天気雨が降っていた
久環紫久
第1話
洗濯物を取り込まなくてはと思い立ったのは夕日が遠くのビルの陰まで落ちたころだった。テレビで刑事ドラマの再放送を見ていて、ストーリーが二転三転してなかなか犯人が分からなくて躍起になって推理しながら見ていたのだ。脚本家がものすごく頭の切れる人物らしく、綿密に伏線を張り巡らせているのだろう。結局真犯人を暴くのは次回の放送に持ち越しになって、生殺しのような状態でソファに背を預けた。さっき開けたコーラを一口飲む。
容疑者として列挙された人物たちはそれぞれに動機もあるし、当然ながら事件当時にアリバイがあって、テレビの概要欄に”完全犯罪を見破れるか”と書いてあった通りだった。けれどもきっとどこかに穴があるに違いないし、それが伏線というものでそれを回収しなければ
窓に向かうとまだ雨は降り始めたばかりのようで弱くおぼろげだった。冬だというのに雨が降るのは、温暖化の影響なのか、それとも僕が北国出身だから不思議に思っているだけなのか。どちらにしても、せっかく乾いた洗濯物をまた濡らすのは困るので、ベランダに向かった。
一人暮らしをしている人ならば分かると思うが、毎日洗濯をすることもないので、干したら干したで忘れてしまうこともある。習慣化されていないから、行動が思いつかないのだ。もしかしたら、さっきのドラマもそういうことがヒントなのだろうか。容疑者として挙げられていた被害者の奥さんは普段料理はあまりしないと言っていた。けれども、その日はずいぶんと豪華な食卓だった。オードブルというか、出来合いのものなのかわからないが、食卓に並べられていた料理の数々は冷めきった夫婦生活をしていたというわりには手間のかかるものばかりだった。仮に手料理ではないとしても、これから殺す相手のためにそこまでお金を使うのだろうか。
ベランダへ通じる窓の前で立ち止まって推理しているうちに雨音が段々と強くなってきたので、早々と洗濯物を取り込まなくてはと窓を開けた。天気雨というやつで、空は別にどんよりと曇ってもいない。雨の向こうに焼けた夕日があって、素人ながらに良い絵になるなと思った。自分に美術の才能があればこの風景を文字なり音なり絵なりに起こして残せるのだろうけれど、自分にはそんなものはないので、心の中できれいだな、と思ってみる。それより、ベランダのほうまで雨が入ってこないか心配だった。そしてそれ以上にドラマのほうが気になっていた。
三日分の洗濯物は、男一人分しかないからそれほど多くはなかった。洗濯ばさみが少し馬鹿になってきているようで、がたがただったり、ゆるゆるだったりで新しいものを買わなくてはならないようだ。
本格的に雨脚が強くなる前にすべて取り込んで、窓を閉める時だった。風に運ばれてきた砂埃がサッシのふちにたまっていて、じゃりじゃりと音を立てた。そこにもっと気を取られるべきだった。うっとうしいな、と力任せに閉めようとしたそのとき、上から下へ、雨と一緒に落下していく人と目が合った。
目があった。窓の向こうには一瞬だけ目があった。人があった。かすかに見えた人影は今風の服装で、女性で、スカートは重力に反して飛び込み選手のように伸びた足に張り付いていた。それくらいしか見えなかった。けれどもその目は覚えている。確実にこちらを見つけたような目だった。そんなホラー映画の一部始終のようなことが現実にあった。
この地球上でなんの力もなく下から上へ上昇していく人間なんているわけがないから上から下へ落下していくのは当然の運動なわけだけれども、現実的に考えて、自室のあるマンション七階より上から落ちていくというのは、自殺以外に考えられない。
酷い音がした。突然の出来事に窓枠を掴んで固まった僕の鼓膜に、何かが砕かれたような、そんな音がした。その音をかき消すかのように強くなった雨音を聞いて、ふと我に返り、テーブルに置いたままのスマホを手に取った。すぐに救急隊に連絡をした。この高さから落ちて生きているなんてありえないだろうけれど、この行動をとることは人として当たり前のことだと思ってのことだった。初めてのことだったので——救急車を呼び慣れている人なんてそうそういないとは思うけれども——説明はしどろもどろで吃音だらけになってしまったが、とにかく住所を言って、人が飛び降りたと伝えると、電話先の男性は慣れたようにこちらを落ち着かせるように諭しながら救急車の手配をしてくれた。
電話を切って、その場に座り込んだ。とんでもないものを見てしまった。現実にドラマのようなことが起きてしまった。目の前で、人が落ちていった。飛行石でも持っていたら助かっただろうかなんて馬鹿なことを考えて、あまりにも不謹慎だと思った。けれど、目の前で人が死ぬなんて想像だにしていなかったから脳がスパークしたように考えがぐちゃぐちゃでまとまらない。まとめるほどの考えもなかったが。どれほどその場に座り込んでいたがわからないが、雨音はいつの間にか消えていて、救急車のサイレンがかわりに聞こえてきた。
