベッドから起き上がって、シーツと毛布を手に持って、洗濯機へと向かった。長い冬期休暇に入って特にすることもない。綺麗に洗濯をして新しいシーツを出そう。あとシャワーも浴びよう。シーツと毛布、それと昨日着たまま眠ってしまった服を脱いで洗濯機に放り込み、柔軟剤入り洗剤を適量流し込んだ。スイッチを入れるとどばどばと水が洗濯槽にたまっていく。蓋を閉めてぼさぼさな頭を掻いてシャワーに向かった。ざあっとカラスの行水のように洗うだけ洗ったら、寒い寒いと言いながらバスタオルで湯をふき取って、私服に着替えて洗面台の前に立った。洗濯を待てばよかった。バスタオルも一緒に洗えたなあ、と思いながらタオル掛けにかける。いつも通り歯を磨こうと歯ブラシを取ったところで、あれ、と思った。何か忘れているような、記憶にしこりがあるような、妙な感覚があった。
何か、あったっけ。
視線をぐるりと宙に浮かべても、特に思い出せない。思い出せないということは些末なことで——何か新刊の発売日が今日だったとか、トイレットペーパーのストックが切れているとか、そんなくらいのことだろうか。あとで思い出せばいいやと歯ブラシに歯磨き粉を付けた。歯を磨こうと口に歯ブラシを放り込んで鏡を向いた。僕の後ろで影が不自然に動いたように見えた。後ろを振り向く。じいっと注視しても何もない。気のせいか。また視線を鏡に戻した。しゃかしゃかと歯ブラシが歯をこする。そういえば昨日は夕飯食べたっけ。食べていない気がする。それが気になったのか、と納得して、確かに空腹だと感じた。
それにしても昨日のドラマの続きが気になる。あの名探偵ならきっと推理して解決してみせるだろうけれど、それにも負けぬスピードで僕も解決してみせたい。あくまでドラマではあるけれど、現実に起こったかのように僕は真剣にそう思っていた。昨日のドラマは——警察連中が目星をつけた容疑者はきっとフェイクで他に犯人はいるはずなのは間違いない。それは主人公と同意見だった。じゃあ誰なんだろう。誰が——
「私を殺したの」
下に落ちていた視線をまっすぐに鏡に戻した。戻された、と言ったほうがいいかもしれない。体の自由が利かなくなったように——金縛りのように硬直して、目だけが動く。今確かに僕の耳元で——右耳のほうで女性の声がした。鏡に映る僕はいつも通りの顔だし、その後ろにも別段変わったところは見受けられない。眼球をぐるりぐるりと回しても、おかしなものは見つけられなかった。ふっと体の力が抜けて、金縛りにあったわけでもなくて、急激に筋肉が緊張して動かなくなっただけだったことに気づいた。阿呆臭い。どれだけ怖がりなんだよ、と自嘲した。幻聴まで聞くなんてよっぽどドラマにのめりこんでいるらしい。
また歯を磨く手を動かしながら昨日のことについて考える。犯人はきっと警察が見立てた容疑者じゃない。なぜなら立派なアリバイがあるし、これを理由にするのは視聴者の特権だけれど、ドラマ上、それはあり得ない。もし、本当にあの容疑者が犯人なら脚本を書いた人には申し訳ないけれどつまらないと思う。
そんな風に考えていたけれど、そんな風に思うよう努めていたけれど、無理だった。
「ねえ」
声と一緒に肩に手が置かれた。右肩だ。さっきからずっと右に何かいる。僕の右後ろに何かがいる。得体の知れない何か——それはきっと幽霊のような、化け物のような存在で、僕が鍵を締めて密室にしたこの部屋に入ってくることが可能な何かが背後に絶対的にいる。無意識にそむけていた視線を鏡に戻せば、それはいた。僕の右後ろで、僕の肩に手を置いて、真っ黒で長く伸びた髪はさながら貞子のようで、顔はわからないけれど、なんだってそんなにゆるふわなワンピースを着ているのかもわからないけれど、そいつは間違いなく、昨日の自殺した人だった。
昨日の意識を失う前の出来事は夢じゃなかった。飛び降り自殺があったのは事実で、救急車を呼んだのも事実で、警察が事情聴取に来たのも事実で、僕が意識を失う前に、女性の顔を見たのも事実だった。
