1ー4

 *



 暗い廊下の中、一人の少年が歩いていた。

 そう航流わたるだ。

 航流は歩いているだけなのに、何故か息が荒かった。

 額に汗などが浮いていないところから走った様子もない。なのに、何故か息だけが荒い。つまりは矛盾しているのだ。

 すると、航流は小さく呟いていた。



 ·······忘れろ。



 それを意味するのは今、航流の頭の中でループされている記憶だ。その記憶は、一人の少女との言い争い。航流は言い争いを終えてからひとつのことを思っていた。

 あれは自分がただ納得したいだけの言い訳だった、と。

 彼女は一切悪くない、と。

 その思いは後悔とも言える。いや、航流にとっては最大の後悔だろう。

 その後悔から航流は自身の過去を思い出した。


 これまでどれだけの後悔があったか、間違った選択はいくつあったか、今ではもう数えきれないほど、だと自覚している。そのひとつはまさに今日だ。

 俺は昔から《友達》と言える人が片手の指で数えるほどしかいない。だが、今日。俺はその《友達》と言える人が出来ると思っていた。

 その相手こそが、一宮いちみやかえでさんだ。しかしそんな上手く事が運ぶことなど夢のまた夢。その言い争いで、口論した相手こそが一宮さんなのだから······。


 昔から常々感じていたことがあった。

《友達》、この言葉を他者に向ければ誰もが俺から離れていく、と。

 実際にそれは何度も身を以て経験した。その中にはもちろん例外と言える《友達》もいた。が、圧倒的に後者は少なかった。前者の方が多かったのだ。

 小学生の時も、中学生の時も、何度も何度も繰り返し、俺はいつの間にか《独り》を選んでいた。だからだ。《独り》をそのまま選べばいいのに、今日は《友達》を選ぼうとした。

