02 魔獣現る

 生きた心地がしない、とはこういう心境を指すのだろうか。

 到着した下り電車に飛び乗った後、勝利は走行中の車内を移動し続ける。早足で先頭車両に到達してしまうと、今度は最後尾方向へと踵を返し、五両目で自制を働かせ半ば無理矢理立ち止まった。

 多数の空席があるにもかかわらず座席と座席の間、それも中央に敢えて立ち、なるべく窓外は見ないようにと心がける。

 アパートのある新小岩に各駅停車が到着した時、勝利は肩で息をしていた。

 しきりと背筋に冷たいものが走る。手には強い湿り気があるので、冬の冷気にその手を晒したものだから、ホームでは氷を握ったかのような痛みを覚えた。

 余り急がずに改札を抜け、流石に一度だけ恐怖に包まれながらも上空を仰ぐ覚悟を決める。

 幸い、黒点はない。

 勝利が恐れているものは、空の何処にも存在しない。

「はぁ~」

 虚脱感から、何かに寄りかかりたい気分になった。ようやく周囲の音がまともに耳に入ってくる。

 そういえば、冷蔵庫の中が心許ないのではないか。駅周辺で買い物をしてゆけば、との思考が脳内を掠めたものの、勝利は一旦帰宅する事に決めた。

 先程目の当たりにした人事のような顔をして。

 思えば。見える人間と見えない人間がいる浮遊物体など、日常を含有する通常世界の存在である筈がない。その正体や自分への関心度に思いを巡らせるのは時間の浪費で、思考を停止させ忘却の彼方にと追いやってしまうのが一番だろう。

 私道のように不自然な線を描く細い公道を進み、やや古い二階建ての木造アパートの外階段を上がる。ここまでの道程は、今の勝利の足速で徒歩十三分といったところか。

 一番奥の角部屋が、勝利の借りている部屋になる。大学卒業後に入居しているので、二年半住み続けている計算だ。

 所謂1Kという単身用。共同の自転車置き場はあるが、洗濯機は外置きという古い仕様の集合住宅になる。屋根のついた共同通路でそれぞれが出入りの邪魔にならぬよう、各戸が奥に奥にと洗濯機を据え付けている。

 ドアを開けた途端、物が少ないが故の歩きやすさが目についた。勝利は元々スマホさえあればいいという人間で、物欲は乏しい。室内には、その性格が如実に現れていた。

 冷蔵庫の上にレンジ、台所にはカラー・ボックスが一つだけ据えられ、そこに鍋や一人分の食器が比較的丁寧に重ねられている。

 六畳の広さしかない畳敷きの和室では、三つ折りをした布団が西側の一角を、ガラス板を乗せた座卓が東半分の中央を占めていた。

 なけなしの本は皆、その座卓横に積み上げてゆく。本棚を買う意欲が今一つ湧かない為、購入と放出を繰り返しつつ今は山二つで済んでいる。

 一応、日当たりの良い南向きの部屋だ。角部屋なので、和室に入ったら東側にも別の窓があるにはある。

 しかし。その窓は、入居時から「決して触れない」との誓いを立て、勝利は住み続けていた。

 理由の一つは、隣家との位置関係にある。

 隣家は一戸建てで、敷地のほぼ全てを二階建ての木造家屋が占めている。当然、西側の壁は接触一歩手前、こちらの壁から五〇センチ先という手を伸ばせば届く至近距離に迫っている。

 隣として窓を開ける為には、勇気以外の何かも必要だった。

 賃貸契約をしているこの部屋は、過去、内覧時に不動産屋が東側の窓を開けた際、カーテンの模様で「女の子の部屋が隣接しているのか」と客の勝利が冷や汗をかいた。知りながら入居した手前、無神経に開けられる訳がない。

 思い返せば、入居してから幾度となくその隣人を見かけた事がある。

 五月雨(さみだれ)の名字は表札にあるもので、百合音(ゆりね)の名は親が呼んでいるところを聞いた事があり覚えてしまった。

「百合音ちゃん、ゴミ出し! ゴミ出し!」と叫ぶ母親の声と「はーい、行ってきます」と元気に出かける高校生生の組み合わせで覚えただけだから、興味が湧いての事ではない。隣に建つアパートの住人にも明るく挨拶をする髪の長い気配りの美少女だった。

 尤も、今その子の部屋に主は不在だった。一月程前に失踪したとかで、母親らしき女性の嗚咽を勝利は時々耳にしている。

 勝利自身、その失踪については警察の聞き込みを機に知った経緯があった。警察としても、隣人が若い男なので参考までにと入居者の情報を必要としたのだろう。

 当時の経験が、人生初めての聞き込みとなった。いつもの不運とは思わないが、非常に微妙な気持ちになった事は事実だ。

 東京で失踪事件の発生など珍しくはないのかもしれない。「まさかあの子が…」という好感度の高い高校生ならば、尚の事…。

 一瞬、都心で目撃した人型の浮遊物を思い出す。あれが、連れ去る人間を物色しているのではあるまいか。

 慌てて首を振る。

「ないない!! 流石にそれはない!!」

 想像を散らしてネクタイを緩め、勝利は和室で大の字に横たわった。奇っ怪な体験を全力で否定すれば、代償として、逃れられない現実が脳内で負荷を増し始める。

 就活の事だ。ああ。またも採用漏れになってしまったか。

 生来持っている勝利の、謎の勝利低下現象。それは、「必ず」という程高い確率で発生はしない。高校、大学、在学中の就活にしても、全て第一志望と縁づかなかったものの、最終的には滑り止め等保険が上手く働いて今に至る。

