03 三日吸い

 獣の乾きは、この凍てつくような冬の空気を這って広がり届くのか。

 いや。もっと別な理由があるのではないか、と勝利には思えてならなかった。唸り声一つ発しない獣の瞳や表情は、暗黒色に紛れ極めて判別が難しい。生物として発する信号を読み取れる筈もなかった。

 しかし、対峙している者を震撼させる強い渇望は、確かに今も獣の体を中心に無音の脈動を続けていた。顔を背けたり両目を閉じたとしても、勝利は必ずその位置を的確に見抜く事ができるとの自信がある。

 何故なのか、よくはわからないままに。

 元々勘の良い勝利だが、珍しくその根拠は勘の外にあるように思えた。上手く説明する事のできない理由として。

 小さな頃から、人に話せば「何だよそれ」と一笑に付されてしまうものを、時として勝利は察知する。自分では幾らか信じる事にしているその能力もまた、彼の人生に密着していた。

 その内なるセンサーが、しきりと警告を発している。

「逃げなければ、取り返しのつかない事になる」と。

 かといって、肉食獣に背を向けるのはタブー中のタブーと聞いた事がある。

「あ…、あぅあ…」

 恐怖の余り、絞り出す息が言葉にならなかった。

 大きな獣が足音をさせず、体躯を揺らして一歩踏み出す。

 ふっと、恐怖以外のものが勝利の脳内を横切った。

 変だ。この黒い獣は、本当にこの場にいるのか? 唸り声どころか息を吐く音すら一切立てず、足音もさせない。あの巨体ならば相応の音量を発してもよい筈なのに、耳に訴えるものをまるで出さず既に三〇秒は経過している。

 実際に路上にいるのか、いないのか。混乱した中でも判断に迷う程、生き物としての存在感は欠けていた。勝利の中に一握りの冷静さが残っているのは、その為だ。

 もっとよく観察した方がいいのかもしれない。体を硬直させたまま、勝利は全神経を研ぎ澄ませ獣を見据える事にした。

 大きさも体型も未知のもの。肉食獣の雰囲気を持ちながら存在感は欠けているので、生物というより、妖怪や異世界を住処とするもの、と解釈した方がすっきりする。

(異世界の生物?)

 発想が突飛すぎて、肯定と否定を同時に起こす曖昧な気分を内に招いた。

(な…、何を考えているんだ。俺は。やっぱり頭が壊れてきたか…)

 その観察眼がまともなだけに、つい自分で自分にツッコミを入れる。

 直後に、獣の表面から青い炎が吹き上がる。

 獣が前傾姿勢を取った。

 いよいよ来るのか!? 少なくとも、相手はそのつもりだ。

 黒い風が螺旋を描き、低く飛び上がる。

 体重を乗せた獣の勢いは、勝利を仰向けに押し倒した。

 夜気の中、人間の倒れる音だけが路上に広がる。

「…っ、……!!」

 折角の獲物を逃がしたくない為か、左の前足が勝利の胸に乗せられた。

 おかげで、脆弱な人間の方は呼吸がままならない。足音を立てないくせに、体重というものはあるようだ。

 サイズに比べるとかなり軽量のようだが。

 獣が頭を下げた。

 鼻を近づけてくる。

 体臭もないのか、こいつは。犬には犬の、猫には猫の体臭があるというのに、微かな臭気さえ黒い獣は放っていなかった。

 遂に、真っ黒な口が大きく開く。

「ん…」

 勘弁して欲しい、と勝利の心は萎んだ。仰向けに倒されているので、朧気ななりに口の中が見えてしまう。

 喉の奥から、白くて長いものが延び始めた。ほ乳類の多くが持つ三角の舌ではなく、ホース状の気管だ。

 蛇腹のようなものを想像したが、不規則な凸凹が横ではなく縦に走っている。太さは先端にゆく程細くなっており、その先端には赤い鏃のような突起が付いていた。直径は、親指の幅くらいか。

 炎を発する以外に自身を主張する事のない獣が、白い気管だけは淡く浮かび上がらせている。

 そのうねりが、体の長い寄生虫のような動きを彷彿とさせた。

 恐怖と怖気が同時に沸騰する。

「よ…、よせ……。やめて…く…」

 獣が聞き入れる筈もなく、赤い先端が勝利の右頬を貫いた。

 何故か、痛みは一切ない。肉や肌を切り裂く感覚もまるで伴わなかった。

 しかし、容赦のない異音が始まる。

 ちゅうちゅう、じゅじゅっ。

 それは、不気味な吸引音だった。

 同時に、勝利の意識が次第に遠のいてゆく。

 吸われているのは、血だ!!

 人間の肉ではなく、血が欲しくて夜の町に現れたのか。腹を空かせたこの獣は。

 ちゅるちゅる、ずずっ。

 下品に啜る音ばかりが、勝利の耳を支配する。

 余程小さくなったのか、浅く呼吸する音も心臓音も吸引する音にかき消されてしまっている。

 音の世界だけで解釈するなら、勝利の生は既に終わりかけているという事なのかもしれない。

 更に意識が朦朧としてゆく中、勝利は別な音を聞いた。

 刃物が物を切る音に似ている。何故か、そう知覚した。

 1回、そして2回。

 ジャキリとも、ブツブツとも聞こえる音が、紙よりも強靱であちこちと複雑に結びついているものを強引に切断した。そして、揚々と勝利の領分から持ち去ってゆく。

 最後の一滴まで吸い尽くす音が人の意識を泥土の沼に蹴り落としたのは、更に二分ほど経った後だった。

 何一つ抵抗できぬまま、勝利は暗い路上に捨て置かれてしまう。夜気に乗った獣が離れてゆく姿を見る事もなく。


          ※ ※ ※


「……い。おい、起きろって。兄ちゃん。車に牽かれるぞ」

 聞き慣れない男の声に繰り返し突かれ、勝利は路上で目を覚ました。

 手足は冷え切って感覚がない。しかし、生きている。

 生きてはいる。

 どうやらそれは間違いがないようで、瞼を開ければ、街灯を背にした男が勝利を上から覗き込んでいた。

 男の後ろに、一台のスクーターが見える。しかも、男のブルゾンには、『毎朝新聞』と書いてあった。出勤途中の朝刊配達員なのだろう。

「わぁっ!!」

 自分が息をしている事、人と話せる状態にある事に、勝利はひどく取り乱した。

「財布とかあるか? 兄ちゃん。俺はあんたに触ってないからな。今ここで確かめてくれよ」

「あ…、はい…」

 仰向けの状態から両手を頼りに上半身を起こし、まずコートのポケットを探る。

 幸い、財布は残っていた。男に見えるように取り出し、大きく中を開いて見せる。

 千円札が二枚と小銭が幾らか。朝に覗いた時も、このくらいの所持金だったように覚えている。

「大丈夫です。全部残っていました」

「そうか。早く帰って、布団で寝とけ」安堵した男が勝利から離れ、停車させているスクーターに跨がった。「何があったか知らないが、酒の臭いをさせないで路上で大の字は、あんたが初めてだ。気をつけて帰れよ」

「ありがとうございます。助かりました」

 気持ちのよい挨拶と共に、男は街灯が点在する細い路地に消えてゆく。

「ふぅ…」

 息をついてスマホを取り出せば、画面には午後十一時七分と随分大きな数字が表示されている。三時間近くも寒風の抜ける路上で伸びていたとは情けない。

 さっさと帰るか。

 勝利の気持ちは決まったものの、生憎と呆けてしまい、なかなか立ち上がる事ができなかった。

「あっ!!」と叫ぶなり、座り込んだまま慌てて右の頬の感触を確かめる。

 刺された傷はどこにもついておらず、触った感触も滑らかだった。安心したらしたで、今度は狐につままれたような気分になる。

 あの黒い獣は、そしてあの啜る音は、何だったんだ…。

 勿論記憶は今も鮮明で、幻覚を見たと解釈する理由などまるで無いと断言できる。

 しかし。何かを啜る音などは思い出した途端に総毛立つ思いがし、襲われた時の恐怖が背中を這い回り頭頂で暴れまくる。形容しがたい粘り気を伴って。

 あの獣の正体など、自分は知らない。何を啜って去ったのかも見当がつかなかった。

 ただ、この歳でようやく思い知った事がある。

 食うとは、ああいった行為を。食われるとは、その犠牲になる事なのだ、と。

 自分は、食われた。絶対に何かを。

「ひ…!!! あ…、ふわぁぁぁっっ…!!」

 時間差がついた状態でパニックが起き、勝利はすっくと立ち上がるなり脱兎の如くその場を走り去った。

 取り乱した足音が、夜の路上を抜けてゆく。

 コンビニではなく、自室の方向を目指し。



          -- 「04 失われた経歴」に続く --

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