皐月「筍」
***
五月四日。
ゴールデンウィーク真っ只中の今日、手伝いに来た妹と、木曜日でバイトに来た和子ちゃんと三人で、私たちは朝からロールキャベツを巻いていた。
ハンバーグのタネは前日に大量に作ってある。朝からの仕事と言えば、キャベツを茹でてタネをまくこと。そちらは単純作業なので一番手際のよかった妹に任せ、私と和子ちゃんは途中で切り上げると他の料理に取り掛かった。
「お姉ちゃんどうしてロールキャベツなんて作ろうと思ったの!?」
「今年は人手が増えたからいけるんじゃないかなと思って。頑張って、みやび。お姉ちゃん応援してる」
「応援しかしてくれないじゃんかー!」
文句を言いながら手は止めないみやびは、我ながらよくできた妹だ。みやびとは初対面だった和子ちゃんも裏表のない素直なみやびに少しずつ慣れて言っているようで、姉妹の会話にくすりと笑みを零した。
みやびには軽く和子ちゃんの事情を話してあるから大丈夫だろう。そもそも、そういったことには縁遠い生活を送っていた子だ。だからこそ難しいところもあるだろうが、基本的に疑うことを知らない純真無垢な性格をしているから何とかなるだろうと判断した。知らないうちに地雷を踏み抜きそうな気もするが、そこはそれショック療法にはなるだろう。フォローは私がすればいい。
本日のメイン料理は、ロールキャベツと鰹の竜田揚げ。煮るだけ、揚げるだけなので、大変なのは下拵えだ。ちなみに、ロールキャベツの味付けはコンソメ。理由は簡単、放っておいても簡単に焦げないからだ。
大きい鍋に水とコンソメ、塩胡椒を入れ、味を整える。そこにロールキャベツを入れて、ことことと煮ていく。その間に、昨日タレに漬けておいた鰹に米粉をまぶして熱した油の中へ。唐揚げもあるので、今日は二刀流。それをやる横で、今度はだし巻き卵を焼いていく。
ある程度出来上がったのを確認してから揚げ物を和子ちゃんに任せると、私はパック詰めに移った。共通のおかずは厚揚げの煮物に絹さやのきんぴらだ。彩りに人参も入っている。
見目良くご飯とおかずを詰めて、蓋をする。いくつか持ってプラケースへ入れると、お品書きを確認。時間が十時半を示したのを確認して、私はドアにかけたプレートをひっくり返した。
後半戦の開始だ。
祝日ではあるが、意外と人は来る。それは去年知ったことで、今年も変わらないらしい。買いに来た客に訊いてみると、どうやら出かけるからお昼の弁当にするだとか、休みくらい手抜きしたいから買いに来ただとか。去年は少ないだろうと高を括って作る数を少な目にしたら足りなくなったので、今年は多めに用意した。
裏方作業は二人に任せ、私は客の応対メインで動く。このところ漸く慣れて来たらしい和子ちゃんも簡単なものなら作れるようになっているため、任せられるから安心だ。みやびは去年、私が店を開いた時から時々手伝いに来てくれているのでこちらも慣れたものである。
なんだかんだ文句を言いつつもきっちり働くみやびのお陰でそう慌てることもなく後半の営業も終わり、さくっと片づけも済ませると三人でお昼を摂ることになった。残った、というか弾いてあったお昼分のおかずを温め直すと皿によそってそれぞれに出し、簡単に作ったつゆを分けていただきますをする。あれ、と声を上げたみやびに首を傾げつつも厚揚げの煮物を頬張ると、みやびは和子ちゃんに向かって問いかけた。
「そういえば、お昼ここで食べてていいの? 家帰るんじゃなかったっけ」
「……いつもは、そうなですけど。今日は、お母さんが来てて、お昼食べてきなさいって」
「嗚呼、仕事休みなのか。じゃあお父さんも?」
「……父は仕事なので、来てないんですけど。でも、土日は休みだって言ってたので、多分」
来ると思います、という言葉を飲み込んだ和子ちゃんが、自分で煮ていたロールキャベツに齧りついた。
初対面の二人だが、私は下手に首を突っ込まずに静観する。和子ちゃんのリハビリだ。みやびも和子ちゃんも分かっているので、私が何も言わないことに関しては特に言ってこない。
「よかったね、じゃあ。久しぶりの家族団欒……ってそれなら逆にここいていいの?」
「……お邪魔なら、帰ります……」
「嗚呼そうじゃなくって、ごめんごめん。勘違いさせたね。ええと、久しぶりにお母さんとご飯食べなくていいの? お母さんと、っていうかお母さんの、か」
箸を置きかけた和子ちゃんを制して、みやびが即座に訂正を入れた。この辺りの反射神経はいい。寧ろこういう時にはいい仕事をするが、普段はただうるさいだけなので良くも悪くも、といった感じである。
訂正された言葉に和子ちゃんが少し安堵したように溜め息を吐いて、すみません、と謝った。いいのいいのこっちが悪かったし、と気にしていない風に言うみやびに、和子ちゃんがきゅっと唇を結ぶ。ぽんぽん、とその頭を二回叩くと、大丈夫だよ、とそれだけを伝えてまた見守りに戻った。
「……えと、夜一緒にいられれば十分だし。おばあちゃんの面倒見てくれるっていうから、甘えられるときに甘えておこうかな、と思って」
「ふうん、結構ドライなんだね、和子ちゃんって」
「……そうでしょうか」
「うん。だって、ひと月近く会ってなかったんでしょう? お母さんと。だったら一緒にいたいんじゃないかなって思っただけ」
嗚呼、と納得したように和子ちゃんが頷く。そういえばその辺りの説明はしていなかったか、と自分の記憶を手繰り寄せた。不思議そうな顔をするみやびだが、何かが間違っていることに気付いたらしい。
「……お母さん、休みのときはこっちに来てくれてるんです。だから一か月ぶり、とかではないんです」
「嗚呼、そうだったのか。……お姉ちゃん言ってくれたってよくない?」
「ごめん忘れてた。それに、会話大事でしょう?」
最後のひと口を飲み込むと、私は文句を言ってきたみやびをいなして食器を水に浸ける。沸かしておいたお湯で三人分のお茶を淹れると、まだ食べている二人の前にも出しておいた。
私との会話はテンポよく交わせるようになったが、初対面の人に対してはまだ難しいらしい。それもそうだ、まだ逃げ出してからひと月しか経っていないのだから。それにみやびは和子ちゃんがこっちに来てから触れ合う人の中で一番歳が近い。和子ちゃんと歳が近いということはいじめていた彼女の同級生とも歳が近いということで、それだけで恐怖の対象になってしまうのである。
加えて、みやびは裏表はないが騒がしい。名前詐欺だと言われたことは数えきれないくらい。つまりは彼女をいじめていた人たちと、テンションが似ているのだ。そんなことはしないと分かってはいても、心まで簡単に受け入れてくれるわけではない。和子ちゃんも、必死に戦っているのだ。