 でなければ、自己憐憫に心を浸食されてしまい、ひどく擦り剥けた性格になっていただろう。前向きではないにしても、勝利は腐って投げるという自棄だけは起こした事がなかった。

 億劫そうに上体を起こし、右手でスマホを探り当て省電モードの暗い画面に見入る。

 この中にインストールしている写真共有アプリを覗けば、上京した後ネットで知り合った友達の活動をすぐに知る事ができる。

 特定多数による「期間限定部」。

 ただひたすらに期間限定の食べ物を探しては、写真撮影と試食後にタグ付けをしアップする。そういうぬるい活動に、勝利も東京の人間として加わっていた。

 時には、アプリ上で集まりたい店を誰かが発信し、オフ会のような事も行う。

 在学中に勝利も同様の活動に没入し、既に四年ほど続けていた。彼等がいてくれたからこその快適な東京暮らしだった、と言う事ができる。

 今日もまた、彼等との繋がりに触れれば立ち直る事はきっと容易い。夜が訪れ、メンパーの多くがネット上に現れるのが楽しみだった。

 そのスマホで仕事を数件探し当て、さっそく先方にメールする。後は返信待ちなので、再び横になると勝利は少し仮眠を取った。

 夢を見ずに眠り続け、冷気に足の温度を奪われて目を覚ます。窓外も室内も、すっかり暗くなっていた。

 暗闇に包まれずに済んでいるのは、南の窓から街灯の明かりが入り込むからだ。

 愛用のスマホは、八時を回っていると勝利の顔を照らしながら告げる。

 慌てて遮光カーテンを広げ、和室の照明を灯し、スーツから冬用の私服に着替えた。湯だけを沸かした後、食料を調達せねばとコートを肩にかけ外出する。

 まだ八時半にもなっていないというのに、今日は不思議と通行人が少ない。普段ならば、駅方向から歩いてくるサラリーマンなどが靴音を立てるのに、耳でも歩行者の少なさを実感する。

 年末の残業増が作った光景か。

 残業。仕事に就いている者だけが行う事のできる特権だ。勝利としてはやっても良いが、その為にもまず就職先と縁づかねば話にならない。

 ふっと空腹感がきつくなってきた。スーパーまで行くのは諦め、徒歩五分程の所にあるコンビニでさっさと調達した方が良い気がしてくる。

 人影一つ見えない道を、勝利は目的地に向かって早足で歩いた。凍った空気が道に沿って流れ、勝利の全身を撫でてゆく。

「うわっ!」

 厚手のコートを着ているのに、全身を悪寒が貫いた。思わず、足が止まる。

 両手で寄せるようにして襟を立てたが、その原因が冬の夜気にあるのではないと勝利はすぐに理解した。

 行く手で、道を塞いでいるものがいる。

 しかも、車両や人間ではないものが。

 街灯と街灯の間、更には人家の明かりの差さない最も暗い場所で青白く光るものが立っている。なけなしの道幅はそれに埋め尽くされ、大人一人が横を通るのは誰が見ても不可能だった。

 大きさは、タクシー一台分程度。現れては消える青白い炎が時折皮膚から吹き上がり、逞しくしまった肉づきや短い毛で覆われている体を不気味に浮き上がらせている。

 毛の色は、黒に近い。幾らか模様もついているようだ。

 朧気ながら、頭の小さな四つ足だとわかる。それも、発達した前足が大きな体の前半分を幾らか立ち上がらせている見慣れぬ体型をした獣だった。何をどう贔屓目に見ても、逞しさしか目につかない獰猛な肉食獣だ。

 しかし、TVや映画の撮影にしてはスタッフなど皆無で、人家の密集地帯と不気味な獣の組み合わせに勝利はひどく混乱する。

 悪戯の類も想像したが、心身の内で盛んに警鐘が鳴った。

 全身の感覚全てが訴える。受けた印象をそのまま信じるように、と。

 今日に限って、昼ばかりか夜まで珍事か!!

 青白い炎の描く形が、変わる。

 その獣と目が合った、気がした。体を捻り、こちらを向いたようなのだ。

 暗がりの中、獣の顔も目も判別ができない状態なりに、睨まれているとの確信だけは急速に増す。

 奇しくも、それは正しかった。

 怒っているのかと疑い、似て非なるものに辿り着く。

 乾き、だ。

 それも、並の乾きではないものにあの獣は支配されている。

 川の水を全て飲み干しても尚癒す事のでない重度の不足感。誰一人そこから救ってやれないような欠乏による苦しみが獣の中にはあった。

 腹が空いている、というのか。

 獣の影が動き始める。

 食われるぞ!! あれに…。

 逃げるしかないだろう。

 わかっていながら、恐怖の余り、勝利は獣に背を向ける事も後ずさりする事もできなくなった。



          -- 03 「三日吸い」に続く --

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