20 まんぼう亭  その1

 千葉県市川市。

 頭に「東京都」がつかないという理由だけで地理的に江戸川区から離れた場所を想像されがちだが、土地勘のある人間は別な事を考える。

 新小岩駅から総武線各駅停車でも二駅、快速に乗れば一駅分の移動で、市川市最大の駅に下りる事ができる。江戸川区の住人にとっては、江戸川を挟んだ正にお隣さん、いや、お向かいさんというご近所関係だ。

 駅前のシンボル的なツインタワーを遠方から確認し、勝利はそこが市川駅南口から徒歩にして二〇分と離れていない場所だと理解した。

 晴天を背景にした二本の高層ビルは幕張方面まで仕事を探しに行く時によく眺めていたので、覚えている。

 しかも、頭上を覆う高圧送電線の列。南口方面、それも河口側でなければ何処だというのだ。

「まさか、市川にライムさん達の拠点があるなんて…」

 自室のあるアパートから戦場へ、更には追跡者達の拠点に移動している最中なのに。周辺の既視感が強すぎ、初めて足を踏み入れる土地という実感がまるで伴わない。

 当然ではある。

 そもそも、江戸川を左右から挟む低地帯同士。飛ぶ鳥を落とす勢いの大規模都市開発とは共に無縁で、景色に縦線を加えるものが鉄塔の他はあまりない、という点に於いても、知る景色同士は驚くほど似通っている。

 尤も、件の鉄塔と高圧送電線の視野占有率では、勝利の知る江戸川区域などまるで勝負にならなかった。

 こうして空の全域を仰いでいてもわかる。市川の圧勝である、と。

 もしかしたら。ライム達は追跡者として、障害物が視野に入るこの環境を敢えて利用しているのかもしれない。

 戦闘後、二機のヴァイエルが揃って都内まで南下するのかと思いきや。ダブルワークとチリは二手に分かれ、勝利を連れたライム達二人だけが千葉県入りし、江戸川河川敷と住宅地の間にある人気のない小路に下りた。

 彼等が敢えて河川敷に直接降りる事を避けた理由も、想像がつく。江戸川下流ともなれば、橋の数と通行量はまるで規模が違うのだ。

 逆Y字型で東京湾へと注ぐ江戸川は、川幅の広い方だけで、鉄道橋が四路線分、高速道路橋が二路線分、国道橋が二路線分、県道橋が二本も架かっている。しかもこの数字は、市川市境か市内間に架かっているものだけだ。

 どの高架橋も大変見晴らしが良く、なまじ整備が行き届いているだけに河川敷という場所は、開演中の舞台並に常時視線を集めてしまう。

 たとえダブルワークが不可視の機体であろうと、いつかは人間サイズの男に戻る。目聡い視線にも晒されるのだし、目立ちたくないなら河川敷など利用しないに限る。

 建物の壁部分の組み合わせを吟味でもしたのか、ダブルワークが勝利とライムを下ろしたのは、静かな上に視線とは無縁な小路だった。建物に囲まれた場所だというのに、ベランダや窓が面していない絶妙な好ポイントだ。

 天気のよい真昼時なので、歩行者はどうだろうと道の前後に視線を走らせたが、人通りも全くない。

 三人が顔を揃えると、ライムとダブルワークが先に立ち、音もなく市川駅方向へと歩き始めた。靴音どころか、衣擦れ、呼吸音など、冬の厚着からは想像もつかない無音ぶりが反則的ですらある。

 静寂と背景に溶ける、正に猫の歩みだ。しなやかな獣の体さばきにうっとりと見とれてしまい、勝利の口から感嘆の息が漏れる。

 歩く時さえここまで完璧に気配を殺せるのだから、アパートの下でライムが放っていたものは、やはり「こちらを見ろ」というメッセージだったのだろう。

 勝利も真似をして静かに歩こうと努めるのだが、同じ道の同じ場所を歩いていても、靴が砂を噛み、コートの生地同士が頻繁に擦れ合う。所謂、「人のいる気配」を振り撒いている状態が無駄に続く。

 小路を抜け、車が通る道幅に恵まれると、前方からダブルワークが勝利に手招きをした。

「もう声を出してもいいぞ」

「は…、はぁ…」不慣れな歩き方を見様見真似で十分以上も続けた為、足の裏と脹ら脛に異様な張りを覚えた。実践した事はないが、競歩とはこういうものではないかと想像し、勝利は着膨れした肩を上下させた。「お二人の容姿は、派手ですから、ここでも目立つのは、まずいんじゃないですか?」

「いや。店は目と鼻の先だし、この辺りだと顔見知りも結構いる」

「店? これから、店に、入るんですか?」店の単語を強調し、勝利は思わず暗い内装のバーやパプを連想した。「なるほど。秘密の話には、うってつけ、ですね」

 前を行く二人が、突然足を止めた。

 滑らかな仕草で踵を返し向き直ったのはダブルワークで、「いや」とまず短い否定から入る。「絶対に、お前が想像しているような所じゃねぇぞ。…まぁ、好きなモンは食ってけ。レアチーズケーキ、ナポリタン、ハンバーガー、うどん、豚キムチ丼、酢豚にモツ煮込みまであるからな」

 前が支えたから、ではなく、自然と勝利の足が前に進まなくなった。誰が何処でどのような店を営業してもいいとは思うが、些かメニューが豊富すぎやしないか。

 失礼だが、確信を抱いてしまった。その店は絶対に流行っていない、と。

 ダブルワークが、止めを刺す。

「酒も出すし、カクテルも作る。何を作らせても旨いには旨いんだが。但し、…喫煙OKだ」

「今時たばこ、ですか!? レアチーズケーキなんて繊細なものを出すのに!? それって、ダメな店の典型じゃないですか!?」

 他人事ながら、勝利は店に訪れるであろう未来を案じてしまった。

 秘密の会合に適した条件を備えているのはいいとして。いつ、どのような客層から儲けを得るつもりのか。そのビジョンが、店の方針から全く見えてこないのだ。

 右の踵で優雅に弧を描き、ライムも振り返る。

「店の名前は、まんぼう亭。三階建てのビルの一階に入っている。年中無休だ。君も覚えておくといい」

「俺も、ですか?」勝利は、つい右の親指で自身を指した。「俺、部外者ですよ? そんな場所に、俺なんかが居着いちゃ迷惑になりますけど」

 ライムの眼鏡が光った。あの、ひどく冷たい印象が路上で蘇る。

「勝利君。君の正体とは別に、もう一つ重大な問題が残っている。恐ろしい事だが、先程君の部屋で話した内容が後遺症の全てではない」通行量を意識してか、ライムが敢えて迂遠な物言いをする。「被害者には、他にも共通した症状が現れている。しかも、襲撃されてから発症するまでの時間には、かなりの個人差がある。ビルの二階が湖守さんの自宅、三階に私達が詰めている。今は、駆け込める場所がある、と覚えておくだけでいい」

 車が一台、勝利達の横を通過し工業地帯へと向かっていった。通行人に浴びせかける冬の冷気が、当然のように寒気を生む。

 膝が震えた。勝利の膝が。

「この話って…、三日云々の事、ですよね…」

 無意識に握る拳に、汗が滲んだ。

 ライムが、非情な物言いで率直に返す。

「そうだ」



          -- 「21 まんぼう亭  その2」に続く --

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