29 ツェルバとスールゥー その2
今こそ不二の件をと勝利が身構えた矢先、カランとベルを鳴らしドアを開閉する音が割って入る。
一般客からはヴァイエルの姿が見えないとしても、話題として聞かせてしまうのは上手くない。勝利は出しかけた言葉を咄嗟に差し替え、「いらっしゃいませ」と不自然を承知で素人なりに微笑んだ。
「湖守様、勝利様、私です」入ってきたのは、私服姿の石塚店長だった。コンビニの繁忙時間帯が過ぎたという事なのだろう。しきりと肩を上下させ、未だ整わない息のまま気遣いは無用だと手で訴える。「真田さんは、まだですか?」
「ああ。君の方が早かったよ」湖守が答え、キッチンに入る。「石塚君。お昼は?」
「あ…、まだですが。どうかお気遣いなく」
「これから全員お昼だし、一緒に食べよう」
柔らかなリーダーの笑顔で、「そういう事でしたら」と石塚が通用口付近の二人卓につく。「私の方でも少し当たってみたのですが、和也君には隠していたかった関係が幾つかあったようです」
「女? 男か?」座ったまま真顔で身を乗り出すダブルワークに、「不明です、残念ですが」と石塚も冷やかし抜きで答える。「埼玉の土地守の中に和也君と立場の似ている者がいて、時々端末で話していたようです。二年前を境に連絡を取りづらくなったと」
「その情報は、僕の方でも掴んでいる」湖守が頷いて、「後藤真一君だよね。今朝、彼と少し話をした」と寂しそうに付け加える。「『三世代循環で見せかけばかり取り繕っても、僕達は人間じゃない』って。…僕も、和也君本人から直接言われたよ」
「そうでしたか」石塚が沈痛な表情を浮かべ、面前で吐き出された湖守や隔てられた真一の苦痛をそっと気遣う。「すみません。気のきいた言葉が見つからなくて」
勝利は再び体を捻ると、不二に対し軽く首を横に動かして肩を竦める。とてもではないが、警護用ヴァイエルの件で、今の流れの腰を折る訳にはゆかない。
「諦めよう。不二、一旦リングに戻ってくれ」
囁くと、一瞬にして小さな人型が白光の塊に変化する。それは一気に圧縮され、小銭サイズの小物となって放物線を描いた後、勝利の右の掌に落ちた。
「ごめんな」無色透明なリングを、自身の携帯端末のカバーにはめ込む。スープカップの置かれている空席に尻を落とすと、勝利はまず両手を暖め、次いで冷めかけの液体を一気に呷った。
その全てをライムが見届けている。
緊急事態故に、やむなし。紳士もまた不二の件をそっと取り下げた勝利の判断をよしとしている。
手違いというものを放置するのは、座りの悪いものを首筋の辺りに感じるものだ。しかし、湖守の悲しみを石塚が共有するように、勝利のもやもやしたものをライムが汲み取ってくれるのは嬉しかった。
三世代循環は誰の為にあるのか。その答えに正しく辿り着いたからこそ、和也少年は絶望してしまったのだ。
追い詰められた彼には、自らの本質を偽る事なく神である事から始めている闇は、一つの理想郷と映ったろう。いずれ本人が地上にある全てを投げ出すか、闇に取り込まれ今回の悲劇を呼び込むか。元々、未来はその方向にしかレールを用意していなかったのかもしれない。
抱えている苦痛を知っている者に自分は見守られている。その事実一つでは過ごす毎日があまりに辛い者も確かに存在する。
勝利は、自身を幸運でもあると受け止めた。
ライム達が、回避の不可能な勝利の危機に常時備えてくれている。小さなもやもやにも気づいてくれている。それだけで自身を立て直せる事は、勇気の領域ではなく幸運の領域なのだ、と。
全員がその事実を悟っている。誰一人、和也少年の弱さを責めずにいる理由など、他になかった。
三世代循環。それはあくまで、人間寄りに立ちたい神々の思いを優先的に汲んだシステムだ。適応しきれなかった彼を責める事が誰にできよう。
キッチンから、ベーコンの焦げた匂いとホワイトソースに似たクリーミーな香りが湧き上がる。
「今日のランチはカルボナーラだよ」人数分の盛りつけを始めた湖守が、「うん。今日のパスタも美味しくできた!!」と自らの手腕を得意げに讃える。
ミカギとチリが全員に小鉢入りのサラダを整え、湖守がカウンターに上げてゆくパスタの皿と共に二人がかりで配膳する。
「パスタの付け合わせはコンソメスープなんだけど。コーンスープのお代わりの方が良かったら言って。遠慮しちゃダメだよ」
今の湖守が気配りの中で「遠慮」という表現を交えると、勝利の胸の奥に針で刺したような痛みが生じる。
「じゃあ俺は、コーンスープのお代わりをお願いします。一杯め、温かくて美味しかったです」
カウンター越しに湖守にカップを差し出し、勝利は伝えるべき言葉をきちんと発する。今はどのような慰めの言葉よりも、湖守の料理を口に入れ感想を伝える事が救いになる、と考えた。
「私は、コンソメスープを」石塚はさっそくパスタを口に入れ、「何も食べずに来て、こんないい思いまでさせてもらって。恐縮です」と満面の笑みを振りまきつつ平らげてゆく。
ライムとダブルワークは、ちらちらとコートの様子を伺いながら。配膳を終えたミカギとチリは、カウンターの定位置で。そして湖守は、ライムの定位置について勝利の横で食事を始めた。
白いパスタソースの中で、茹でたての麺が黄色く浮き上がっている。焦げ目のついた厚切りベーコンの桃色と、仕上げにかけられた粗挽き黒胡椒の黒が単調になりかけている皿の中に強い色を添えている。
ソースとパスタの色で、黄金の長髪を束ねたあの白スーツの男を思い出した。
虫の少年の主と思しき闇の幹部か。
今日中には虫の少年が監視に失敗した事に気づいてしまうのだとしたら。今の気まずささえ穏やかなものと感じる事になるのかもしれない。
-- 「30 ツェルバとスールゥー その3」 に続く --
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