「お母さんによろしく伝えてね。よかったらお弁当買いに来て。割引するから」
「お母さん、喜びます。正直お母さんもあまり料理得意じゃないから」
「そうだったんだ。そしたら是非。明日はロールキャベツと葉玉ねぎの卵とじ」
「ちょっと久しぶりですね、葉玉ねぎ」
「そうかも。葉玉ねぎ、これで今年は終わりって言ってたから、食べ修めになると思うよ」
じゃあ買いに来ようかな、と頬を緩める和子ちゃんに、よかったらお母さんも連れてきてね、と伝えておく。いっそおばあちゃんと三人で散歩がてらおいでよ、と横槍を入れてきたみやびの言葉に和子ちゃんがそれいいかも、と弾んだ声を上げた。
「お母さんにちょっと話してみます。この距離ならおばあちゃんも歩けるし。……みやびさん、ありがとうございます」
「いーえ。ただの思いつきだしね」
気にせんで、とひらひら手を振るみやびが食器を片す。慌てて手伝おうとしてくれた和子ちゃんに「みやびに任せていいよ」と言葉をかけると、少し躊躇いながらも席に戻ってきた和子ちゃんに私は問いを投げた。
「和子ちゃん、土曜日予定ある? 嗚呼、明日でもいいんだけど。とりあえず和子ちゃんが予定ない日。あ、でも日曜日が休みだから日曜日がいいのか」
「ええと、……一応いつでも空いてます。入れる予定もないですし。土日はお父さんが来るから、どっちがいいのか……嗚呼でも逆にどっちでもいいので、日曜日多分大丈夫です、けど」
「ん、了解。そこでおねーさんから田舎体験のお誘いなんだけど、」
「田舎体験……?」
「筍掘り、してみない?」
どう、と問いかけると、和子ちゃんはきょとんとした表情を隠さずに私を見返した。
「……筍掘りって、筍掘るんですか? 掘れるんですか? どうやって?」
「和子ちゃん落ち着いて、筍掘るんだよ、スコップで掘れるから大丈夫」
「すこっぷ……?」
そこに疑問を持たれたらどうしようもないのだが。
大きい先の尖ったシャベルね、と言い添えると、納得したように和子ちゃんが頷いた。あれの言い方は正直私もよく分からないので、少し悩んでしまうのは仕方ない。それに一軒家にでも住んでいない限り、見る機会は早々ないだろう。和子ちゃんも今は一軒家住まいだが、ご両親とはマンションに住んでいたという。
洗い物を終えたみやびが戻ってきて、筍、と繰り返す和子ちゃん事態を悟ったらしい。私も行くよ、とさらっと言ったみやびに和子ちゃんは驚いて、私とみやびを交互に眺めた。
「毎年ゴールデンウィークに行くのが恒例なの。今年は折角だし、和子ちゃんもよかったら来ないかなと思って。普通ならしない体験だろうし」
「そうね。高校で筍掘り行くって言って首傾げられたときはどうしようかと思ったわ」
「深弦もあんたも大概常識ってものがないからね」
「仕方ない、あの家に住んでると野菜関係の常識はなくなるものだよ」
それは否定しない、とみやびに返すと、どう、と今度は和子ちゃんに言葉を向ける。考えながらも行ってみたいです、と口にした彼女に笑うと、よし決まり、とみやびが声を上げた。
「楽しいよぉ、筍掘り。こっからだとちょっと長旅になるけど」
「運転は私とみやびで分担できるからちょっと楽ね。一人だと帰りが辛いからなあ」
「まさか筍持って電車に乗るわけにもいかないしね」
「というか、和子ちゃんとりあえずお母さんとお父さんに相談して許可貰ってからね。一応遠出になるから。あ、行く場合は必要なものはこっちで用意するから、和子ちゃんは動きやすい服と念のための着替えと運動靴ね」
「えと、分かりました……?」
頭にまだクエスチョンマークが浮かんでいる和子ちゃんに思わず笑う。もう行くのが当たり前になってきているから、疑問を持った記憶なんてない。というか、そもそも行くのが普通なので、行かない人のことはよくわからない。高校で大分矯正されたが、それでも自分の家が常識とずれているのはよく知っている。否、矯正されたから気付けたと言うべきか。
明日来てくれるんならその時に話しようか、と提案すると、和子ちゃんはちょっと安心したように頷いた。緊張するほどのことではないと思うのだが、その辺りの機微はちょっとよく分からない。
二時を回った頃、帰って行った和子ちゃんを見送って、みやびと二人翌日の準備に回る。ロールキャベツは巻き終わったものを冷凍して明日使えばいい。二人で卵の買い出しに出ると、帰るなり分担して私が卵を片し、みやびが二人分の布団を敷く。眠気が限界に達していた私たちは布団に潜り込むなり、あっさりと意識を手放すことになった。
***
「今井家には連絡してあるんだっけ?」
「してある。先に顔出す?」
「いや帰りでいいや。もしくは、私二人下ろしたら顔出してくるけど」
「あー……和子ちゃん、ちょっと帰りに従兄弟の家寄ってもいい? 農家やってて、たまに今井って書かれた段ボール送られてくるでしょう? そこの家。今日行く竹林もそこんちが管理してるの」
大丈夫です、という和子ちゃんの声が後部座席から聞こえてきて、私はミラー越しに彼女の表情を窺いながらごめんね、と謝った。
日曜日、朝十時。九時に出発し、あと少しで竹林に着く、というところである。
お母さんに事情を話すと、折角だから行ってきなさい、と後押しされたらしい。お父さんとは土曜日一日一緒だからいいじゃない、どうせ日曜日も和子が帰ってきてから帰るし、とのことだったそう。言った通りジャージに運動靴で来た和子ちゃんを車に乗せて、私たちは意気揚々と家を出た。
一年振りの筍掘りだ。今年はどの程度採れるのか、実は昨日から楽しみにしていた。
弟は今日は来ないと言っていた。先週あたり狩りに来たらしい。筍掘りは好きだが筍自体は食べない弟は、大物が採れればそれで満足なのは昔から変わっていない。筍は売りに出していないので、それでいいのだと従兄弟も言っていた。
畑の隅っこ、何も植えていない場所に車を停め、荷台からスコップと肥料袋を取り出す。肥料袋は筍を入れるためのもの。使い古したゴム手袋を三組、みやびが持って降りてきたのを確認すると、私は車の鍵を閉めて和子ちゃんに声を掛けた。
「和子ちゃん、こっち。足元と目の前気を付けてね。慣れてるとそうでもないけど、多分初めてなら林の中そのものだから」
毎年来ているが、毎年同じではない。新しく成長した竹の枝がせり出していて目でも傷ついたら大事だ。