あの人は死んだんだろうか、それとも、助かっているのだろうか。赤の他人で落下したその瞬間だけ、たまたま目を合わせた——ただそれだけの関係であったが、多少は気がかりだった。おそらくは死んでしまっただろうけれど、そうだとしたら、この高さから落ちて生きているとは到底思えないけれど、なんだかやるせない気持ちになった。
取り込んだ洗濯物もたたまず、適当にそのへんに置いたままで、ソファに移動して、ぼーっと空を眺めた。何があるわけでもない。なんとなくそうしただけだった。野次馬のように人が死んだと囃し立てる気は起きなかったし、かといって、自分のせいだと変に思い詰めることもなく、ただただ目の前を人が落下していったその現象が脳裏に焼き付いてそれを眺めている。
初めて見た。何度も見るものでもないだろうし、そういうことを見て喜ぶ趣味もないから、ただ、初めて見てしまったと思うだけだった。とんでもないものを見た。見たが、それだけだった。赤の他人の死にまで悼むほど僕はできた人間ではないようだった。サイレンの音がマンションの下で鳴るようになって、ようやく救急隊が到着したことに気づいた。呆然とその音を聞いていて、あまり時間も経たぬ間に遠くへ消えていった。
それからどれほど時間が経っただろうか。窓の向こうには焼けた夕日はすっかりなくなって、近隣のマンションからはぽつぽつと明かりが見える。いつまでこんなところに座り込んでいるんだ、と立ち上がったところでチャイムが鳴った。誰が来たのだろうとインターホンのモニターを見れば男が二人立っていた。何事かと出てみれば警察だった。なんでも話を聞きたいという。玄関先で色々な質問をされた。知り合いだったかとか、そういうことを尋ねられた。当然知らない人だからそう答えたが、警察というやつらは素直ではないらしく、どこかこちらを値踏みするようになにかぼろを出さないかとやたらと話しかけてきた。そんなことをしたって無駄なことなのに。嫌気がさしてきたが、ここで疑われるのも嫌なので、ていねいに話して聞かせた。
たまたま洗濯物を取り込もうとしたらたまたま見てしまったと。すると警察は納得してくれたようで、実は遺書があったので自殺だった、とだけ伝えてきた。だったら最初からそういえばいいじゃないか。憤慨する気持ちをこらえて、そうですか、とだけ返した。結局のところ、あの人は赤の他人であるから、悲しみとか、お悔やみとか、そういう感情はなかなか出てこない。警察が帰っていって、鍵を閉めて、ため息をついた。ため息をついて、ドアにもたれかかり、災難だったとつぶやいた。意味などない。そう思ったから口に出しただけの独り言で、今日は寝ようとベッドに向かう。一Kの部屋はキッチン玄関と隔離されているだけで、ベッドの横にある窓はさっき飛び降りた人と目があった窓だった。最悪だ。なんだか眠れない気がする。視線を感じるし、なんだか空気が重たい。自分の勘違いに違いない。そうは思っても一度そういう風に感じてしまうと芽生えた恐怖心は風船のように膨らんでいってしまう。最悪だ。最悪だ最悪だ。電気を習慣的に消してからベッドに倒れこみ、目を閉じて毛布を頭まで被った。
こういうときは眠れないし、いやに余計なところに気が回る。取り込んだ洗濯物がしっかり乾いていたかふと気になってしまった。それに、カーテンを閉めていないことを思い出した。最悪だ。どうしようもない。閉めてしまいたい欲に駆られたが、臆病な自分がそれを制する。制したうえでもう一度閉めたいと思う。なんだか落ちていったあの人が、ベランダからこちらをじっと見ているような気がして仕方ない。ドラマや映画でよくあるような見たらそこにやつがいるようで、だからこのまま布団を被ったままでいようと決意した。カーテンが開いているのがなんだ。開いていようが毛布をかぶってしまっていればなにも怖くない。カーテンの向こうなんて見えやしない。
と、ふと何かのホラー映画を思い出した。タイトルが呪怨だったかリングだったかそれともほかの何かかわからないけれど、寝ているとその布団の中に悪霊が出てくるというやつだった。本当に最悪だ。最悪なことを思い出してしまった。こうなると毛布を頭まで被っているというのもよくないとしか思えなくなる。かといって毛布から顔を出したら真っ暗闇だ。なんだって明かりを消してしまったのかと数分前の自分を呪った。毎日明かりをつけたまま眠っていればよかった。八方ふさがりになってこうなったらいっそのこと覚悟を決めてベッドから離れて——部屋を出て——マンションから離れて——適当に近場のコンビニなり二十四時間営業しているファミレスやらで時間を潰したほうがいい。
自分の部屋なのだからどこに何があるかくらいは分かるから、急いでコートを手に取って——玄関に向かい——靴を履いて——扉を開けて鍵を締め——エレベーターに向かう。頭の中で何度かシミュレートしてこれでいいと納得した。よし、と毛布を剥いだ。
終わった。
その瞬間にすべてが終わった。全身が総毛立ち、絶望に脳が委縮して、体の自由が利かなくなって、喉が締まって声が出ず、見開いた目に映ったのは、あの落ちていった女性の顔で、その瞬間に頬に彼女の髪が当たる感覚があって、意識は枕の下へと落ちていった。
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