第6話
犯人を捜すといったけれど、こんな状態でどうしたものだろうか。
あの時、僕が天気雨に気づいて窓の外を向いたとき、その時にはもう彼女はマンションの屋上にいたことになる。それから何者かに突き落とされて、僕はその落ちていく彼女を見た。私服だったから学校帰りというわけでもなさそうだ。僕に超能力でもあれば、晴野さんを突き落とした犯人を超理論で見つけて即解決なんだろうけれど、残念ながらいたって凡人な僕にはそんなことはできやしない。できたのはバイトで稼いだお金で下北沢までやってきて、彼女の心残りだった劇団の舞台を見せることだけだった。
犯人を見つけて、それでどうしたらいいのかもわからないけれど、ひとまずは彼女のためにも犯人を見つけてあげなくてはと思う。ここまで思うのはひとえに晴野さんの魅力と、吊り橋効果のような、よくわからない特殊な状況下に置かれて僕自身の精神もおかしくなってしまっているからだろう。とはいえ、手詰まり感は否めなかった。
晴野さんがなぜうちのマンションにやってきたのか。なぜあのときの恰好は私服だったのか。少しドラマの主人公になった気で考える。やはり彼女の人となりを知らないとどうしようもない。
「家族構成は?」
「両親と祖母、あと弟です」
「みんな実家にいるの?」
「はい」
「昨日こっちにやってくる、なんて話はしてなかった?」
「していなかったと思います。受験が終わったら会おうという話はしていたんですけど」
なるほど。
「家族仲は良かったんだ?」
「はい、両親が一人暮らしさせてくれたのは私のことを思ってくれてのことだったので」
だよな。普通は独り暮らしさせて仕送りまで送ってあげるなんてそうそうないだろう。実際うちはそんなことはないし。何か、いい手はないものか。と、一つ思いついた。
「よくドラマとかだと記憶喪失になったとき、同じくらいの衝撃を与えるといいとか——」
「嫌です、また落ちたくありません」
即答だった。
「何か記憶になじみのあるものを見るといいとか」
「それだったら、あの舞台を見たときになんだか懐かしい気がしました」
「追っかけてたからでしょ?」
「……かもしれません」
「じゃあ違うじゃん」
「……すみません」
「謝らなくていいよ。どこか、よく行っていたところはある?」
「高校は当然行っていましたよ」
「そこに僕が入れると思う?」
「無理ですね。最近セキュリティが厳しいと話題です」
「どこでだよ」
「学生内です」
「さいですか。あー、どっかないかなあ。馴染みのお店とか」
「本屋さんならありますけど」
「じゃあそこに行ってみるか」
虱潰し、そんな感じ。行ってみて、何か思い出せば儲けものだと思ってそこに行ってみよう。
「そこはどこ?」
「新宿の紀伊國屋書店です」
「じゃあ行くか」
僕たちはまた電車に乗り込むことにした。下北沢の駅は今なお改装工事中で、一体全体いつになったら完成するのかわからないけれど、時間帯がよかったらしく、そこまで人がいなかった。電車を待っていると、さっきのお芝居よかったよね、という話が聞こえてきて、袖がかすかに引っ張られた。気になっているんだろう。
「ああいう風にお友達と話すのが夢だったんです」
「演劇部だったんだからそういうのあったんじゃないの?」
「みんなやるのは好きだったんですけど、見るのはそこまで好きじゃなかったので……」
なんだそれ。意外とドライなのか。少し不思議に思ったが、僕も中学時代、野球部に所属していたときに、野球をするのは好きだったけれど、プロ野球や甲子園にそこまで興味がなかったことを思い出した。そんなもんか。
「だからさっき、少しそんなお話をできてうれしかったんです」
「そう」
「ありがとうございます」
「べつに。ほんとに面白かったし。喜んでくれたなら大金叩いたかいがあったもんだよ」
「やっぱり高かったですよね……?」
「正直馬鹿かと思ったね」
「……すみません」
「いいって。だって、それだけお金を払ってもいいって思えるくらい、思わせるくらいのものだったってことじゃん。少なくとも今は払ってよかったと思うよ。あの主宰? 主演の人もテレビで見たことあったし、なんか、すごかったし」
「本当にあの人はすごいんですよ! 歌も上手いし、ダンスもできるし、完璧超人なんです! まさにお芝居をするために生まれてきた人ですね!」
姿は見えないが、だいぶ興奮状態にあるようだった。
「あの劇団さんの主宰で、今回の舞台も書いたのも、演出したのもあの人なんです! 私なんかとは違って、何でもできるひとなんです」
電車が来た。渋谷行きに乗り込んで、つり革につかまった。乗客の少ない車内で晴野さんは話さなかった。周りに人がいないわけではないから僕に気をつかってくれているのだろうけれど、沈黙が有難かった。ただ、掴まれた袖が気になって仕方なかった。あっという間に渋谷についた。乗り換えるためにホームを歩く。改札を抜け、山手線のホームに向かう。新宿行きの電車に乗る。三駅でついた。新宿駅は時間帯も関係なしにごった返していた。いつ来ても息がつまりそうになる。迷わないように紀伊國屋書店に向かう。袖口をずっと握られていたので、そこに晴野さんがいたのはわかった。