少し緊張した面持ちで頷いた和子ちゃんを確認すると、私はガードレールを乗り越える。道路に面して半円状に平らになったその場所は、いつも私たちが拠点にしている場所だ。林の中に一歩足を踏み入れた和子ちゃんが、あ、と小さい声を落として、その弾んだ声に私は笑みを零した。
「筍!」
「うん、今年もちらほら見えるね。とりあえず、斜面にあるやつより平らなところにあるやつの方が掘りやすいから、和子ちゃんはここでやろう。最初は私も一緒にやるから大丈夫。みやびはちょっと遠征よろしく」
「りょーかい。んじゃちょっくら行ってくるね」
持っていたスコップを一つ渡すと、みやびは私に二組のゴム手袋を手渡してきた。それを受け取ると、すぐに斜面を滑り降りていく。難なく下りていくみやびをこわごわと眺めていた和子ちゃんは、みやびが下り切ったのを確認するときょろきょろと辺りを見回した。
「初めてでしょ、こんなところ」
「あ、はい。来る途中も田んぼばかりで、こんなところ本当にあるんだなって、正直失礼ですけど」
「見慣れてないと大体みんなそんな反応するよ。ここはまだましな方。ちゃんと週刊誌は発売日に読めるからね」
はい、とまずはゴム手袋を差し出してはめるように促す。素直に手袋を受け取った和子ちゃんが両手にはめたのを確認して、私はスコップを渡した。
少し足元の竹の葉を掻き分けながら、どの程度あるのかを確認する。掘りやすそうな場所と大きさのものを探すと、私は少し離れていた和子ちゃんを呼んだ。
「和子ちゃん、こっち、これ掘ってみよう」
「……大丈夫ですかね?」
「大丈夫大丈夫。私だって最初は上手くいかなかったし。これもね、知識より経験と勘だから」
緊張した面持ちを崩さない和子ちゃんに声を掛けながら、近くにあった筍に目星を付けた。よし、と気合を入れると、和子ちゃんに見ててね、と伝える。和子ちゃんがこくりと頷いたのを視界の端に見ながら、私は筍の周りにスコップを突き立てて土を柔らかくした。
「平地と斜面だったり、多分掘ってると出くわすと思うけど竹の根っこだったり、そういう条件によってちょっと変わってきたりもするけど、基本的にはこうやって一方を決めて、とにかく土を掘って、……掘るというより突き立てるっていうべきかな。で、ある程度掘れたら、てこの原理で、こう」
近くの竹を支えにしながら、スコップを筍から十センチ前後離れた場所に突き立てていく。自分の体重をかけてしっかり刺さったのを確認して、今度はてこの原理でスコップを筍と反対方向に倒す。よいしょ、と力を込めるとざくっと音を立てながら綺麗に掘れた筍を退かして、穴の開いた地面を掘った土で埋め直した。
一年振りだが、どうやら上手く掘れたらしい。小学生の頃からやっているから、慣れるのも当然かもしれないが。
「で、ここ、根元に紫色のぽつぽつがあったら、根元から綺麗に掘れた証拠。まあ最初のうちはこんな綺麗に掘れないから、とりあえず埋まってる筍を切り離して地上に出せればそれでいいよ」
「……や、やってみます」
「うん。私も最初はこの辺りで一緒に掘るから、分からなかったらとにかく見るか訊くかしてね。技は盗んで何ぼだから。何本か掘ったらそのうちコツも掴めて来るよ」
はい、と頷いた和子ちゃんが、私が教えた筍の近くにスコップを突き立てた。しばらく様子を見て、大丈夫そうだと判断してからあまり離れていないところで筍を探す。ちらほらと顔を覗かせている筍たちを掘りやすさで選別すると、私は掘りにくい方に入れた筍たちを狩りに取り掛かった。
筍掘りは体力勝負。そして普段使わない筋肉を使わないため、大体翌日筋肉痛に苦しむことになる。それを和子ちゃんには言っていないが、明日になれば分かることだ。筋肉痛にならなかったらそれでいいのだが。
和子ちゃんが声を掛けてくることはあまりなかったため、何も考えずにひたすら掘っていく。和子ちゃんが掘り終わるのを認める度に掘る筍の指示だけしていった。そのうち自分で探し始めた和子ちゃんに、私は一通り掘ったのを確認してから声を掛けた。
「和子ちゃん、私下下りてくるね。大丈夫そう?」
「えっと、はい、多分。分からなかったら呼んでいいですか……?」
「うん、是非是非。じゃあ行ってくる」
行ってらっしゃい、という声を背に受けながら、私は斜面を滑り下りた。
竹の枯れ葉は滑りやすいことこの上ない。綺麗な斜面なら、竹を支えにしながら滑った方が余計な体力を使わなくて済む。竹が無造作に生えているとそれはできないので、その場合はスコップを支柱にしながら下りる。辺りに掘った筍が散らばっているのはみやびだろう。
「みやびー?」
「あーお姉ちゃぁん? こっちこっちー」
「嗚呼そこか。一応探しながら行くから掘ってて」
「うーい」
返事が聞こえてきたため、掘り残しがないか見ながらみやびの声が聞こえた方向目指して歩く。少し足元の竹の葉を払うと、二本ほど掘り残しを発見。それを掘ってからみやびのところへ行くと、また何本か掘っていないものを見つけて掘りにかかった。
今年は大量そうだ。この分なら何日かお弁当にも使えるだろう。筍なら、筍ご飯に土佐煮、筑前煮、胡麻味噌和え、春巻き、サラダ、きんぴら。ありすぎていっそ困るほどだ。少し残しておいてすまし汁も作ろう。
弁当のおかずにするなら何がいいだろうか、と考えつつ、散らばった筍を集めていった。肥料袋を持ってきてまとめてもいいが、あまり重すぎると持って上がれない。
仕方なしにとりあえず大きめのを一本手に取って、拠点にしている場所に戻る。丁度最後の一本を和子ちゃんが私を見ると慌てて駆け寄ってきてくれたので、持っていた筍を預けた。
「ありがとう。走ると危ないから気を付けてね」
「あ、はい、気を付けます。何か手伝うことありますか?」
「そうだね、斜面に生えてるの一本くらい掘ってみる?」
「……ちょっとやってみたい、です」
「おーけー。じゃあ一緒に下りてきて。足元気を付けてね」
了解です、と小さく敬礼した和子ちゃんと顔を見合わせて笑った。
和子ちゃんを伴ってみやびのところへ戻ると、少し大きめではあるものの十分食べられる大きさの筍を紹介して私は筍の回収に勤しむ。近くでまだ掘っていたみやびに和子ちゃんを託すと、私は一つずつちまちま運ぶのが面倒になって肥料袋を持ってきた。
小さめのなら数個一緒でも大丈夫だろう。毎年、紐があれば便利じゃないかと思って結局忘れてくる。竹の葉の滑りやすさを最大限利用するには、紐に括りつけた肥料袋を上から引っ張り上げることにあるのではないかと考え付いたのはもう何年も前だ。実行にはまだ至っていない。
