12 空中戦  その1

 虫食いの穴から、黒い塊が形の定まらない頭を突き出して激しく暴れた。穴は大きく亀裂を走らせ、抵抗の末に絶叫の破片を辺りに散乱させる。

 明らかに、獣の力の方が勝っていた。

 おそらくは幾度か同じ事を繰り返し、人の住む世界へと現れているのだろう。今回も、奴は力押しで全身をねじ込むつもりなのだ。

 勝利は、反射的に下を走る高速道路に目をやった。

 もし、誰か一人でも上空の異変に気づこうものなら、多重衝突事故を招きかねない。何しろ、走行速度が一般道の比ではないのだ。最悪の事態を考えただけで、冷えた体に戦慄が走る。

 上を見ないでくれ、上空になど興味を持たないで欲しい。勝利は、とにかくそればかりを願ったのだが、何故か車の流れは一切乱れる事はなかった。

 スピードを変えるドライバーも、取り乱して車線変更する車も一切ない。全てが順調で、むしろ不自然な程だ。

『安心しろ』ダブルワークが勝利の疑問を察し、ライムに代わって僅かな時間を割く。『普通の人間に吸魔は見えねぇ。襲われて三日吸いに遭った人間だけが、あの黒い姿とご対面するんだ』

「えっ…」

 聞き手の喉に、突如新たな疑問が詰まって止まった。見える事が事後特有の現象ならば、辻褄が合わないではないか。

 昨夜、小路を塞ぐ黒い獣に自分は遭遇している。

 はっきりと見たのだ、襲われる前に。恐ろしげなあの獣の姿を。

『ただ、嫌なものを感じる人間ってのは稀にいる。あのフル・トレーラー・トラック、カーブで外に膨れただろ。見えなくても、感じてはいるんだ。あんまり空を見たくねぇ、って気分にでもなったんだろ』

 ダブルワークの指すトラックは、勝利にもすぐに発見する事ができた。

 モノがフル・トレーラー・トラックならば、判別は容易い。高速道路を十〇分眺めていても、一台遭遇するかしないかの頻度なのだから。

 外環自動車道から三郷ジャンクションに入ったトラックが、牽引するトレーラーよりも外に膨らむ形でカーブを曲がり、六号三郷線の流れに合流する。

 ひやりとする場面ではあったが、後続車のバスやトレーラーの動きにまで影響が及ぶ事はなく、全ての車両の合流が上手くいった。

 もしや。昨夜の小路に不自然な程人気が少なかったのも、年末の人の流ればかりが理由ではなかったのかもしれない。

 砂を擦りつけられるような感触に神経を逆撫でされた歩行者が、昨夜だけ一~二本道を変え帰ったとしたら。午後八時台にしてあの通りの寂しさは、十分に説明がつく。

 自分も勘は良い方なのに、吸魔の接近だけはまるで感知する事ができなかった。

 これも、体質が引き寄せたものの方が瞬間的に勝った結果なのだろうか。その代償の大きさに、勝利はがっかりと項垂れた。

『こっからは、ちとハードになるぞ。勝利、中に入ってろ』

 ダブルワークが言うなり、機体の胸部のやや上に光の球体が生まれる。白い機体を更に彩る、白銀に輝く球体だ。

 一方で、機体の右の掌が無情にも傾き始めた。上に、無防備な勝利が乗ったままだというのに。

「や…、やめてくださ…!!」

 掌が、勝利の体を球体に押し当てる。白一色に包まれた。視界の全てが。

 次の瞬間、勝利の隣にライムが現れた。しかも、随分と変わった形のシートにトレンチコートを着たその身を預けている。

 自分の居場所が変えられたのか。

 そう理解したかったが、周囲には相変わらず高速道路の高架と冬の空が広がっている。

 視界を二分する地上の板と、何にも遮られる事なく頭上から勝利を飲み込む視界いっぱいの空間と空。人一人の小ささを思い知らせるこの広大さを偽物と即座に断定するなど、今の時点では困難だ。

 尤も、奇妙な点が無い訳ではない。

 一つは、勝利を悩ませていた冷気の流れがここには全く無い事。

 更に、排気臭がしない事だ。

 加えて、空中に浮かぶライムがここにはいる。

 ダブルワークは言った。「中」と。ならば、高架も車列も全てが映像という事になる。

 モニターの繋ぎ目など何処にもない球状の全方位投影なのか。精度が高すぎて、視覚どころか三半規管までが混乱を起こす。

 高速道路からは、下方の情報としてクラクションの音まで聞こえてきた。

 操縦室に相当する場所なのか。ならば、ライムがいるのも納得する。

 しかし、「操縦」という言葉を些か相応しくないと感じた。何しろ、サブ・モニターやコンソールの類は取りつけられていないのだ。ライムの情報取得や操作を補助する機械類が一切存在しないとは、どういう事なのか。

「あれ…?」

 足が宙に浮いている。ライムとシートの下には、何もない。

 当然、勝利の足の下にも。

 突如、落下の不安が生じた。衝動的に、ライムが座るシートの背もたれにしがみつく。

 そして悟る。中とやらが低重力に調整してあるのか、体をシートに引き上げる動作は地上にいる時よりも遙かに容易である事を。

 掴んでいるシートは黒く、むにょむにょとした感触の低反発を勝利の右手に返してくる。

 ウォーター・クッション? いや。非常に優秀なエアー・クッションのようだ。

 ライムが、拡大を続ける穴の映像を険しい表情で睨みつけている。拡大すれば更に鮮明になるのだろうに、と勝利は首を捻った。

「ようこそ、勝利君」

「ここは…。さっきの白い機体の中なんですか?」

「そうだ」と短い返事で、ライムが肯定する。「ここは、ダブルワークの中だ」



          -- 13 「空中戦 その2」に続く --

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