35 吸魔の正体  その2

 三日分の過去を奪われた事によって、確定した過去がある。勝利は獣型の吸魔に襲われ三日吸いに遭った、という事実だ。

 体験が今更別の形を描き始める筈もなく、耳にこびりついた吸引音を思い出すだけで、負い目にも似た感情は勝利の中で激しい憐憫に取って代わる。

 被害者は自分の方だ。疑う余地など何処にもない。ならば、「魔物の八つ当たりなど知った事か」と蹴り返し、正しさという名の燃料を負の炎に投下してやれば、正誤表は完成する。それだけの事なのに。

 違和感が頭を擡げては、小さな棘となって心の表面を刺し続ける。この仕打ちは何なのだろう。

 吸魔の内から溢れるものは、捻じれた上に粘性を伴った願望の奔流だ。

 聞きたくもない声が胸の奥まで届くと、勝利の憎悪が大きく鈍る。頭上を覆う魔物に人間の深い悲しみが重なるなど、怒りと恐怖が大きすぎ自分は既に壊れているのか、と考えてしまいそうだ。理解できるという事は、近しい存在という事でもあるのだから。

 馬鹿馬鹿しい。

 吸魔は、人間が生きている日常の世界と背合わせの世界から獲物を求めて現れる魔物だ。そもそも生物でさえない。空間を切り裂いて出現する瞬間を、ダブルワークの中から確かに自分も目撃した。

 吸魔は。

 吸魔は憎むべき異世界の魔物、という解釈で全てが綺麗に片付く筈なのに。

(それじゃあダメなのか…)

 苦しみから逃れたい一心で、勝利は渋々、記憶の引き出しに納めている情報の見直しに取りかかった。最初は、強引な関連づけから始める。

 組み合わせを変え、時には否定もし、ナンセンスな発想と重々承知の上で思考をこねくり回せば、それらは次第に可能性という現実味を帯び、勝利の肝を冷やす。

「まさか…」

 一つの推論に辿り着いて、慄然とした。だが、過去にあった事の全てと辻褄が合う為、拒絶しようがない。

 具体的な例を挙げれば、より明確になってゆく。

 人間に危害を及ぼす吸魔に対し駆逐ではなく縫修なる行為が必要だ、と考えるライム達の根拠。

 三日吸いに遭いながらも安定している勝利に向けられた、追跡者達の強い関心。

 勝利によって縫修の機会を一度完全に潰されたライム達の焦り。

 同じ理由から、次の成功の為にと神話まで押しつけ勝利を追いつめてゆく彼等の並々ならぬ執念。

 更には今、隣人と吸魔の間に割って入った勝利に向けられている、黒い獣のあの憤り…。

 それら全てが一本の線でものの見事に繋がってゆく。

 ライムとダブルワーク、ミカギが苛立ち、チリと乃宇里亜が勝利に冷たかった理由も、当然同じもので説明がついた。

 吸魔は、元々は人間なのだ。

 人間として生活していた者の中で、誰が、黒い炎の魔物になり果ててしまうのか。その繋がりは曖昧だが、正体を人間と考えるだけで、家族や地域への執着は簡単に説明がつく。

 そう。今は、特定の条件との繋がりは曖昧、と思っておこう。人間である、という事の方が重要なのだ。

 たとえ姿と性質が変わってしまっても、おそらく人間であった頃の全てが失われてしまう訳ではない。

 家族の方も呼んでいる。行方不明になった肉親の帰りを、長い間待ち続けているのだから。

 もし、母親の嗚咽が吸魔にも届いているのだとすれば、この町内に獣型の吸魔が出没するのは必然だ。

「あ…、ああ…」

 膝が崩れて、勝利は前のめりに路上へと倒れかける。

 レジ袋は手から離れ、アスファルトに着地したと同時に、卵の潰れる音がした。

「ごめんなさい。…俺が、君をそのままにした。俺の所為で、君の苦しみが長引いてしまったんだね」

 勝利の言い訳を、吸魔は空中から黙って聞いている。癒える事のない乾きを全身から立ち上らせながら。

 自宅を目前にした高校生の少女に、勝利は野菜を武器と投げつけてしまった。それを仕打ちの鞭と捉えられても致し方ないではないか。

 しかも、吸魔を怪物と蔑む事もしたし、あまつさえ勝利は、ダブルワークの戦闘中に彼等の死さえ望んだのだ。

 負の連鎖に取り込まれてしまうと、人は、憎むべき相手が誰なのかを見誤る。

 人間の嘆きに寄り添おうとしているライム達が、吸魔を敢えて殺さずにいる理由など幾つもなかろう。彼等は、吸魔が元は人間である事を知っている。だから、「自分が何をしたのか、わかっているのか!?」と、勝利の発する勝率低下に激怒したのだ。

 本意ではない姿を強いられている人間を蔑んだ。

 勿論、家族の悲しみも続いている。

 制御がきかないとしても、勝利の力で折角の縫修を妨害までした。

 それは大罪だ。

「ごめんなさい、なんて意味がないね。俺が邪魔した事に変わりはないんだ」震える足で力なく立ち上がる。自身への嘆きは不要だ。誰にも頼らず、自分の力で改めて夢の大地を踏みしめたいと願う。「次の機会に、必ず君を元に戻すよ。あのマスの吸魔もだ」

 最早、謝っている場合などではない。ライム達に縫修とやらを行ってもらわなければ。

 それも、確実に成功する縫修を。

(俺はどうやったら、ライムさん達の勝率を上げられるんだろう)

 幼少の頃から自力では解決の出来なかった問題が、固まったばかりの決意を砕かんと大きく立ち塞がる。

 思いの強さだけではまだ何かが足らない事はわかっている。故に、今まで自身の性質を変える事ができずにいた。

 欠けているものとは、何なのだろう。狂おしい程に、その答えが欲しかった。

 と、眠りの壁の裏側から、ダブルワークの声がする。闘神と見紛う男にしては、声音が優しい。

「……」

 聞こえてくるのは、許しの言葉だ。

 どのような事情や経緯なのかは不明としても、神と名乗る人型の機械が、勝利の何かを許そうとしている事は確かだった。

 不意に、勝利の内で何かが一つ外れ、息がしやすくなる。

 頃合いも良く、上空の雲が切れた。満月に近い月が素顔を露わにし、夜の王として地上に遍く光を注ぎ落とす。

 雲を、建物を、電柱を闇の中から浮き上がらせ、見えにくくなっていた小路を白く太い線として際立たせた。

 窓から漏れる明かり、家族が会話する声、台所で何かを炒める音。遠くから濁った音として聞こえてくる電車の走行音は、人の出勤と帰宅を支えている。

 乱雑でありながらも、それらは皆、どこか心地よいものとして勝利を包んだ。

 人家の灯りはあくまで暖かく、月光は冴え冴えとして清らかな光を下界に齎す。

 ああ、世界は美しい。

 たとえ、人を吸魔に変える残酷な現実があろうとも。

 勝利と吸魔を照らす月光が、何故だろう、絵にあったカタバミの黄色を強く思い起こさせた。



          -- 「36 吸魔の正体  その3」に続く --

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