来年こそ、と思いながら引き上げの準備に入る。車を回してきて後ろに掘った筍を積み込むと、私は和子ちゃんたちの許へ再度下りた。
「お二人さん、そろそろ撤収しよう」
「はーい、待ってこれ掘ったらいく。あとちょっと」
「了解。和子ちゃんは大丈夫? 掘れた?」
「あ、多分。今行きま、わっ」
「大丈夫気を付けて!?」
体勢を崩した和子ちゃんの悲鳴と同時に、筍がごろごろと転がり落ちてきた。慌てて声を掛けると、大丈夫です、と緊張した声が返ってくる。近くにあった竹に縋り付いたらしく、怪我はなさそうな様子に安心しながらゆっくりおいで、と言葉をかけた。
落ちてきた筍を拾い上げて、先に車へ戻る。路駐だから他の車の通行の邪魔になる。みやびを急かして和子ちゃんを後部座席に乗せると、五分くらいして上がってきたみやびから筍とスコップを受け取ってトランクに積んだ。
「みやび早く手ぇ洗って」
「うい。行かないでよ」
「流石にそんなことしないからはよせい」
「うっす」
持ってきていた水で簡単に手を洗い、二人で車に乗り込んだ。
行くよ、と声を掛けて車を出す。幸い対向車はなく、細い道を気持ち遅いスピードで走る。お疲れさま、とミラー越しに和子ちゃんに声を掛けると、助手席に座るみやびが和子ちゃんにペットボトルのお茶を差し出した。
「飲んで、水分補給。何も飲んでないでしょ」
「……ありがとう、ございます。いただきます」
「どうぞー。お腹減ってない? 従兄弟の家顔出したらどこかで食べて行こう。なんか食べたいのある?」
「特には思いつかないですね……」
じゃあ目についたところに適当に入るか、と結論を出すと、とりあえず従兄弟の家に寄った。そこで二、三本筍を置いてすぐに撤退する。家に上がったら帰るのが遅くなるからだ。
遅めのお昼を食べると、私はみやびと運転を交代しながら帰途に着いた。後ろの和子ちゃんは途中から寝てしまっている。朝も少し早かったし、何より慣れないことをしたのだ、疲れているのだろう。みやびと二人で休憩を挟みながら家に着いたのは、三時を回って四時近くになった頃だった。
さりげなく店を通過して、聞いていた和子ちゃんの家に車を走らせる。まだ起きない和子ちゃんをわざと起こさないまま、車を降りてインターホンを押している間、静かにトランクを開けたみやびが筍を二本見繕っていた。
「あ、こんにちは、坂井です。こっちは妹です」
「嗚呼、いつも娘がお世話になってます。……和子は?」
「疲れたみたいで寝てしまったので、寝かしたままです。少しお話しできないかと思いまして」
「すみません、わざわざ。ちょっと旦那を呼んできますね」
そう言って和子ちゃんのお母さんが家の中に引っ込む。トランクは開けっ放しで寒そうではあったが、下手に音を立てると起きてしまうと気を使ったのだろう。ぎりぎりのところまでトランクを閉めると、みやびはそのまま開かないように押さえていた。
「初めまして、和子の父です。わざわざ送っていただいてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ家族の時間を短くしてしまって……これ、今日茹でちゃってください。水に浸して冷蔵庫に入れておけば一週間は持つので」
「いつもすみません。……この間も、泣かせてもらって」
お母さんの言葉に、小さく笑って首を振る。さりげない否定に気付いたのか、お父さんが言葉を重ねた。
「あの子は、頑張り屋で。頑張りすぎるくらいなんですよ、昔から。だから、逃げたい、と言った時も泣かなかったので……ずっと心配していたんです。どうしても、私たちは今の仕事を投げ出せなかったので、母のところに預けることにしたのですが……高校も受かったはいいものの、行けるかどうか気にしていたので。行けなくても構わないから、あの子が生きる術を見つけてくれれば、と」
「……分かります。和子ちゃんと似たような子を、知っているので。私の勝手な行動で、迷惑をかけていないかといつも思っていたんですが」
「いえ、外に連れ出してくれた坂井さんには感謝しています。漸く、人と関わることにも少しずつ慣れてきたようで」
それは、見ていればわかる。最初のうちは、お客が来るたびに怯えた表情をしていたから。
隣で頷いていたお母さんが、目に浮かんだ涙を拭っていた。いいご両親に恵まれたな、と思いながら、私は笑う。これからもよろしくお願いします、というご両親にこちらこそと頭を下げると、私はみやびに和子ちゃんを起こすよう頼んだ。
「うちは、いつまでいてくれても構わないので。和子ちゃんが生きやすいようにしていければ、と思っています。一介の弁当屋の店主が何言ってるんだって話ですけど」
「いえ、和子は貴方を信じているようなので、貴方になら頼めます。本当によろしくお願いします」
「……坂井さん、起こしてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん。筍、お母さんと一緒に皮剥いて今日茹でちゃってね。調理法は知りたかったら教えるから」
「はい、……今日はありがとうございました。楽しかったです」
和子ちゃんの言葉によかった、と笑うと、いつの間にか運転席に座っていたみやびが声を掛けてきた。気を使ってくれたらしい。
お気をつけて、と見送ってくれる三人に会釈をして、助手席に乗り込む。和子ちゃんに小さく手を振ると、静かに車を走らせたみやびにありがとうと落とした。
「帰ったら忙しいね。とりあえずお湯沸かしておく」
「任せた。私剥いてる」
役割分担を決めて、なるべく早く寝られるように祈った。明日は少し辛いかもしれない。
「……いいご両親だね、和子ちゃん」
「うん、電話はしたことあったけど。……みやび、仲よくしてあげてね。多分これからも顔合わせるだろうし」
「分かってるって。さて、下茹で頑張りますかあ」
のんびりした声を上げたみやびに笑って同意する。手始めに、明日のおかずは筍の土佐煮かな、と考えながら、私はトランクから筍を降ろした。
***
月曜日は土佐煮、火曜日はメインのおかずとして筑前煮、水曜日はサラダ、木曜日は胡麻味噌和え、金曜日は筍ご飯、土曜日はきんぴら。
日曜日にみやびと下茹でをしながら決めた一週間分の献立を和子ちゃんに伝えると、「そんなに作れるんですか!?」と驚きながら筍を手に取った。
思ったりも大量だったのだ。まあ、あくまで予定に過ぎないので途中でなくなったらそこまで。おかあさんに土佐煮は習ったと言っていたので、私から教えるのは筑前煮と胡麻味噌和えになる。サラダも知りたいと言っていたから木曜日にレシピを渡すことになっていた。
