1、二つの思い
1ー1
*
薄暗い廊下にひとつの足音が生まれる。
足音の正体は上履きの音。つまりは生徒の足音だ。
タッ、タッ、タッ、タッと、まるで心臓の音のような規則正しい音。だが、次の瞬間には心臓が止まったかのように足音が消えた。
しかし足音は消えたとはいえ、生徒の姿までは消えない。足音が消えた理由はその生徒があるところで止まったからだ。
「はぁ······」
重いため息。
そのため息に何の思いが込められているのかは彼にしか分からない。
彼はそっと深呼吸。そして何かを決めたかのように声を出す。よし、と。
よし、と聞こえてから再び暗い廊下に足音が生まれる。
彼の視線の先には光がある。その光の場所こそが彼の目的地。
目的地に向け歩く速度をやや上げた。そのややは人によって全く違う。速い、と感じる人もいれば遅い、とも感じる人もいる。ただ彼にとっては丁度いい適した速さなのだ。
「ふぅ······」
目的地の前に着くと、軽く息を吐いた。
その行為で自分は緊張しているのだと感じる。が、その緊張を無視して目の前にある扉はスライド式と確認する。
拳を作る。あくまでノックするための、だ。殴り込みとかそういうのでは断じてない。
······お前にそれを実行する勇気はない。
と、誰かが言いそうだが気にしない。
ーートントン。
扉をノックした。すると、
「どうぞ」
声がした。女の人の声だ。
その女の人の声を聞いて、ノックした手で扉を開ける。
「し、失礼します」
緊張しているな、と感じるがそれはいつものこと。
「どちら様?」
と、声がしたのでゆっくりと音を立てずに扉を閉める。
部屋の中を見ると、会議机向かって椅子に座っている一人の少女がいる。
その少女が反応してくれた人だと思い近づこうとした時、その少女の視線がこちらを向いていないことに気づいた。
視線はどこ? と少女を見ると、少女がやっている宿題に向いていた。
失礼な人、と思いながら言葉を返す。
「は、はい、《ラジオ部》に興味を持ちまして······」
「そ」
······あれ? それだけ?
一瞬にして彼の緊張は無駄になり、思考が止まった。慌てて思考を動かして言葉を作る。
「あ、あの······部長さんは?」
「······」
「あのー?」
「······」
「聞こえてます?」
「······」
「もしもーし?」
「······」
「ダメだ······これはでなーー」
「ああ! もうっ! こんな問題解けるわけーー」
と、いきなり少女が声を荒らげた。しかも目があった。これは気まづい、と思い彼はひとつのアイデアを考えた。
······こうなったらそそくさと帰るのが一番!
「あ! 用事思い出したので、また出直しーー」
「ちょっと待って!」
アイデアはたったの数秒でボツ、となった。
逃げろ、と頭では分かってはいるものの、体では全く伝わっていない。
「······」
何故か理由は分からないが少女に凄い睨まれてる。
······よく分からないけど、何かしらの逆鱗に触れた可能性が······ここはよく分からないけど、早く謝って退散しよう。
と、考え言葉を作る。注意することがあるとすれば、穏便に事が運ぶようにするだけ。
決して、絶対に、彼女の逆鱗にはもう触れないことを意識し、言葉を発する。
「あ、あの、よく分からないですけど、すみまーー」
「縄文時代における一般的な住居は?」
「え? ーー
「······今から一万年より以前のことを、気候学では何期と呼んでる?」
「
······てか、思わず反射的に答えちゃったけど大丈夫かこれ?
彼は少女の顔色を伺う。怒っている感じではない、と判断し言葉を作る。が、
······何も浮かばない。怒っている感じではないっぽいけど、本当に大丈夫か?
必死に不安が顔に現れないようにしながら少女にかける言葉を探す。だが、言葉が何も出てこない。むしろ今現在、思考が完全に止まってる。
思考が止まり慌てていると、少女は漫画やアニメのワンシーンでよく見る、右手で左手の掌を叩いた。後は『!』を入れるだけ、と思いながらその行動にこちらが反応に困っていると少女は口を開く。
「ねえ、名前は?」
「はい?」
「だから! な、ま、え!」
強調された部分にああ、と頷く。そこで自分がまだ名乗っていないに気づいた。
慌ててまずは軽く咳払い。演技とか、何かを披露するわけでもないのに大袈裟だと、咳払いした後になってから思う。
「えーと、一年三組の
自己紹介をしてから気づいた。自分は緊張していないことに。
珍しい、と思いながら相手の自己紹介を待つ。
「一年一組の
一が多いな、と思いながら返す言葉を送る。
「あ、先輩かと思ったら同級生なんですね」
「······今、何て言った?」
······あれれ? 俺、今まずいこと言っちゃった?
逆鱗には触れない、と決めたはずが、触れてしまったようだ。
*
一瞬にして彼女の表情は変わった。
変わった原因は分かる。その原因を作ったのが俺だからだ。だが、俺にも分からないことがひとつある。
······何を言った?
