39 吸魔と人と

 鮮やかな色調を薄められた青の中に、二つのシートが並べられた状態で不自然に浮かんでいた。空を写しながらも空ではなく、勝利とライムを囲む空間は閉鎖されているが故の快適さを球状に満たしている。

 たとえどんなにダブルワークが高速を出そうとも、乾燥した寒気が二人の肌に触れる事はない。

 ここは、ヴァイエル化したダブルワークのコクピット。そして、ライム達は縫修に赴くところだ。

 後方には、ミカギを乗せた赤いヴァイエルが続いている。

「そういえば、ダブルワークさんとチリさんの武器。修理せずに出てきてしまいましたね」

 勝利はふと、ダブルワークの分離型武器からピンが発射されなかった事を思い出す。チリの同型は、吸魔の体当たりまで受けてしまった。

「いいんだ」ダブルワークの声だけが返ってくる。「軽度のものなら、自己修復で何とかできるのが俺達だ。それに、さっきの射出異常は故障じゃねぇ」

「単に俺の所為、でしたね」

「そ~うだ」

「ごめんなさい」

 責められているのではないと理解しつつも、勝利は再びぺこりと頭を下げる。性分なのだから、最早直しようがない。

 移動中なので、ライムが左横に座る勝利の方に体を捻った。

 吸魔と対峙し、いざ戦闘が始まれば、ライムの真剣な様子は横顔しか拝む事ができなくなる。会話らしい会話は、到着前までになるだろう。

「もう、いいんだ。勝利君」

「はい」

「それに、私からも君に話がある」

 神格では格上という勝利を同伴させての移動中。それも、ヴァイエル化したダブルワークのコクピット内となれば、ライムの振る話題の方向性は自ずと絞られてくる。

 内容の予想はついていた。

「はい。何でしょう」

「吸魔の正体が人間である事に辿り着いた君だ。人間の吸魔化が、何によって引き起こされるかの見当も、既についているのだと思う」

 とてもではないが、「はい」と即答できなかった。縫修の成功を望みながら、一方で勝利が今最も耳にしたくない話が件の詳細だからだ。

「まんぼう亭に入る前にも話したが、三日吸いの被害に遭った人間が吸魔化するまでには個人差がある。先程縫修に失敗したB七三という獣型は、三日吸いに遭って十分後には吸魔化してしまった。友達と遊びに出かけた休日の夜、解散後に買い物をしようと別の駅で下り、近道の路地裏に入ったところで別の獣型B七二に襲われた」

「知っていたんですか? あの子の事を」

 ならばライムは、今朝立っていた場所を過去にも訪れている事になる。

「ああ」と、眼鏡の紳士が肯定した。「一度だけ彼女の自宅前まで行っている。五月雨百合音。その高校生が、昨夜君を襲った吸魔で、君は最初の被害者だ」

「そうだったんですか…」

 ライムにあっさり、三日吸いと吸魔化の因果関係を口にされてしまった。

 が、失意もそこそこに一つの情報としてまずは腹の中に落とす。ライムは「君もいずれ吸魔化する」と残酷な告知をしたも同然なのに、いざはっきり言われてしまうと、恐れていた程の強い衝撃には襲われいない事に気づく。

 事実の重さが、粘性を伴っている為だ。

 一度囚われるとなかなか抜け出せない分、浸透するまで時間がかかる。百合音達の縫修が終わった後に、重く大きく頭を擡げてくるつもりなのだろう。

 それなら、それでいい。勝利の今の脳内を占めているのは、アパートの住人にも挨拶をしてくれる隣人の笑顔だった。長い黒髪、つり目ぎみのアイライン、「おはようございます」の軽やかな声さえ、脳は正確に再現する。

 昨夜の吸魔が、やはり百合音だったとは。

 自分が吸魔化する恐怖の上に、あの笑顔の回復を遅らせてしまった負い目が大きく覆い被さって意識する中心が変わる。しかも、頭上どころか一帯の空全てを覆う真っ黒な雨雲と無謀な格闘をしている気分だ。