鶏肉、人参、ごぼう、れんこん、しいたけ、筍、こんにゃくを適当な大きさに切って、調味料を合わせる。煮汁はお湯に本だし、砂糖、醤油と酒。最後にみりんも使う。
まず鶏肉を軽く炒めて、色がついたところで具材を容赦なく全部投入。油が絡んだら煮汁を入れ、焦げないように中火で煮るだけ。最後の彩りに絹さやを散らせば完成だ。
「とまあ、こんな感じ。そんなに難しくないと思うよ。味付けは卵とじと同じような感じだし」
「大丈夫そうです、今日の夜作ってみます」
「うん、是非是非。じゃあ今日は魚料理の方持って帰る?」
「うーん……そうしようかな」
了解しました、と返事をしながら手際よく作っていくのはその魚の方だ。今日も鰹、ただ今日は竜田揚げではなくて照り焼き。本日は和食デーである。
おかずは厚揚げを焼いたもの、それから小松菜の胡麻和え。たたきごぼうでもよかったのだが、それだと筑前煮と材料が被る。彩りもいいし、と緑色の小松菜を選択。季節は少し過ぎているものの、弟が作っているので送ってくれていた。厚揚げはトースターで焼いて、めんつゆと醤油を二対一の分量で混ぜ、そこにすりおろした生姜を混ぜたたれをかける。これが意外とおいしい。ただの生姜醤油だと塩辛い感じが残るが、めんつゆが入ることで味が少し優しくなる。
人参のバランスを考えながら筑前煮をパック詰めし、残りのおかずを詰めていく。出来たものを店頭に出して、板をひっくり返す。前に、外から中を窺っていた親子と視線が合い、私は引き戸を開けると声を掛けた。
「いらっしゃいませ。どうなさいましたか?」
「たけのこ! おかあさん!」
「す、すみません。昨日の土佐煮をいただいたのですが、この子の母の作るものと味がそっくりで……」
「……とりあえず、中へどうぞ」
まだ三十代だろうか、父親らしき男性と、小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子。親子を中へ入れると、とりあえずと椅子を勧める。すみません、と恐縮しながら女の子を抱き上げて椅子に座った男性が、私に視線を合わせてきた。
「貴方が店長さんですか?」
「はい。坂井と言います。昨日はお買い求めいただいてありがとうございました」
買いに来たお客さんの中にこの親子はいなかったはずだが、他の人が買っていったのだろう。そんなに種類を出しているわけではないので、まとめて買っていく人は結構いる。
いえ、と短く答えた男性の膝の上できょろきょろと辺りを見渡す女の子に、ふと思いついてレジ横から飴玉を持ってきた。どうぞ、と渡すと、ありがとう、と満面の笑みで女の子が飴を受け取る。ありがとうございます、と慌てたように言った男性に、私はそれで、と首を傾げた。
「どうなさいましたか?」
「……その、昨日の土佐煮のレシピを教えていただけないものかと……」
「……それは構いませんが」
レシピの開示は割とよくしている。和子ちゃんにもそうだし、時々買いに来るお母様たちにも訊かれるので教えることは多い。
何か事情がありそうだ、と思いつつ、少し待っていてくださいと声を掛ける。ドアを開けて入ってきたお客にいらっしゃいませと笑いかけると、先にお客さんの応対に入った。
「みやび、今手ぇ空いて……そうだった今いないんだった。和子ちゃん一人で大丈夫そう?」
「あ、はい、なんとか。何かありましたか?」
「うん、ちょっと。レシピ開示なんだけど、ちょっと訳ありみたいで。レジ兼で応対してるから、こっち頼んでもいい?」
「分かりました。頑張ります」
「分からなかったらすぐ呼んでね、そこにいるから」
何人かまとまってきた客を捌き、裏に引っ込んでレシピを探す。見つけたレシピをコピーして、私はまた店の方へ戻った。
「すみません、お待たせしました。これですね」
「ありがとうございます! 助かります」
「おとうさん、おかあさんのたけのこまたたべられるのー?」
「そうだなあ、お父さん頑張るから、のの、少し待っててな」
「おとうさん、ののもつくるよ!」
「ののもー?」
レシピを渡すと、男性が頭を軽く下げてくる。いえいえ、と応えると、待ちきれないような様子で女の子が男性の顔を覗き込んでいた。柔らかい表情で笑う男性が、よいしょ、と女の子を抱き直す。そっと奥に引っ込もうとすると、おねえさん、と女の子に呼び止められて驚いた。
「おねえさん、ののにおかあさんのたけのこ……えっと、とさに? のつくりかた、おしえてください!」
「ちょっと、のの!」
慌てたように声を上げた男性に大丈夫ですよ、と声を掛けてから、女の子────ののちゃんと向き合う。きらきらした瞳で私を見つめ返してくる少女に、私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ののちゃん、お母さんの土佐煮、作れるようになりたい?」
「なりたいの。だってね、おとうさんがだいすきなの。ののもすき!」
「そっか。じゃあ特訓しないとだね」
「とっくん?」
「練習、っていえばわかるかな? ののちゃん、お料理したことある?」
「えっとね、あるよ! おかあさんがおしえてくれたの!」
そっか、と柔らかく返すと、ののちゃんがでもね、と悲しそうな顔をした。ちらっと男性を窺うと、困ったような笑顔でののちゃんを見つめている。やっぱりそうなんだろうな、と思いながらののちゃんに視線を戻すと、泣きそうに顔を歪めた少女はそれでも必死に涙を堪えながら悲しい現実を口にした。
「おかあさん、もうとおくにいっちゃったんだって。もうあえないんだって。もっともっと、おかあさんにおしえてほしかったのに、おかあさん……っ」
「……のの」
きゅっと唇を閉じたののちゃんの頭を、そっと撫でた。瞳いっぱいに涙を溜めながら、それでもののちゃんは涙を流すことはない。男性がそっとその小さな身体を抱き締めると、ぽろりと一粒だけ零れた涙が、少女の泣かないという小さな決意を痛い程に表していた。
ねえののちゃん、と目の前の少女に声を掛けると、少女はなあに、と震える声で応える。ののちゃんとののちゃんのお父さんが許してくれたらだけど、と前置きをしてから、私はレシピを指さした。
「日曜日、時間があったらおいで。お母さんの土佐煮、お姉さんが教えてあげる」
「っ、ほんとっ?」
「うん。でも、お父さんがいいって言ってくれたらね」
「おとうさん、のの、おりょうりしたい! おかあさんのとさに、つくれるようになりたい!」
「のの……でも、迷惑じゃ」