人間はあまりにも驚くと声が出ないらしい。なんだよホラー映画は嘘つきか、と気が紛れるように思ったが、あまりにも突飛な状況だとそれも無理らしい。ただ、こんな状態でその背後にいるそいつから鏡越しに視線を外せなくて、ゆっくりと正面へ上がっていくその顔を見たその時、まじまじとその女性の顔を見て、美人だなと素直に思ってしまったのは、きっと妙なことだった。
固定概念として、幽霊の顔というのが基本的にぐちゃぐちゃでゾンビのようだったり、目の下のクマがひどくて顔面蒼白だったり、と恐怖心を増幅させるような歪さを感じる作りになっている、と思っていたからなんというか拍子抜けしてしまった。こうなってしまうと——異常事態に脳が麻痺しているというのもあるだろうけれど——なんだか怖くなくなってしまった。怖くなくなった僕は、
「昨日死んだ人ですか」
と、鏡越しにその女性に声をかけた。その女性は、困った顔をして、こくりと頷いた。
「なんでここにいるんですか」
と話しかけると、目を泳がせて、
「わかりません」
といった。
「出ていってもらうことは可能ですか」
女性はぶんぶんと首を横に振るって、「無理です」と言い切った。
なんでだよ。出てけよ。
「なんで、無理なんですか?」
「わかりません」
「わかりませんって。どういうことですか?」
「昨日試したんですけど、あなたから離れることができません」
「どうして?」
「わかりません。私だって、死んでまで他人様に迷惑をかける気は毛頭ありません。でも、なぜか離れることが出来ないんです」
「じゃあ、昨日のあの顔のドアップは——」
「声をかけようとしたんです。そうしたら幽霊でも見たかのように気を失われて」
「いや、あんた幽霊なんだよ」
幽霊じゃなかったらなんなんだ。
「あっ、そっか。私幽霊か。それはすみませんでした」
鏡の向こう、僕の背後でその女性は頭を下げた。変な人だった。
「いや、謝ることはないんですけど。その、僕から離れることが出来ないってどういうことですか」
「なんと言いますか、例えるなら——私少年漫画が好きなんですけど——ジョジョのスタンドみたいで……」
「なんともわかりやすい説明ありがとうございます」
「ジョジョ好きなんですか?」
「まあ」
「私は第五部が好きなんですけど、あなたは?」
「僕は第四部です。第五部は女性人気高いみたいですよね」
「そうみたいですね、私の友達もみんな五部が好きだって言います。まあ、五部しか勧めていないので当たり前なんですけど……」
ふふふ、とその女性は笑った。
「私が特に好きなのはやっぱりブチャラティで。ああいう上司、いたらいいですよねえ」
「確かに。覚悟と信念を持ったすごくかっこいいキャラ——って何普通に会話してんだ」
「す、すみません」
相手は幽霊だぞ。ていうか本当に幽霊か?
後ろを振り向くと、誰もいなかった。鏡を見ると、確かに僕の後ろにそいつはいる。もう一度振り向く。誰もいない。鏡を見る。するといる。もう一度振り向く。いない。鏡を見る。いる。
「もしかして隠れてる?」
鏡の向こうでその女性は小首を傾げた。
「隠れる?」
「僕が振り向いたタイミングでしゃがむとか、どこか——行けるわけないか」
「私はずっとここにいますよ」
「本当に幽霊なんだ」
「そうみたいです」
「夜じゃなきゃ活動できないとか、そういうわけじゃないんだね」
「そうみたいですね。でも、昨日私のこと、見ることが出来たんですよね?」
「飛び降りたときのこと?」
「そうじゃなくて、ベッドの。でもあれは本当にびっくりしました。まさか死ぬ瞬間に誰かと目が合うなんて思ってもみなかったので」
「それは僕もだよ。ていうか、なんで自殺なんてしたの?」
そこでその女性は何かを思い出したような顔をした。
「お願いがあるんです。私、自殺なんてしてないんです。犯人捜しを手伝ってもらえませんか!」
そう言われて、磨こうと口元まで運んだ歯ブラシを洗面台に落としてしまった。一度カツンと音を立てた歯ブラシは、排水管にプロゴルファーもびっくりなホールインワンを決め込んだ。どういうことと後ろを振り向いたけれど、やっぱり彼女の姿は見えなかった。もう一度鏡を見て、「どういうこと」と訊ねた。
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