11 出現予想地点へ

「見える」

 実にシンプルなその事実について、「当たり前ではないか」と返して済むならどれだけ楽になれるだろう。勝利の記憶と思考を、それぞれ一つづつ、些か不愉快なものが駆け抜けてゆく。

 駅のホームで愕然とし電車に飛び乗るまでの記憶が、前者。

 後者の方は、ダブルワークに試された、との余り愉快ではない確信だ。

 昨日、説明会帰りに見たあの人型の飛行物体は、電車を待つ他の客達には視認する事ができなかった。

 線路上にスマホのカメラを向けたのも、当然勝利一人。うろたえたその様子を他の客から白い目で批判された過去は、見えているのが自分だけという信じ難い事実として、強烈な印象を伴っている。

 あの時目撃した機体は空と雲に溶け、生憎色と細部までは見届けていない。

 しかし、今頭上に浮かぶ機体と同一の物であると考えれば、ダブルワークの話しぶりに筋が通った。元々小さい機影だったので断言はしにくいが、確かにフォルムその他が酷似している。

「見える」か。

 おそらく、ライム達にとって歓迎すべき現象ではないのだろう。大きな理由があって、この機体を不可視の仕様にしたのだろうから。

 事実、小路を抜ける自転車の営業マンは、機体にも、更には路上に落ちる大きな影にも全く気づいていなかった。機体を認識していないが為、不規則な形に行く手を暗くする影の存在は、営業マンに対して全くの無力だ。

 速度を一定に保ったまま、自転車は小路の分岐を左に入って何事もなかったかのように去る。

 星々の光沢を持つ右手が、勝利を柔らかく掬い上げた。

 手首と指の関節が稼働しているのに、音が一切しない。自重による負荷もあるのだろうに、どれだけ滑らかに動いているのだか。

 大人が二~三人は余裕で腰かけられる手の平を、勝利は一人で独占した。

 音もなく、機体が垂直上昇を始める。

「へぇ…」

 住み慣れた建物が急速に小さくなってゆく。アパートの屋根を上から眺めるなど初めてだ。

 そして、住人が一人減ったままの隣家をも見下ろす。

 入り組んだ小路と、民家ばかりの比較的古い住宅地。ヘリに乗っている訳でもないのに、それらとは既に三〇〇メートル以上隔てられている。

 最早届かない足の下には地上の景色が。首の角度をつけて仰げば、白い機体の端正な顔、そして大きく広がる青い空がある。

 この程度の上昇で地上は一枚の板と化しているのに、太陽は依然機体の遙か上のままだった。人だけでなく異能が宿る機体をも、容易に近づけさせてはくれない。

 勝利の周囲で、指の壁がせり上がる。

 機体の右手が、僅かに勝利を掴む仕種を始めたのだ。

『悪いが、急ぐぞ』

 今度はライムの声が直接耳に届き、のどかな観覧の終わりを告げた。

「はい。俺は大丈夫です」

 白と緑の機体が、翼などを出さず突如水平方向に加速する。

 冬の乾燥した冷気が、容赦なく勝利の全身を掠めて冷やす。機体が高速で空気を裂いてゆくからだ。

 もし、指の壁がなければ、生身の人間に対する冷気の仕打ちはもっと激しさを増すのだろう。文字通りのゾッとする話に、思わずコートの襟を立てる。

 背後、というより背面のやや右側から、十二月の太陽が斜度の低い日差しを送り込む。機体は、ほぼ真北に進んでいた。

 ふと、不可視の機体に運ばれている自分は、下界からどのように見えるのだろうと考える。大人の男が何の補助も無しに独力で空中散歩をしている、とか。

「まさか」と、軽く頭を振る。密かに活動している追跡者達が、最も優先すべき行動の中で「ここにいるぞ」と自らの存在を誇示する筈がない。

 何らかの力が勝利にも働いて、機体と同様の現象が不可視にしている。そう考えた方が余程納得がゆく。

 鳥を下に見る高度で江戸川区を抜け、葛飾区に入り、その葛飾区をも通り過ぎる。

 埼玉県の八潮市を掠める高速道路の高架上で、機体は徐々に高度を下げた。

「三郷ジャンクションか…」

 常磐自動車道と六号三郷線の交点は、人造物としては規模が大きく、絡み合った蛇の如き立体構造を成している。大蛇も大蛇。二車線分の幅を胴体に持つ鉄筋コンクリート製の蛇だ。

 その頂点より更に上、二〇〇メートル超の上空に、勝利はライム達の機体とフォルムのよく似た別の機体が垂直に浮いているのを発見した。

 サイズの違いは定かでないが、基調色は赤。その縁取りよろしく、黄金の飾りが各所にあしらわれている。

 そして、赤い機体にも足首に相当する部分は存在していなかった。

 自然と違和感が招かれる。まるで、地上に立つ事を望んでいないかのような造りだ。

 大抵の人間からはその姿を見られる事なく、大地と接するつもりもない機体。拒んでいるのだろうか。人間との共存を。

 それでもライム達はこの仕様の機体を駆り、今も吸魔なる化け物を追っている。

 玄関のドアを挟んで顔を見せぬまま勝利に謝ったライムを、ふと思い出した。あの時彼は、一体どのような表情をしていたのだろう。

 彼等は彼等なりに、全力で事に当たっていた筈だ。今ならばそう信じてやれる。

 吸魔の存在も三日吸いなる蛮行も、自分は全く知らずに毎日を送っていた。昨夜吸魔に襲われた事で、奇しくも勝利は、同じ世界にある壁を一つ隔て別の事情と遭遇したにすぎない。全く同じ世界の出来事ではあるのだ。

 吸魔との遭遇が縁を結び、ライムとダブルワークを知ってしまった。勝利は顔を見、言葉を交わし、関わってしまった。

 ならば、見届けねばなるまい。これから起きる事の一切を。

 立体交差から西に五〇メートル程の位置で、突如景色の虫食いが起きる。まるで内側から食い破る物でもいるかのように、ボロリボロリと景色に穴が開いた。欠けた部分は遠近のない淀んだ灰色をしている。

 勝利の全身に、おぞけが走った。

 その穴から、黒い獣の鼻先が突き出たのだ。時折形の歪む黒い炎が、昨夜見た獣の鼻先を虚無の如くに描き上げる。

『あれは、B七三だな』ダブルワークが、黒い獣を記号で呼ぶ。『勝利。昨夜あんたを襲った吸魔だ』

「…わかります」

 勝利の右手が、左胸を覆うコートを力の限り上から掴む。



         -- 12 「空中戦」に続く --

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