 一方で、彼女が勝利以外の被害者を出していない事に、ほっとしている自分がいる。それは、勝利都合の小さな吉報でさえあった。

「百合音ちゃん…」

 一月前に吸魔化してしまった少女の名を、そっと口にする。

 マスの吸魔も、元々はどのような人間なのだろう。

 家庭はあるのか? 職場の人達は心配しているのか? もし一人暮らしなら、ペットがいたなら。小さな生命の危機が、既に訪れていたりするのだろうか…。

 その人についても、今日自宅に帰してやりたい。

 百合音に三日吸いを行った吸魔を、今更憎むなど無理な話だ。元の人間とて、なりたくて吸魔になった訳ではないのだから。

 勝利自身も、自分から三日を奪った化け物への憎しみは手放した。

 ここからは、縫修に荷担する者と人間に戻るべき吸魔との戦いだ。

「昨夜、B七二は私達が縫修し、無事人間に戻す事ができた。しかし、その間に君がB七三に襲われてしまった。君には申し訳なく思っている」

 勝利は、諦観と共に首を横に振る。

「もういいんです。もし…、もし俺が吸魔になっても、きっとライムさん達が縫修で人間に戻してくれると思っていますから」

 美貌の紳士が、何故かここで瞼を瞑る。首肯の代わりというより、それは何かを否定している仕種のようでもある。

「君の担当は、私だ。私の全てを賭してでも、君の縫修は私が行う」

「ありがとうございます」

「それでも、私のような怪しげな神は信じない方がいい。今更こんな話をすると幻滅するかもしれないが、縫修は…、君が考えているような神の起こす奇跡ではないんだ。私は、全能神に遠く及ばない」

「え…?」

 勝利は、話の内容ばかりでなく、伊達眼鏡をかけた神が一度言葉を飲み込むところにも驚いた。決意の元で常に淀みなく話すのがライム、という印象を築き上げていたからだろう。

 何を今更、と足下を崩された不満が一瞬湧く。

 しかし同時に、冷たい印象の紳士が苦悩の足枷をかけられたまま長く縫修に臨んでいる事にも意識が及んだ。

 しっかりしろ、と勝利は心中で両方の頬を掌で叩く。ライムは失望させたいのではない。単に、自分の限界を事実として告げているだけだ。

「幻滅、だなんて…」問題も無理がある事も、既に想定内だ。「それでも、縫修しかないのなら。俺は、縫修もライムさん達も肯定します」

「…ありがとう」

 応援する言葉を喜んでくれるのかと思いきや、憂いを帯びた視線が返ってきた。

「ライムさん達を見て、俺、思いました」勝利は、覚悟の上で彼等にもう一歩踏み込もうと決める。「きっと神様は、自分で仕事もそのやり方も選んだり決めたりできないんだな、って。でも、昨日の縫修も成功したそうですし、その人がもう一度家族の元に帰れるのなら、凄い事だと思うんです」

 一旦、息を整える。

「…俺だって怖いですよ。これから自分が人間を襲う怪物になる事が決まった、って受け入れるのは。でも、ライムさん達がいるから、縫修があるから。俺は正気でいられるんだ、と思いました。人間の医師も消防士も、最前線の人達はみんなベストを尽くしています。ライムさん達もきっと、それだけでいい筈なんです」

 ライムは黙したまま、目を見開いていた。きっと、滅多な事では見せない表情なのだろう。

 勝利は、続けていいのだと確信する。

「ライムさんが仲間に嫌われていたり、ダブルワークさんと衝突したり。そういうものを見ている中で、俺も縫修について色々と思うところができました。俺は未だに縫修の全ては知りません。ただ…、だから。これから何が始まっても、何が起きても。縫修しかないと信じて人間と向き合うライムさん達の全てを、俺は見届けたいし、肯定したいんです。その葛藤を知っている人間兼神様がいてもいいって事じゃないんですか? 今日の俺が迎えている神様初日って、そんな意味もあるのだと思うんです」



          -- 「40 黒の縫修師が待つ」に続く --

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