 その結果が······これだ。この有様だ。

 後悔をするなら後悔をする前にその場から身を引く。そう決めた。決めたはずなのに······。


 重い足取りで航流は職員室前までやって来た。

 ラジオ部のことを報告するだけなのに、何故か後ろめたさからノックする気になれない。

 これほどまで《友達》を欲していたのか、と自分でも驚いている。

 簡単に気持ちを切り替えることは出来ないが、一度大きく深呼吸をする。

 あくまでリセットのためだ。リセットのため······。

 ふぅ、と肺にたまった酸素を吐いてノックする。



 ーートントン。



「失礼します。池沼いけぬま先生は······」


 と、職員室内を見渡すと手招きしている人を見つける。

 こっちこっち、と手招きする姿に苦笑。

 心ない笑いだな、と感じながらも手招きする人の机に向かう。


「どうだった、ラジオ部は?」


 第一声は典型的だな、と思いながらも答えを返す。


「まあ、悪くはないと思いますね」


 ヤッタ、と俺の答えに喜ぶ池沼先生。

 この人こそ、俺の担任でありながらラジオ部の顧問。そして俺にラジオ部を勧めてきたのもこの人だ。部員集め、は分かるが流石にこれはずるいとしか言いようがない。

 それに、この人には色々と昔からお世話になっている恩もある。だから今回の勧めも受け入れたのだ。そして······、


「その言い方から何かあったの? ······一宮さんと、何かあったでしょ。ね?」


 そして、俺はこの人には敵わない。

 全てを見透かされているような気がしてならないのだ。


「ははは、敵いませんね。茉優まゆ先生には」

「そう? まあ、顧問としてもね。君を一宮さんに会わせれば、何かしら起こるだろうなとは予想していたの。それが運良く? 運悪く? 当たっただけだから」

「言うなら運悪く、ですね。······出てってよ、って言われました」

「やっぱり? あの子もね、君と同じように問題があるのよ。一宮さんのことを嫌い、って一度も感じてないのならこのまま残ってほしいのよねー。どう?」

「どう? って言われても······てか、部長にも言われました。俺が入部してくれると、助かるって」


 そうなんだ、と微笑する茉優先生。

 腕時計で時間を確認し、茉優先生は帰りの支度を始める。

 その行動に疑問を持った俺は包み隠さず問うた。


「もう帰るんですか?」

「そうよ、教師ってのは色々と忙しいのよ。悪いけど、今日は車じゃないから送ってけないのよ。ごめんね······」


 と、顔の前で両手をあわせて謝ってくる。

 その行動が茉優先生らしい、と率直な感想を述べようとしたがここは止めておく。

 茉優先生も帰るから俺も帰ろうとした時、ある考えに思い至った。


「茉優先生?」

「はい? どうしたの鹿代かしろ君?」

「先生って今日どこ行くんですか?」

「どこ行くって、家に帰るんだけど?」

「へぇー、なるほど。じゃあ式を挙げる時は俺たちも呼んでくださいね」


 と、言った瞬間。茉優先生は俺の腕と自分の荷物を持って、


「すみません、先に帰ります。お疲れ様でした······」


 帰りの挨拶を他の先生方にして職員室から俺を連行していった。



 *



 茉優先生に連行された俺は学校の駐車場にまで移動していた。

 連行されている際、茉優先生に声を何度かかけたが無視されている。

 嫌われた、そんなことは一切思いもしなかった。言ってしまえば、これから茉優先生にやられることも把握している。

 ······てか、何度も同じ目に遭っているし、毎回俺の言動がいけないだけだけど······。

 はあ、と重いため息を吐く。そのため息に気付いたのか茉優先生は歩く動作を止めた。


「さて、ここまで来れば大丈夫だね。ーー始めようか、航流?」

「な、何をですか? 茉優先生」

「何をって、分かってるでしょ? 説教。ーーそ・れ・と、今はもうプライベート空間だよ?茉優先生、じゃなくて茉優姉さんね?」

「いやいや、姉さんじゃなくて義姉ねえさんでしょ? 表現がおかしいよ!」

「ーーじゃあ、説教タイムね」


 無視した! と言葉を発する前に茉優先生の説教が始まった。これがまた、毎度同じような内容だから面白味がないものだ。


「航流? さっきのあの言葉は挑発と捉えていいのよね?」

「さっきって?」

「さっきは殺気。ね?」

「イントネーションがおかしいよっ。さっきの言葉は挑発で捉えてよろしいですっ!」

「良く言えました。あの約束はちゃんと覚えてるよね?」


 一瞬何のこと? と、思った思い出した。が、口にするのは恥ずかしいので黙ってみた。


「······なるほど、恥ずかしくて言えないのか。可愛いなっ。このっ。ーーじゃあ、私が言ってあげる。何年前だっけ? 航流が九歳だっけ?」

「あの······茉優先生? 俺、もう帰りたいんだけど?」

「······」

「茉優先生?」


 無視だ。これは帰っていい判断? それとも······。

 判断に迷った航流はまず考えるより先に行動に出た。それは、

 ーー後ろを向く、だ。

 その次にスタンディングスタートのポーズを取ろうとした時、


「どこへ行く? 航流?」


 予想していた通りに右肩を掴まれた。

 右肩を掴まれたがこちらから離そうとする気はない。だから振り返った。


「茉優先生が寝てるのかなって思ったからさ」

「······」


 まただ。俺が発言すると茉優先生は必ず黙る。

 ······何だ? 新手のいじめか? 俺はいじめられてるのか?

 と、自分自身に問い詰めていると、答えが返ってきた。


「茉優姉さん。そう言ってくれないと、拗ねるよ? 私」

「姉さんじゃなくて義姉さんね。それと、もう拗ねてるでしょ?」

「もう、可愛くないっ。初々しかった航流はどこいったの? こんなお口が達者な航流に育てた覚えはありません!」

「はいはい、分かりました。時間なくなっちゃうよ? 行くんでしょ? 今日も」

「ほんっとっ、お口が達者に。危険だわ、女を弄ぶ武器にーーあ、航流じゃ無理か。その口があっても精神的にはまだまだ子供だからねっ」


 色々とカチンと来る言葉が多いがここは我慢。

 すると、俺の言葉に気付いた茉優先生は自分の腕時計で時間を確認した。

 時間を確認して直ぐに、遅くなっちゃう、と言って手を振りながら走って行った。


「はあ、合コン行くんならそろそろ相手を見つけてきてよ。······愚痴聞くの大変なんだから」


 それも愚痴だ、と自分で突っ込み、正門を通って帰路に就いた。



 *



 帰路を歩いていると、毎日登下校で通る河川敷にやって来た。

 この河川敷は色々と思い出がたくさん詰まった場所でもある。そのため、何故か思いに浸ってしまう。

 夏ならここで少し景色を眺めながら思い出を振り返ってもいいが、今は九月下旬。人によってはまだ夏、と言う人もいれば、もう秋だ、とも言う人もいる。俺自身はどっちかと言えば後者だろう。九月上旬なら前者かもしれないが······。


 季節の変わり目は人それぞれだな、と俺らしくないことを考えていると、ボールが飛んできた。

 野球ボールだ。

 飛んできた方を見ると『すみません。取ってくれませんか』と叫ぶ小学生たちを発見した。

 その叫ぶ小学生たちを見て微笑。

 懐かしい、と思いながら左手で投げようとした。が、俺は瞬時に飛距離が出ない下投げに切り替えた。

 小学生たちは一瞬、俺の投げ方に戸惑いを見せたがボールをパスすると『ありがとうございます』と頭を下げて戻っていった。


 妙な達成感を味わいながらも河川敷を景色を眺めながら歩く。

 景色を眺めていると、腹が鳴った。

 小腹が空いたのは珍しいと思い、河川敷近くのコンビニに向かった。

 夕飯のことも考え何にするか考えながら河川敷の階段を下り、目の前のコンビニに目を向けた時、コンビニから出てきた見知った人物と目があった。

 あ、と口にしてその人物に歩み寄った。


「こっちなんですか、家は?」

「おっと、それは教えられないな」


 と、何故か教えてくれない。でもこの人らしいな、と感じながら相手の名前を口にする。


「どうも、ぶ······妻城さいじょう先輩。ーーこんばんは? ですかね?」

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