34 吸魔の正体 その1
眠りの快楽に耽溺しつつ、勝利はまたも嗚咽を漏らす何者かの嘆きを聞き取った。それが、湖守と乃宇里亜による夢操作の企てと知る由もなく。
ダブルワークが倒した椅子の打音に紛れ、乃宇里亜の作る合成音声は勝利の耳へと密かに届けられた。聞き取るなど一瞬の事だが、何を決めたのか、脳はそれをやり過ごさず忠実な再現の繰り返しに乗り出す。
まるで、意識外からの命令でも帯びているかのように。
眠りは質を変えた。快適な熟睡が斜面を転げ落ち、夢のない世界に湿度と暗転という彩色が施される。
音は、ただ一つ。嘆きの声だ。
怪しげな知覚が働く中、勝利はうつらうつらと湖守の話を想像のままに再現しているのか、とも考える。が、今度の嗚咽は一人分しか聞こえてこない。声は、女性のものとはっきりわかる高い声質を持っていた。
辺りは暗く、東の空からは薄い雲に弱められた月の明かりが微かに降り注いでいる。
夜なのだ。
目前には、自分の住んでいる部屋がある木造の二階建アパート。冷風に晒された剥き出しの右手には、スーパーの買い物袋が下がっている。夕飯の為に、と寄り道をしていたのだろうか。肘を上下させるだけで、レジ袋はシャラシャラという軟素材特有の軽い音を立てた。
強烈な刺激の連続で綴られた一日は、ほぼ終わりかけている。
しかし、市川からいつどのようにして帰って来たのか、勝利は覚えていなかった。引き留める湖守がどのような経緯で解放してくれたのか、についての記憶もごっそりと抜け落ちている。
足の裏の感触が弱い。現実というより、夢に近い踏み心地だ。
その中で耳に絡みつく嗚咽は、勝利を現実側に引き寄せる役割を担った。隣家の屋内からは時折、本物の嘆きの声が漏れ出ていたからだ。
高校生ならば帰宅している筈の時刻に、家族が今日も一人足らない。おそらくは隣人こそ、残酷な現実を悪い夢と捉えたかったろう。
一度狂いが生じると、些細な風景さえ家族を追いつめる。誰にも問題などなかった家庭で、毎食、必ず一人分の食事が余るのだ。中身の残った鍋が、汚れない茶碗が、静かに、だが容赦なく、弱った精神を削り取ってゆく。
嗚咽は、家族としての悲しみであり、日々憔悴してゆく当事者としての悲鳴だ。
「引っ越そうかな、俺も…」
同じアパートから出てゆく者が現れると、勝利もこの町内から逃げ出したくなる。
しかし、なけなしの蓄えを気分転換の為の引っ越しに回せる程、次の仕事を手繰り寄せる事は容易くなかった。精神衛生上、多少の問題があろうと今は堪えるしかない。
と、背後からもすすり泣く声が聞こえる。別の声か。やはり女性のものだ。
屋外だぞ、と振り返ったところで、服の上から寒風が体温を奪い、頭髪の全てが常軌を逸した形に天を突く。
吸魔だ。
昨夜、勝利を襲ったあの黒い炎の獣が頭上から勝利を見下ろしているではないか。
自分を、と考えたが、それは違うと勘が反発した。吸魔の視線の先にあるのは、隣の一軒家だ。
家の中に入り込み、悲しみに沈むあの家族を襲うつもりなのか。
しかも、何故泣く? 女性の声で。
無駄と知りつつも、右手に下げているレジ袋からばら売りのジャガイモを取り出し、吸魔めがけ投げつけた。
ダブルワーク達ヴァイエルのようにはいかないもので、イモは炎の中を貫通し、向かいの敷地に落下する。
ガシャンという、実に状況を理解しやすい破壊音が起こった。
吸魔が、炎に紛れ見えにくい双眸を勝利のそれと合わせる。
直後、怒りの火矢で頭上から射竦められた。歪んだ魔物の感情は人間の皮膚を外側から熱し、体中の水分を汗に変え絞り取ってゆく。
それは理不尽な八つ当たりだ、と意識が猛反発する。と同時に、頭上を覆う吸魔に対し、説明のつかない罪悪感をも抱いてしまった。
魔物から人間を守ろうとして、何故罪の意識に苛まれてしまうのか。上手い説明が思いつかず、自身の事ながら理解に苦しむ。
黒い獣が、青い炎を両方の前足に装備する。不定形のまま揺らめいていた炎は、硬化し、やがて冷たく輝く青い武器と化した。
勝利を、獲物ではなく、敵と認識したのだ。
「まさか…。ライムさん達と関わったから、なのか…?」
本来なら、吸魔が追跡者達と勝利の繋がりを知る筈もなく、理由としては脆弱な事この上もない。思わず首を捻りたくなった。
吸魔から向けられる憎悪の炎に自責の念ばかりを増幅させられ、勝利は呆然と頭上を仰ぐ。
-- 「35 吸魔の正体 その2」に続く --
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