いいんです、と笑って首を振る。日曜日はお店も休みだし、さして手間ではない。それに、料理を教えられるのは私としても貴重な経験だ。
「日曜はお店も休みなので、気にしないでください。それに……お父さん、お料理、なさいますか?」
「そこを突かれると痛いですね……」
如何せん、家事は妻に任せきりだったもので。そう、寂しそうに笑った男性が、よろしくお願いしますと頭を下げてきた。
「本当にいいのでしたら、頼んでもよろしいでしょうか。その、よかったら私も一緒に……」
「分かりました。日曜日は大丈夫ですか?」
「ええ。何時頃に伺えばいいでしょうか」
「十時くらいに来ていただければ。お昼にも合わせられますし」
「おとうさん、いいの? おりょうりおしえてもらえる?」
「そうだな、お父さんと一緒に教わろうか」
「ほんと!? やった!」
泣いた烏がもう笑う。
目元を赤く染めたままのののちゃんが、嬉しそうに笑う。竹中と言います、と帰り際に名前を名乗った男性が名刺を置いていって、ついでにお昼のお弁当も買ってくれた。
そうと決まれば、筍を残しておかないと。
とにかくお店が優先なのは変わらないので、あとで忘れずに筍を少し弾いておくことにする。和子ちゃんにごめんねと謝って裏方の作業を少し手伝い、お客を捌くとあっという間に一次だった。
「じゃあ和子ちゃん、これ今日の分。お疲れ様でした、気を付けてね」
「ありがとうございます。また明後日よろしくお願いします」
お昼分のお弁当を持たせると、和子ちゃんは一つお辞儀をして家に帰って行った。忘れないうちに、日曜日の分の筍を分け、お昼ご飯を温める。食べながら何を教えようか考えているのが楽しくて、思っていたよりも時間が過ぎてしまったことに苦笑した。
明日の下準備をしなければ。だし巻き用の卵を買いに行かないと。
よし、と気合を入れて卵を仕入れに車を出す。ついでに日曜日に使えそうな品をざっと見て、私は頭の中にメモをした。
そして、日曜日。
朝十時少し前にお店の方から「こんにちはー!」と元気な声が聞こえて、私は住居スペースから表へ顔を出した。
「こんにちは、ののちゃん。竹中さんも、いらっしゃいませ」
「今日は本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
「おねえさん、よろしくおねがいします!」
「はい、よろしくねののちゃん。じゃあこっちにおいで」
段差のあるところは手を引いてあげながら、店の方ではなく裏の住居スペースへと二人を通した。教えるのは家庭料理だから、これで十分だ。台所に並べた材料にののちゃんが目を輝かせるのが分かって、私は笑いながらまず洗面所へと連れて行った。
「ちゃんと手洗いできるかな?」
「できるよ! おとうさんだっこ!」
「はいはい。手洗ったらのの、もらったエプロンお姉さんに見せてあげな」
「うん! あのね、おかあさんがまえにつくってくれたの!」
ぱたぱたと足音を立てながら、ののちゃんが狭いリビングを駆ける。持ってきた子供用のリュックから取り出したエプロンを身につけると、ののちゃんは私の前でくるりと一周回って見せた。
「妻が着ていたものを、自分でリメイクしてのの用に作っていたようで。なかなか落ち着かなかったので、着るのは初めてなんです。……楽しそうで、よかった」
小さく漏らされた竹中さんの言葉に、そうですね、と相槌を打つ。小さなその頭を軽く撫でると、ののちゃんは安心したように笑いながら私の手にすり寄ってきた。
お母さんがどうして亡くなったのかは分からないが、そんなに経ってはいないようだ。それなのに、ののちゃんはお父さんのために頑張ろうとしている。竹中さんも、ののちゃんのために頑張っている。まだ小さいののちゃんを遺して逝かなくてはならなかったお母さんも、きっと悔しかっただろうな、と思いながら、私は気持ちを切り替えた。
「さて、竹中さん、どのくらい料理しますか……というより、何なら作れますか?」
「えーと……恥ずかしながら、スクランブルエッグとインスタントラーメンと……一応ゆで卵は作れますか」
「まあ、そのくらい作れれば十分ですかね。ののちゃんは?」
「ののはね、おかあさんからもらったのーとがあるから、それと、あとおみそしるはつくれるよ」
「ノートがあるの。今持ってたら、見せてもらってもいいかな?」
持ってるよ、と得意げに笑ったののちゃんがリュックからノートを引っ張り出してくる。A5サイズの小さめのノートを開くと、平仮名の多い字でいくつかレシピが書いてあった。
ののちゃんのお母さんが亡くなる前に書いていたらしい。一緒に作ったの、と問いかけると、いくつかページをめくって作ったものを教えてくれた。全部ではないらしく、一緒にt食ったもの以外は少しあやふやな様子がある。ふむ、と少し悩んでから、私はノートを閉じるとののちゃんに返した。
「ありがとう。まあとりあえず、ののちゃんのお母さんの土佐煮を作ろうか」
「うん!」
「土佐煮はノートには書いてないんですね」
「……書き終わらないうちに、書けなくなってしまったようで。ごめんね、としきりに謝ってました」
そうですか、としか言えず、私はそれきり黙り込む。竹中さんもそれ以上何も言えなかったようで、会話のないまま必要な物品を取り出した。
「さて、ののちゃん。包丁は使えるかな?」
「つかえるよー!」
「じゃあこっち、この台に乗ってね。届く?」
「うん、とどく! だいじょうぶ!」
おいで、と声を掛けると、素直に近寄ってきたののちゃんを抱き上げて台に乗せる。後ろから危なくないように囲うと、ののちゃんに小さめの包丁を持たせた。
猫の手だよ、と声を掛けながら、最初に見本を兼ねて二、三欠片切っていく。わかったよ、と私を振り返ったののちゃんに包丁を明け渡すと、形の悪い筍相手に少し手間取りながらもなんとかある分を切りきった。
「お疲れ様でした。一度手を洗おうね」
「はあい。おとうさんはなにつくるの?」
「お父さんはねぇ、こんにゃくの煮物でも作ってもらおうかなあ」
あと厚揚げね、と付け足して、隣に立つ竹中さんを見上げる。はらはらした様子でののちゃんの包丁捌きを見ていた竹中さんは、私の言葉に少し表情を強張らせた。
「大丈夫ですよ、切って煮るだけなので。竹中さん、家にめんつゆはありますか?」
「めんつゆ……ある、とは思いますが……」
「なかったら買ってくださいね。めんつゆは最強に便利なので、あって困るなんてことは絶対にないです。保証します。土佐煮はお母さんの味がいいということなので、ちゃんと酒とみりんを使いますが」
