21 まんぼう亭  その2

 もし、という仮定には何一つ覆す力などないが。

 三日吸いについての説明を受けている時、ミカギからの電話がかかって来なかったら…。会話は中断されずに進み、勝利は、ライムが今言わんとしている内容の全てをあの機会に聞いていた事になる。

 たとえそれが、耳に蓋をしたくなるおぞましい内容であろうと、未来の自分に起こるという残酷な告知であろうとも。

 あの時、三日吸いに関する話は聞いておきたかった。これから、自分の正体なるものを突きつけられるかもしれないのだから。

 人間が一度に受け止める事のできる負荷の大きさなど、たかがしれている。凡人なら尚の事だ。同時機に聞いてしまい、自分の正体の件が疎かになる事も、三日吸いの情報を話半分で聞き流してしまう事も、勝利は嫌だった。

 建物の列が壁を成している為か、ライムの眼鏡の伊達レンズが右側ばかり全ての光を弾く。残る左のレンズ越しに見えるのは、冷気に研磨された氷の眼差しだ。

「詳しく聞かせてください。その…、まんぼう亭に行ったら」

「勿論。今度こそ、君の中にある全ての疑問に答えよう」

 真摯な態度で応じてくれるライムに、勝利は「ありがとうございます」と軽く頭の先だけを下げた。

 まるで駆け引き上のやりとりだ。そう嫌悪しつつ、駆け引きは確かに介在していると、一人寒々とした現実に唇を噛む。

 何しろ彼等は、ダブルワークを神格とやらで翻弄した勝利からなるべく多くの個人情報を引き出したいと望んでいる筈なのだ。今は、今だけは、相応の待遇が約束されている。

「おい、勝利」さっそく心中の淀みを嗅ぎ取ったか、ダブルワークが眉をひそめる。「お前、顔が怖いぞ」

「今は無理です。普通になんて、していられません。…俺、今結構ぎりぎなんで」

「ぎりぎり、ねぇ…。だったら尚の事、身構えるような真似はするな。まんぼう亭は、食って、笑って、一服つく為の場所だ」

 露骨な警告を発し、ダブルワークはライムと共に進行方向へと向き直った。

「わかりました」渋面のまま深呼吸し、勝利は二人の後についてゆく。

「本当は怖いんですよ。あんな事もこんな事も、知るという事が」は、言うまいと飲み込んだ勝利の本心だ。その代わり、返す刃で怪しげな店主の話題を振る。

「結構ぐだぐたな印象があるんですけど。やっていけるんですか? まんぼう亭は」

「問題ないだろ」歩きながら、ダブルワークが左手の親指で都心方向を指した。「湖守さんは、都内に幾つかビルを持ってる。それと、横浜、川崎、さいたま、つくば市内にもな」

「ビル…」俄には信じられず、勝利は肝心なところを訊き返す。「ビルっていうと、高層マンションとかテナント・ビルとかを指す、あのビルの事ですか?」

「ああ。他にあるか? ビル」

「いえ。俺は知らない、です…」

 正直なところ舌を巻いた。ライム達が上司に全幅の信頼を置く訳だ。

 湖守は、単に彼等追跡者達の纏め役ではない。不動産を運用し、潤沢な資金で部下と店を潤す、資金持ちの顔役でもあるのだ。

 大雑把に分けて、不動産で金を手に入れる方法は、二つあると聞く。低い価格で買った土地を高額で転売し利鞘を得る、所謂土地転がしが一つ。

 もう一つは、土地や建物を敢えて手放さず、会社や団体、個人に貸し、家賃収入を得る方法だ。

 ビルを持っているというなら、湖守は後者。しかも、優良な地名ばかりが出てきたので、勝利はつい半眼になった。

「え~~……」

 その上。もし、家賃収入とは別に、長期的な土地購入計画を支える運転資金を別に確保しているとしたら。間接的であれ、ライム達の活動を支えているのは、日時と共に桁数が増えてゆく天井知らずの総資産という事になろう。

 いずれにしても、江戸川区内や市川市内の会社経営者たちが揃って血涙を流しそうな別次元の話だ。

 まんぼう亭。飲食店として幸福の中にあるか否かは、最早客が決めるしかない。

「あっ!」

 呆然としる間に、来を行くライム達との距離が離れてしまった。慌てて距離を詰め、今一つ活気に欠ける駅前通りに出る。

 まんぼう亭の看板は、その通りの東側で見つけた。

 建物は、話に聞いた通りの鉄筋コンクリート造三階建て。勝利の住むアパートよりも僅かに狭い床面積を持つビルだ。

 建物を構成する四面のうち駅前通りと平行している二面が長い、整った直方体をしている。角張った古いデザインの建物なのだから明るい外装に変えても良さそうなものを、何故か真っ黒なタイルで道路側一面全てを覆ってしまっていた。

 せめて看板くらいはかわいらしく。経営者として、苦肉の策を労した跡が窺える。

 背景色は、海、というより空を連想させる明るい青で、横長の看板の左端にあまり上手いとは言えない魚の絵が描かれている。残るスペースに踊るのは、「まんぼう亭」という大きく黄色い五文字だ。

 窓は一階正面だけで小さなものが五つ取りつけられており、ドアを挟む形で右側に三つ、左側に二つが、内側からレース生地のカーテンを際だたせ白く浮かび上がっている。

 二階や三階に上がる為の階段室は、建物左に寄せてあった。その二階と三階には、一階よりも大きな規格の窓がそれぞれに三つしかない。駅前通りが南南西から北北東に走っている直線道路なので、この窓は全て西北西を向いている事になる。つまり、江戸川方向だ。

 やはり、店舗部分と同じ白いレース生地のカーテンが目隠しに使われているのだが、真っ黒なビルにはあまり似合っておらず、怪しげなマッサージ・サロンがテナント入りしているように見えてしまう。

 建物自体は、明らかに古いものだ。それを、勝利の住むアパート同様に何度も手を加え今尚使用に耐えられる状態にしている。

 もしかしたら、屋上に上がる事もできるかもしれない。金属製の手すりが取り付けてあり、奥で洗濯物と思われるタオルが揺れているのだから。

 勝利が唾を飲んでいる間に、ダブルワークがドアを開けた。

 ガランという金属の音と共に、ふわりと店内から流れ出る香りがある。酸味の絡むトマトソースの香りだ。

「あ、お帰り」と、店内から陽気な中年男性の声がした。



          -- 「22 湖守と名乗る神」に続く --

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