復讐の終わり

 手応えは人間のものだった。柔らかく、軽く、脆い。こんなはずでは。しまった。しまった? だが拳は既に女の身体にめり込んで、もう止まれない。振り抜いた。麻耶が倒れる。受け身もなく、勢いのままに頭まで打って彼女は倒れた。

 竜のくせに、人間ぶって。胸ぐらを掴み上げ、引き立てる。桜花を掴み上げたときのようで、壁へ投げた。麻耶はよたよたと立つ。壁に手をつき寄りかかって、胸を押さえた。殴った箇所だ。肋骨の折れる感触があっただけに、彼女は呼吸にさえ苦しんでいる。

「これだけ? この感触がいいんでしょう、命を前にしている感じがして?」

 そうだ。もう一発叩き込んだ。左腕だ。

 麻耶の顔はわらっている。弧を描く唇、くろい前髪から覗く眼があおく光る。

「そうだ。人を殺している実感がある。貴様は、人でもないようだが」

 武器を使わなくなったのはそのためだ。戦場でただの金属を握り、その反動と熱だけを感じながら人の命を消していたことに耐えられなかった。もう殺したくなどなかった。だがこの女に家族を奪われ、復讐するために手段など選んでいられない。この女ひとり殺すためにはどんなこともしなければならなかった。それでも捕らえられなかったが。

 実感がある。自分が人を傷つけている感触。自分の消してきた命への罪悪感を忘れずにいられる。この話は仲間内で知っているのはケイだけだ。颯にも話したか。どうせ忘れている。この女は、いらないことばかり覚えているようだが。

「そう? わたしは人間よ。今、ここでは」

 馬鹿にして。頭を横殴りにしたが、麻耶は避けもかばいもしなかった。倒れたのを立たせる。死ぬわけがない。傷つきさえするわけがないのだ。この女は、これは、竜で、人ではない。人でないくせに、わざと傷ついたふりをして。

 どんなに血を吐かせても満たされない。こんなにも無様なさまを見て、殴る感触があるのに。この竜が、わざとこのさまを見せているから。実際、死なないから。この復讐はいつ終わるのだ。どうしたら終わる。ここでこの竜が死んだら、俺は満足するのか。

 腕を止める。手の感覚はもうない。ケイの巻いた包帯がほどけて真っ赤になって、腕の先についているだけ。まっかになった麻耶の顔で眼だけが未だひかっている。あお。これがこの女の素顔なのだ。このあおいいろが、姿を変えるこの生き物で変わらずにいる。昔見つめていた眼はくろかった。今思えば夢中だった。あの嘘に、あれが嘘だった裏切りに、これまでずっとしがみついてきたというのか。ああ、そうだ。麻耶を許せなかったのは、家族を焼き殺したからではない。愛していたのに捨てられたからだ。

 殺したらすっきりするのか。今ここで、血だるまにしてなお生きている、人のかたちをした竜は死んでいるのと何が違う。死んでいるのと変わらないものを殴り続けてきて、満たされない。これは違う。

 違う。それなら、それなら。

 麻耶の腕が上がった。暗い路地でしろく浮かび上がって見える。細い腕。細く、小さい手、指。手の甲をこちらに向けて、伸びてきた手はネクタイを掴んだ。するり、撫でてすり抜けて、手のひらが胸に触れる。広げた手が胸板を撫でた。麻耶の顔はわらっている。折ったはずの前歯が揃っていて、へこみ陥没した顔は元のかたちに戻っている。ぱりぱり、固まった血がはがれ落ちていく。記憶の中と同じ麻耶だ。ただ眼だけが違う。嘘でない眼。だがもう胸は高鳴らない。

 手首を掴む。引きはがした。

「俺の復讐は終わりだ。だが私は、おまえを殺す」

「全く、つれないのね」

 笛吹男。顔を寄せてささやいてきた麻耶の頭が、横に振れた。麻耶の手から力が抜ける。ぐら、倒れる動きは死んだかのようだ。金属の擦れる音がする。踏み出す足音。麻耶の頭が振れたのと逆方向。見ると、隙なく銃を構えたあお髪の少女が立っている。あお髪のポニーテール。夏子葉に似ているが、違う。

「環か」

「そいつから離れて。早く!」

 鋭い声は環のものとは思えない。だが確かに環だ。彼女は立て続けに撃った。呻く声、手の引く感覚――掴んでいた麻耶の手が、再び振れたからだろうーーそれは、つまり、麻耶を再び見れば、獣の頭をして唸っている。手を放した。反射的に、伸びてくる竜の爪から身を捻って逃げていた。

「後ろに」

 環は撃ち続けた。手際よく弾倉を変え、メイズが後ろに来るまで竜を足止めする。もっとつくってもらえばよかった。呟く声が聞こえた。

「走って。先で部隊が待ってる」

「駄目だ。君を連れて行く」

 どこに。環はせせら笑った。ここで死んでも構わない、そんな風情だった。

「両親のところだ」

 私の自己満足だが。だが、環は手を止めてこちらを見た。え? 言う顔は、一瞬で焦りに変わる。竜が迫って、覆いかぶさった。環の腕を引いて引き離そうとするが竜の手が阻む。環は竜と眼を合わせたまま、口をぱくぱくするばかりだった。まずい。鱗に覆われた竜の身体に拳は歯が立たずにいる。気にも止められない。

 環は、環は駄目だ。この子は流風の宝物で、桜花の親友なのだ。

 竜の口が開く。涎の垂れた、牙ばかりの口は環を一呑みにできる大きさだ。

 竜の頭が仰け反った。遠のいていく。引かれている。掴んでいるのは、竜だった。暗い路地の中でくろく見え、夜闇にとけ込んでよく見えない。

 環の二の腕を掴み、引いた。なよなよした足に鞭をうって、走る。

 路地を出たが部隊の姿は見えない。竜の咆哮がびりびりと響いている。大通り、いや、だが裏道も危険だ。迷っている間に、環に手を引かれた。大通りへ向かっている。大丈夫なのか、聞きたいが、走るのにも息が続かず死にそうで声など出ない。部隊と合流して立ち止まったときには、もう立てなかった。眼も耳ももうろうとして、ここぞとばかりに笑う声も聞こえない。覚えていろ、私は執念深いんだ。

 あつく、じりじりと痛んできた手に触れる感覚がある。容赦のない検分は、ここにいるはずのない人間の手つきだ。

「ちょっと、折角手当てしてやったのになにこれ!」

 ケイの説教がほとんど聞こえなくて助かった。周りで笑っていた奴は後で必ず殴り倒してくれる。

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