答えながら、用意してあった鍋に調味料を入れていく。酒、砂糖、醤油、みりん、水、だし。適当にどばどばと入れてから、味見で味を整えていく。大丈夫かな、と思ったところでスプーンでひと掬いすると、ののちゃんにそれを渡した。
「この味覚えてね。大体の分量は、この間渡した紙に書いてあるから、お父さんに教えてもらってね」
「分かった!」
「これが覚えられれば、色んな煮物が作れるんだよ。そしたらののちゃん、ここにさっき切った筍入れてね。お姉さんが椅子ずらしてあげるから」
「うん!」
煮物のベースになる味付けは、大体一緒だ。みりんと酒がなくても作れるが、今回は本格的な方。竹中さんに教えるこんにゃくと厚揚げの煮物はめんつゆを使った簡単煮物にする。
ののちゃんに火の番を頼み、まな板を洗うと今度はこんにゃくと厚揚げを取り出した。
「適当な大きさに切ってください。大体一口で食べられるくらいがお弁当にも入れやすいので便利です」
「分かりました、……このくらいでいいですか?」
「あ、大丈夫ですよ。ののちゃん、このくらいの大きさなら食べられる?」
「どれー? ……うん、食べられるよ! おとうさんがつくるの?」
「そうだよ、ののちゃんも見ててね」
「うん! ののもみる!」
別の鍋を引っ張り出して、今度はこんにゃくを入れる。めんつゆを入れて水で適当に割って、あとは煮汁がなくなるまで時々混ぜながら煮れば終わりだ。厚揚げも同様なので、ここでは割愛。
ガスコンロは二口だが、カセットコンロを用意しておいたので片方にこんにゃく、片方に厚揚げをかけておく。筍の煮汁が少なくなっているのを確認すると、私はののちゃんに鰹節を入れるように頼んで、ざっと和えると火から下ろした。
「おねえちゃん、まだしるのこってるよ」
「煮物はね、冷めるときが一番味が染み込むの。だから全部なくなるまで火にかけるんじゃなくて、少し残ってるくらいで火を止めるんだよ」
「そうなの? なんで?」
「ええっとね、温めると、おいしいものまで食べ物のお外に逃げて行っちゃうの。でも、冷ましてるうちにその『おいしい』が戻ってくるの。だから冷ましてからの方がおいしいって感じるんだよ」
「じゃあさいしょからあっためなきゃいいのに」
「一回温めて、食べ物の中にある『おいしい』と食べ物の外にある『おいしい』を合わせてるの。土佐煮だったら、さっきののちゃんが醤油とかお砂糖とか入れたでしょう? あれね。で、温めると中の『おいしい』が外の『おいしい』と出逢ってもっとおいしくなるから、冷ますことでその『もっとおいしい』が中に戻ってきて、おいしくなるんだよ。分かったかな」
「うーん……ちょっとわかった」
「ののちゃんがもっと大きくなったら、ちゃんと分かるようになるよ。とにかく、煮物は一回冷ます、ね」
「わかったよ!」
大きく頷いたののちゃんに笑いかけて、筍の土佐煮をタッパに移す。手早く鍋を洗うと、次はフライパンの出番。竹中さんに冷蔵庫から鶏ひき肉を出すように頼むと、私はののちゃんを連れてテーブルへ移動した。
「じゃあののちゃん、次はサンドイッチを作るよ」
「さんどいっち!」
「ののちゃん、卵とツナ、どっちがいい?」
「えっとね、たまごがいい」
「おーけー。じゃあこの卵、これで細かくしまーす」
じゃーん、と取り出したのはエッグカッターである。縦でも横でも輪切りにできるので、縦と横に切れば細かくなる。これがあると、包丁を使わなくてもゆで卵が綺麗に切れるので安全安心楽ちん、と三拍子そろった優れもの。しかも卵を切るのは割と楽しい。
あらかじめ茹でてあった卵をエッグカッターで切ってもらい、マヨネーズと塩胡椒で味を整える。食パンに薄くマーガリンを塗って、卵を挟めば完成だ。
それを見ながら、私は玉ねぎをみじん切りにしてツナとマヨネーズ、塩胡椒で和える。ののちゃんに余計にマーガリンを塗ったパンを用意してもらって、こちらも挟めば完成。
その間に竹中さんに卵そぼろを作ってもらい、ののちゃんにもう一組マーガリンを塗ったパンを用意してもらう間、同じフライパンに醤油と砂糖、水を入れるように指示を出す。味見をして少し濃いくらいの味付けを竹中さんに覚えてもらうと、そこに鶏ひき肉を入れて卵と同じように細かくそぼろになるように炒めてもらった。これで桜でんぶでもあれば三食丼の完成である。そのまま卵と鶏そぼろで二色丼でもいいし、大人なら紅生姜で代用してもいい。
千切ったレタスとハム、それからスライスチーズを出して、ののちゃんに挟んでね、と頼む。うん、と元気よく頷いたののちゃんは大丈夫だと判断して、私は竹中さんに野菜炒めは作れますか、と質問をした。
「野菜焼いて肉焼くんですよね? 多分作れます」
「先に肉焼くんですよ。それから野菜、塩を振って、味付けは醤油でもコンソメでもカレーでも。その辺りはバリエーションつけやすいですね」
「……肉が先、ですね」
「多少焦げ付いても野菜の水分で落ちるので。ハンバーグとかカレーはノートに書いてあったので割愛しますね。分からなかったら訊いてください。何か知りたいものありますか?」
「……あの」
「おねえさん、できたよ! さんどいっち!」
何か言いかけた竹中さんを遮って、ののちゃんがはしゃいだ声を上げる。すみません、と視線で謝って、ののちゃんの手元を覗き込んだ。ぎっしり詰まったサンドイッチが三種類、お疲れ様と声を掛けると、ののちゃんは得意げな顔をして「おとうさん!」と竹中さんを呼んだ。
「みてみて! ののがつくったんだよ!」
「うまく作れてるな、のの。お母さんがきっとびっくりしてる」
「そうかな! おねえさん、おなかすいた!」
「じゃあ食べよっか。ののちゃんの作った土佐煮と、お父さんの作ったこんにゃくと厚揚げの煮物と、お姉さんと一緒に作ったサンドイッチで」
ちょっとばらばらだけど、と笑って、テーブルの上におかずを並べる。竹中さんにあとで伺いますね、と伝えると頷かれたのを確認して、私は皿と割り箸を用意した。
いただきます、と三人で声を揃えて、それぞれ好きなおかずに手を付ける。おいしい、と笑うののちゃんに上手だね、と笑いかけて、土佐煮をひと欠片。味は丁度よさそうだ、と思いながら竹中さんを見ると、その瞳に涙が滲んでいるのを見つけてそっと視線を逸らした。
そぼろは持って帰ってもらって夜の足しにしてもらうことにしたので、それぞれタッパに詰めてある。楽しそうなののちゃんの話を聞きながら昼ご飯を食べ終えると、うとうとし始めた少女に苦笑して、広げた布団の上に寝かせた。
「すみません、昨日から楽しみにしていたので」