「ここでは何を買ってたの? 小説? 漫画?」
「それもですけど、専門書とか、大きな劇団さんから出ている台本も買っていました」
「へえ、台本なんて売ってるんだ」
「はい、すごいんですよ、ここの演劇ブースは専門書だけじゃなくて台本も置いてあるし、DVDもあるんです。だから見てるだけでも楽しくて」
「本当に演劇? が好きなんだね」
「はい、大好きです」
少しだけ、どきりとした。綺麗な笑顔が思い浮かんだからだ。また姿の見えないナビゲーターに連れられて演劇ゾーンに足を運んだ。確かにすごい数の蔵書があった。文庫本サイズのものも多くあって、僕でも知っているようなシェイクスピアが置いてあった。蜷川幸雄の本もあったし、演劇のメカニズムを探る、なんていう感じの参考書のようなものもあった。宮藤官九郎のDVDもあって、あの人は舞台もやっていたのかと驚いた。
「何か思い出せた?」
「……すみません、さっぱりです」
「しゃあないね」
思い出せなかったか。しかたない。ほかに何かないだろうか。
「大学行ってみる? どこの大学受けるつもりだったんだっけ?」
「稲穂大です」
「あそこか。へえ、結構レベル高いよね?」
「はい、勉強漬けの地獄の日々でした……」
「あはは、だろうね」
「でもどうしても行きたかったので」
「じゃあ行こう」
それから新宿駅に戻り、またしてもごった返す人たちを縫って今度は総武線のホームに向かう。御茶ノ水駅までどれだけかかるんだったか。電車に乗り込んでつり革につかまる。暇だから車内の中吊り広告を見る。刺激的な見出しで購買意欲を煽る週刊誌の広告だった。そんなに興味はないからやっぱりつまらない。どこぞの俳優の不倫発覚なんて心底どうでもいい話題だ。もっとこう、楽しそうな話題はないのだろうか。車窓の外を眺める。まだ十六時を過ぎたころなのに、もう夕暮れがそこまで来ていた。空が赤く染まって、御茶ノ水の向こうには星が瞬き始めていた。早いもんだ。と、まだご飯を食べていないことに気づいた。でもまあいいか。あとで食べればそれで。大学に行って、それからあとでどこかによって食べようか。せっかく外に出たんだし。
御茶ノ水について、大学に向かって歩く。
「ここ知ってる」
と晴野さんが言った。
「よく来てたの?」
「……多分」
「なんだそれ」
「よくわからないんですけど、ここ、通ったことあるかなって」
「高校がこっちのほうだったとか?」
「いえ、違います」
「じゃあなんでだろうね」
「大学見学で来た時に覚えたのかな」
「ああ、なるほどね。覚えておかないと受験もいけないしなあ」
「そうなんですよね。だから必死になって覚えました。私方向音痴なので……」
「頼れる友達もいないしな」
「そうなんです、って失礼な! 最近のスマホは便利だから困りませんよーだ! 地図の見方わからないのでGPSがおかしくなったらどうしようもないですけど……」
「だめじゃん」
だめだめだった。虫のいい話だが、大学は友人がそこに通っているので知っていた。僕にいるわずかな友人であるが。目的地である稲穂大学に向かう。あれ、さっき芸大を受けると言ってなかったか?
「晴野さん」
「なんでしょう?」
「君、芸大を受けるんじゃないの?」
「あれ、そうですよね。私芸大を受けるつもりだったんですけど、あれ」
なんだ? どういうことだろう。
「芸大を受けるつもりだったんですけど、私、脚本の仕事をしてみたいって思って、それで——あれ」
「もしかして、ここにもそういう学部があるの? 文学部の中に、とか」
「そうです、ここにもあります! 演劇学科があるんですけど、そこの教授の方がさっき見た劇団さんと知り合いらしくてですね!」
「なるほど、コネってやつか」
「そういわれるとなんだか居心地が悪いですが……まさしくそれ狙いです」
別に狙いまでは言ってなかったんだけれども。
駅から歩いて十分ほどで着いた。それにしてもいつ来てもただの高層ビルだ。
「あれ」と晴野さんが言った。
今度はなんだ、と思っていると、袖口が劇場に向かうときと同じように引っ張られた。リードを無視して走る金太郎(当時の飼い犬)のようにぐんぐんと進んでいく。警備員に愛想よく挨拶をして、そのまま校内に入っていった。
「いきなりどうしたんだよ」
「ここ知ってます」
「そりゃ見学に来たんだったら知ってるでしょ」
「違います、私ここに通っていました」
「は? 受験はまだなんだろ?」
「そうなんですけど、そのはずなんですけど、私ここで勉強してました」
「どういうこと?」
「わかんないです」声が震えていた。
「わかんないけど、私ここにいたんです」
そのとき、僕の袖口がぐんと、今までになかったほどの力で引っ張られた。勢いがありすぎてその場に尻もちをつくほどだった。痛え。立ち上がろうとして、袖口が握られている感覚がなくなったことに気づいた。
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