38 再び空へ

 緊張感の走る室内に、乃宇里亜が突然可憐な少女の容姿を結んだ。

「マスターには、私が知らせました。ミカギとチリも準備中です」

「おう」集中力を高めるつもりか、ダブルワークが絵の前で佇み大きく息を吸う。そして、「あのマスの吸魔は、一度ロストしたミカギの担当だからな」と、誰の目も見ずに顔を持たない吸魔の情報を呟いた。

 ライムが青い髪の少女に「ありがとう」と礼を言えば、「気をつけて」の言葉が返って来る。

 ライムとダブルワーク、そして何と勝利にも、少女の気遣いの視線は及んだ。当分の間は気まずいものと諦めていただけに、乃宇里亜が示す態度の軟化に勝利の方が驚いてしまう。

 普段は建物全体を覆っているという事なので、会話の全てを聞いていたのかもしれない。勝利としては盗み聞きをされた事になるのだが、無事な帰還を望まれては、少女の行為を不快に感じる訳にもいかなくなった。

 全員がコートに袖を通し、個室のドアを開け三人で三階の部屋を出る。階下に行くのかと思いきや、ダブルワークが先行し昇り階段を選んで屋上に出た。

 金属製の柵が四角く囲んでいる屋上には、階段室と据え置き型の物干しの他には常設されている物はない。

 ただ、今日ここに干して行ったのだろう。十本近くのタオルと数枚の布製テーブルクロス、台拭き、そしてエプロンが、所狭しとその物干しに吊されて乾燥した冷風を受け流していた。

 一見、人目のない場所のように感じる三解建てのビルの屋上。ライム達はここから飛び立ち、南下するつもりでいるような気がする。

 しかし、まんぼう亭のビルより遥かに高いツインタワーが市川駅前から巨人の目線で勝利達を見下ろしていた。沢山の洗濯物が隠れ蓑になるとはいえ、高層ビルを景観の一部と片づけるには危険すぎる近さだ。

 もしバルコニーに人が出ていたら、勝利達屋上に現れた複数の人影が洗濯物の間から忽然と姿を消すところを目撃してしまうかもしれない。

「あの…、いいんですか?」

 勝利は、右手の人差し指で用心深くツインタワーを指した。

「問題ねぇよ。特に今ならな」ダブルワークがしたり顔をする。「俺達の姿が不可視になった直後、乃宇里亜が圧縮粒子で人数分のダミーを拵える。それがドアを開けて階下に下りるところまで細工したら、終いだ」

「つまり、きちんと屋上に影が落ちるダミーが造られるんですね」

 納得する勝利に、褐色の肌を持つ短髪の男が白い歯を光らせた。

「そういう事だ。吸魔についての情報が入ると、大抵こういう出方をする。屋上から飛び立って、ここに直接帰って来る。さっきの帰還時だけが例外だ。乃宇里亜が、ちっとばっかり重い処理を走らせている最中だったからな。負荷を下げる為に、俺とチリで着地場所を変更した」

「なるほど。色々と仕事があるんですね、乃宇里亜ちゃんは」

「いつもよくやってくれている」頷きながら、ライムも会話に加わった。「乃宇里亜は、ダブルワーク達と同じヴァイエルではあるのだが、神々の喪失前、つまり吸魔が出現するようになる前に誕生した機体だ。縫修機としての能力は備えていない。得意分野が違うんだ」

「縫修機…」

 鸚鵡返しに口ずさむ勝利に、ライムが頷いて返す。

「そう。私達縫修師を助け、私達と共に縫修を行う神造神の事だ…」

 話が核心に及び始めたところなのに、間合い悪く、階段室のドアが勢いよく開いた。店の手伝いに加わっていた二人の追跡者達が、悪意のない形で三人の話を中断させ、代わりに強い緊張感を添える。

「今度は有明だって?」ミカギが金髪とコートをなびかせながら、チリと共に洗濯物を避けて進む。「展示会でも見物したいのかしら」

「そいつを訊きに行くんだろ? 俺達五人でな」

 ダブルワークが、チリと同時に南西の空を仰ぐ。電話にあった有明ならば、確かにあの方向の先だ。

 梳いた雲ばかりが淡く広く覆う空で、太陽は既に西に傾き始めている。十二月の日没は早い。午後二時前くらいの日の高さか。

「んじゃ、始めるぜ!!」

 ダブルワークとチリの姿が突然消滅し、代わって建物上空に二機のヴァイエルが出現する。

 変形や巨大化のプロセスなど存在しない。外見とサイズの変化は瞬時に起こった。それが神の変化というものか、と勝利は演出美も余韻もない現実を塩の味として歯応え共々受け入れる。

 尤も、隙など全く無いのだから、敵を持つ彼等にとっては不利な材料になる筈がない。流石は戦士、と外野のこの身は、派手な変化よりも実を取った神々の判断を評価すべきなのだろう。

 しかも、ダブルワーク達のヴァイエル化と共にライムとミカギの姿は屋上から消えていた。代わってそこに、彼等と酷似した人形が四人分立っている。

 乃宇里亜が構成した粒子の寄せ集めだそうだが、なかなかどうしてよく出来ているように思う。

「そういう仕組みなんだ…」

 勝利が屋上から足を離した途端、圧縮粒子の塊が自分と同じ背格好の人形としてここに追加される。その光景を見たいような、見たくないような、複雑な気持ちで人形達から目を背けてしまう。

 緑の縁取りを施された白い星の機体が、上空から右手を下ろした。掬い上げる形に曲げられた四指が、勝利を招いている。

「急げ。お前を機内に収容したら、さっきより急ぐぞ。空間の亀裂は、もう始まっている」

「はいっ!!」

 硬質な指籠の中で膝立ちをしている間に、ダブルワークが勝利を自身の胸部へと導く。全身が光の球に取り込まれると、またも瞬く間に球状コクピットへと転送された。

「お邪魔します」

 ライムに会釈をすると同時に、先程の場所で予備のシートが形を成す。

 機体は既に移動中なのか、右左共に飛行する鳥を捕捉するも、モニターは黒い異物のように不定形のまま後方へと流してしまう。映像酔いの原因になりそうなので、横方向のモニターは視界から外すよう心掛けた。

 高速で水平移動しているというのに、相変わらず横Gとは無縁なコクピットだ。

 すいっと体を軽く滑らせ、予備のシートに再び全身を預ける。

 幸いにも今回は、手足を拘束するベルトが現れる事はなかった。並の待遇というだけの扱いなのに、ライム達から冷遇されずにいる事実をやはり素直に嬉しいと感じる。

 同じコクピット内でシートに拘束され、遮断とやらの恐怖に晒されたのがつい数時間前なのだから、当然と言えば当然か。

 だが、この数時間で自分は神の名乗りを上げ、遂にライム達の信頼を獲得するに至った。

 だから、縫修は成功する。

 きっと吸魔は皆、人間に戻る。

 ならば、今は考えまい。神名乗りのリスクについては。

 そして、どのような厄災に見舞われた人間が吸魔と化してしまうのか、についても。



          -- 「39 吸魔と人と」に続く --

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