「いえ、大丈夫ですよ。……いい子ですね、ののちゃん」
「はい。私の代わりに毎日味噌汁を作ってくれて……あの、さっき言いかけたことなんですけど」
そこで一度言葉を切った竹中さんが、ののちゃんから私に視線を移した。
「オムライス、作り方教わってもいいですか」
そう言った竹中さんの視線がののちゃんに戻される。嗚呼好きなんだな、と気付いて、断る理由もない私は二つ返事で頷いた。
そっと部屋を出てうるさくないように襖を閉める。玄関先の段ボールの中から玉ねぎと人参、少し悩んで冷蔵庫から絹さや。どうやら好き嫌いは無いようなので、人参も豆も食べられるだろう。竹中さんからもストップはかからなかったので大丈夫だと判断し、私は絹さやのつる取りをしている間に玉ねぎをみじん切りにしてくださいと指示を出した。
「量はどのくらいがいいですか」
「そうですね、他に野菜がなかったらひと玉使ってもいいけど、二人だし、半分……三分の一か四分の一で十分です。人参も大きいのなら薄く輪切りに五枚くらいをみじん切りにしてください。それから、絹さやは千切りで。量は適当に、そのうち分かるようになってくるまで失敗を繰り返した方が早く身につきます……なんて、酷い指導ですけど」
「いえ、大丈夫です。これ、炒めればいいんですよね?」
「そうですね。ここにウインナーとか輪切りにしたの入れてもいいですよ。魚肉ソーセージとか細かく刻んで入れたり」
アレンジは色々できますから、慣れてきたらしてみてくださいね、と声を掛けながら、野菜を炒める竹中さんの横から塩胡椒にコンソメ、ケチャップを少し。しんなりしたのを確認したら、今度は炊いてあったご飯を適量。
「冷ご飯使う場合は温めてください。その方が混ざりやすいです」
「分かりました」
「味付けは、野菜に下味でコンソメ入れたので、ケチャップで味整えれば中身は完成です。ちなみに具材は何入れてもいいし、味も醤油だったりただコンソメだったり中華にしてもなんでも行けます。要は炒飯です」
「……野菜炒めと同じ感じでいいでしょうか」
「まあそんな感じです。で、ご飯出来たらそのフライパンは退かして、今度は小さめのを使います。そしたら卵と砂糖、牛乳ですね。ふわふわさせたければ、マヨネーズを少し入れるといいです」
「……そういえば、妻がマヨネーズ入れていた気がします」
じゃあいれますか、と冷蔵庫からマヨネーズを出す。ボウルに入れた材料をかき混ぜると、私は最初は私がやりますね、と場所を空けてもらった。
熱したフライパンに半分だけ溶き卵を流し入れる。フライパンの中で焦げ付かないようにぐるぐると菜箸でかき混ぜた。簡単に言えば、スクランブルエッグの半熟バージョン。固まりすぎないうちに皿に盛ったケチャップライスの上に卵を乗せると、竹中さんが難しい顔をして立ち尽くしていた。
「大丈夫ですよ、スクランブルエッグは作れるんですよね?」
「それは大丈夫だと思います……思いたいです。皿に移す方が難しそうだな、と……」
「慣れ、でしょうね。ののちゃんなら失敗しても笑って許してくれると思いますよ」
フォローしたつもりだったが、考えてみればフォローなのかけなしているのか分からなかった。
笑顔で流してくれた竹中さんに感謝しつつ、やってみましょうかと声を掛ける。頷いた竹中さんに場所を明け渡し、真剣な表情でフライパンと向き合う彼に小さく笑う。気付かないほどに集中している竹中さんに、ののちゃんもいい子だけど竹中さんもいいお父さんだと改めて感じながら、私は新しい皿にケチャップライスを盛った。
「……っと、」
「まあ、そんな感じですね。大丈夫そうですか?」
「多分……精進あるのみ、ですかね」
「言ってしまえばそうなりますね……食べてみますか? 折角作ったし、竹中さんならまだ入るでしょう?」
まあ、と照れたように笑った竹中さんに、スプーンを渡した。緊張した面持ちで一口掬って口に入れる彼を横目に、私は台所の片づけをしておく。おいしい、と零れた言葉に、よかったです、とそれだけを返すと、私は水を流して鼻を啜る音を掻き消した。
「おねえさん!」
「あ、ののちゃん。いらっしゃい」
「あのね、おねえさんにさしいれ!」
火曜日。竹中さんに連れられて顔を出したののちゃんが、貸していたタッパをずいっと差し出してきた。
ののちゃんの言葉に、首を傾げながらタッパを開けてみる。中に入っていたのは、筍の土佐煮とこんにゃくの煮物、それからラップで仕切りを作って野菜炒め。もう一つにはオムライスが入っている。
ぱっと竹中さんに視線を向けると、「ののが持っていくと言って聞かなくて」と困ったように笑いながら紙袋を差し出してきた。
「これ、お礼です。本当に助かりました。もらってください」
「そんな! 別によかったのに……」
「ののが、お姉さんに、って選んだんです。な、のの」
「うん! あのね、エプロンだよ!」
ののちゃんから、と言われては断れないだろう。
ありがとう、とののちゃんにお礼を言って中身を開けてみる。シンプルなデザインのエプロンはクリーム色にワンポイントで蜜蜂が刺繍してあった。
「すみません、ありがとうございます。使わせてもらいます」
「そうしていただけると嬉しいです。のの、お礼は?」
「おねえさん、このあいだはありがとうございました。ねえ、またおりょうしおしえてもらってもいい?」
「こら、のの」
「いいんですよ。私も楽しかったですし、ののちゃんがやりたいって思ってるのなら全力で支援させていただきます」
「何から何まで本当にすみません」
気にしないでください、と笑って、ののちゃんの頭をそっと撫でる。えへへ、と嬉しそうに笑った少女にありがとう、ともう一度言葉を掛けると、大きく頷いたののちゃんがあのね、と口に手を当てる。ふと思い至ってしゃがみ、ののちゃんと視線を合わせると、恥ずかしそうにした少女は、それでもはっきりとその言葉を口にした。
「のの、おねえさんみたいなおりょうりをつくるひとになりたいの」
その言葉は、私からすれば最高の殺し文句。
「お姉さん、待ってるね」
そう言って笑うと、ののちゃんは竹中さんを強く引っ張って帰って行った。
「……坂井さーん」
奥から私を呼ぶ和子ちゃんの声が聞こえる。紙袋の中に入っていた一枚の折り紙に気付く。
『いつかののをおねえさんのおみせではたらかせてください』
小さな少女の大きな夢に、私は笑顔を浮かべながら立ち上がった。
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