忘れられない人-2

***

「ねえ、覚えてる? メイズのとっておきの話」

 ケイは颯の包帯を解いていた。メイズを診療所から追い出して、一時間と経っていない。夜は明けたが陽光が届くまでにはまだ時間がある。そんな時間だ。ベッドサイドに置いたランタンの灯りはきいろく、目覚めたばかりの颯の顔に影を落としている。血の気はないが生きている。傷の塞がりは人間の身体では考えられない早さだ。

「ああ、あれ」

 颯の声に興味は含まれていないようだった。寝た女になら誰でも話すのだろう。思っていた通りだった。でも仲間内で聞いているのはケイだけだ。

「それ。どう思った?」

 なぜこんなに馴れ馴れしく、この女にこんなことを聞いているのだろう。自分のことなのに、ケイにはわからなかった。彼と久しぶりに会ったからかもしれない。彼女が、唯一この話題の通じる相手だからかもしれない。

「さあ? ただ向いていないとは思ったな。復讐には」

 颯の声は堅くてつっけどんで、悪ぶっているようにも聞こえた。流風と話しているのを漏れ聞いた限りでは、きっとそういう女性なのだ。素直でなくて、意地ばかり張っている。流風にはこれくらいが可愛げがあるのかもしれない。素直でないのは彼も一緒だし、娘も同じだ。

「そんなので女を落とせると思ってるのかってちょっとびっくりしたなあ、私は」

「言えてる」

 颯は笑って、咳こんだ。身体じゅうの傷は塞がり始めているが、呼吸はまだ苦しいらしい。

「私も戦場近くの診療所にいたから、気持ちはわからないでもなかったけどね」

 看護婦で、ああいう場所の空気を知っているから共感できたものの、そうでなければ興ざめする話しには違いない。彼が、戦場で思い患ったことに関するすべては。

 別にメイズは不幸自慢をしたのではない。わざわざベッドで、唐突に不幸や苦労を披露したのではない。ただ彼のルーツを語っただけだ。意外性は確かにあった。見るからにやばそうなこの男が、本当は殺すということに並々ならぬ恐怖を抱いているということ。銃では実感がない。だからこの手で締めたり折ったりすることにした。そうすれば人間を殺す罪悪を、感じ続けることができるから。忘れずにいられるから。

 思い出すだにやるせない。彼は、なにを求めてあれを語ったのだろう。

「ただのかっこつけだ。箔がついてる、それだけの話しだよ。一晩で救えやしない」

「あら優しい。あなたに鞍替えしてもいいわね」

「嫌だね。女はもうまっぴらだ」

 残念。笑っている間にガーゼを取りに行って、帰ってくると颯は眠っていた。鎮痛薬がやっと効いて眠れたようだった。痛みで再び起きてしまうだろうが、人間離れした彼女の身体は薬の効果が見えない。適量で効かないからといって増やしてしまうのはあまりに危険だ。医者だったら良かった。それならもっとましだっただろうに。

 作業を続けている間も、さっきの話しが頭から離れなかった。メイズは救われたかった。彼は罪を罰せられたいが、復讐を遂げるまで待ってほしい。その身勝手にさえ罪悪を感じている。でもそれを、真正面から受け止める覚悟も持てないでいるのだ。銃で人も殺せないタマ無し。結局のところ彼は、ただの根性無しであるだけかもしれない。

 一晩では救えない。一晩の口先だけでは。だがいくつの晩を重ねても、ケイには救うことはできなかった。一晩中なにも考えずにさせてやることはできる。現実から一晩中逃げさせることしか。

 それに、自分もいっぱいいっぱいだった。世界を越えてひとり、移民管理局で細々密入国の手引きをしている。ばれてしまったらどうしよう。誰もかばってはくれない。誰も守ってはくれない。戦場近くの診療所で働いていたときからずっと、この種の不安は消えなくて紛らわせている。逞しい人、胸板の厚く、身体を押さえ掴む手の力強さ。守られている感じがする。守られるような、守ってもらえるような希望や夢が胸を満たしてくれる。

 だから駄目だった。だから彼は、言うことに聞く耳を持たなくなってしまったじゃないか。あなたの人生はそれでいいわけ。いくら言っても聞き入れずに、心配しても命まで張って遠のいていった。置いていったのは彼だ。それなのに今更。

「ああ、よく寝た。代わろうか」

 流風の声に飛び上がった。後ろからなんて不意打ちだ。あともう少しだからと言って断った。

彼はベッドの反対側に椅子を引き寄せ座る。

「メイズが来てたろ、その話し?」

「女だけの秘密」

「ふうん。なんにせようまく言ってくれたみたいで助かった。今やりあったら死んじまう」

「別になにも言ってないわよ。ただ相づち打ってただけ」

「なんだ。正気に戻らせるのはやっぱり女かー」

「違う」

「えっなにそれ? どういう意味?」

 作業に茶々を入れるような調子に少しだけイライラした。八つ当たりなのはわかっている。今更しおらしく人の話しを聞いたメイズに、格好をつけすぎて言いたいことが言い足りない。

「流風も桜花も、あの人に甘すぎるってこと」

 この二人がもっと彼にもの申せれば、ここまで暴走することもなかっただろうに。

「しょうがないじゃん、聞かないんだから」

 任せていられない。これでも親友と相棒か。

「いいわ。それならせいぜい賭けに二人で大負けしなさい。金を数えて待ってることね」

 はあっ? 流風のすっとんきょうな声を振り払って、密輸入もののゴム手袋を剥ぎ捨てる。

 仲間内で昔から続いている賭けだ。流風と桜花がメイズを信頼し過ぎるあまり、掛け金をつり上げながら二人だけ少数に賭けていることは知っている。メイズはケイと付き合っているか。上等だ。これまでずっと否定してきた。だが誰も信じなくて、賭けは続いていたのだ。決着をつけてやる。

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