航流は自覚していなかった。自分が発した言葉が、相手に刃として刺さることを······。
「確か、鹿代航流って言ったよね?」
「え、ええ。俺は鹿代航流ですが?」
「っ、男のくせに」
「え?」
航流には楓が密かに発した言葉が聞こえなかった。
「何でもないっ。いい? あんたはこれから部長が来るまで立ってなさい!」
これは本当に俺は彼女を怒らせたらしい。これは謝るしかない。
そう思い彼女に近づこうとして足を一歩踏み出した時だ。
「動くな!」
台詞だけ聞けば刑事物だが、彼女は刑事じゃなければナイフや銃を犯人でもない。ただの高校生だ。
動くな、と言われた俺は踏み出した一歩を静かに元の位置に戻した。その動作と平行に彼女の表情も伺った。
彼女の表情は先程よりかなり鋭くなっていた。つまりは超怒っている。そう、超だ。超!
「いい? 今から私の言うことに全て従うのよ?」
言葉は出さず、首を横に振った。すると彼女は笑みを浮かべた。一瞬で理解した。その笑みには良いことなどひとつもない。悪い笑みだと······。
「へぇー。あなた、自分が今どんな状況か分かってる?」
「えーと、囚われの身?」
「ああ! ムカつくっ! こんなやつに私が負けるなんて!」
何がムカつくのか、俺が君に対して何に勝ったのかを知りたいが口出ししたら逆効果になるのは見えている。だから仕方なく、今は黙って従うことにする。
はっきり言えば、部活なんてどうでもいい。今は早く安全にここから出たい!
心の中で自分の感情をぶちまけてると、彼女が命令してきた。
「はあ······、三歩。違うな」
何が違うのか分からないがひとつだけ分かったことがある。
それは先程彼女が言っていた言葉の意味だ。私が負けるなんて、冷静に考えてみれば簡単なことだった。彼女とは今日が初対面。なら勝負事をやったとしたら今しかない。そうなってくるともう簡単。
彼女の気を済ませるようにもう一度あの勝負をすればいい。今度はこちらが出題者として······。
「青色のリトマス試験紙を赤色に変えるのは?」
「え、えーと······アルカリ性?」
「プフッ」
直ぐに手で口元を押さえた。
「笑ったでしょ?」
横に首を振った。
まずい、この言葉だけが頭の中でリピートされていた。
そして考える。今、俺がやるべきことを。やらなければいけないことを。
・彼女の機嫌を取り戻す。
・入部届を何としてでも彼女ーー無理と判断するから会議机の上に置く。
・逃走ルートの確保だ。
やるべきことは三つ。《ラジオ部》の部長さんが当分帰ってこないとするなら確実に三つ目はやるしかない。それでもまずは一つ目から。
一つ目からとはいえ簡単ではない。彼女の機嫌を取り戻す、と言っても取り戻し方は何も思い付きやしない。ましてや俺は彼女を超が付くほど怒らせている。だから一番妥当なものと言えば彼女の言いなりになる。だが、何をされるか分からない。それ相応の覚悟は必要だろう。
······そう言えば、姉ちゃんが女の子の機嫌を悪くしたら、確か······。
「一宮さんって、意外とかわいいね!」
「っ!」
お、反応良好。これは使える。
などと、思いながら次の褒め言葉を模索していると、
「鹿代君って、女の子なら誰とでも付き合っていいって人?」
意図が読めない質問を投げてきた。
考えずに答える前にまずは考えよう。これは試されてる······よね?
チラリ、と一宮さんの表情を伺う。
······分からない。だけど、先程よりも顔が赤いのは気のせいだろうか? ーーいや、気のせいだろう。かわいいね、って言っただけでなびく女の人なんかいるわけがない。
「そんなことはない。一人一人にちゃんと個性があるから、誰でもいいわけがないよ。もちろん一宮さんもだよ?」
「へ、へぇー」
とりあえず、答えたはいいがどうする。もっと褒めるーーいや、あまり褒めすぎても逆効果だよ、って姉ちゃんが言ってたからここは第二フェイズに移行してもいい頃合いだろう。
*
いつもは静かな暗い廊下なのに違った。
今日は賑やかな暗い廊下になっていた。
どうしてだろう、そんな疑問を抱えながら部室へ歩みを進める。
「確か、
声のトーンを一つ上げて真似をしたが似てないな、と悟る。いつもなら、
「部長。気持ち悪いんで止めてもらえませんか?」
って、楓ちゃんがツッコミをくれるけど、それも部室の中だけ。寂しいと感じると言うことは······、
「私も少しは先輩らしく振る舞ってる?」
その疑問に答えはない。
自分が振る舞ってる、と答えればそれが答え。逆もそうだ。振る舞ってないのならそれは振る舞っていない。そうやって昔の部長に教えられた。懐かしいものだ。たったの一、二年なのに。
「もちろん一宮さんもだよ?」
男の声だ。
聞こえてきたのは《ラジオ部》の部室から。つまりは彼が茉優ちゃんの言っていた新人君。
それにしても不思議。あの楓ちゃんが男と話すなんて······。嫉妬? いや、むしろ感動している方だ。可愛がってた妹が、姉から離れて独り立ちしていくような感動。
ひっそりと部室のドア窓から中を覗く。
「ふふ、いたいた。二人とも楽しんでて何より」
笑みを浮かべながらスライドドアに手をかける。
驚かせるか悩みどころだがここは真面目に、と。
新人君が来ているのだから印象を良くしなければな、と思いながらドアをスライドさせて開ける。開けきる時にわざとバンッ、と大きな音を立てながら······。
「いらっしゃい、新人君。ラジオ部へ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます