卯月「葉玉ねぎ」
***
弟の名前で届けられた段ボールを厨房に持っていくと、私は勢いよくガムテープを剥がした。
「うわあ、ネギ」
むわっと香る、というより匂ってくるネギの強い匂い。今年もこの時期がやってきたかあ、と内心で苦笑しながら、私は中のものを取り出した。
葉玉ねぎ。見た目的には長ねぎと玉ねぎの合いの子で、玉ねぎのように根元が丸く大きくなった長ねぎ、と言えばいいだろうか。
地元の方では馴染みのある野菜なのだが、全国的にはそこまで浸透しているわけではないらしい。大学時代、自炊している時にもこうして実家から野菜を送ってもらっていたが、葉玉ねぎを見て不思議そうな顔をする寮友達は少なくなかった。
段ボールの中を確認して、また元に戻しておく。葉玉ねぎ、少しの葉物野菜、キャベツ。春は葉物が多いから、春の間に葉物野菜は食べておくべきだと思う。
実家から送られてくる野菜をメインに、いくつかお店の近くにある八百屋からも野菜を仕入れている。一年を通して必要な野菜は、どうしてもあるからだ。例えば玉ねぎ、人参、じゃがいもなど。何にでも使える野菜というものはあっても、どうしても旬というものはあるから、そういうときは八百屋から仕入れる。基本的に、農家をやっている弟や従兄弟から買える野菜は買っている。
「うーん、明日はどうしようかな」
今日の営業も前半がひと段落して、後半戦に向けた少しの休憩時間。開店自体は朝五時だが、朝九時前に一回休戦を見せる。それから、一度店を閉めて三十分程度仮眠をとり、そこからまた準備を開始、後半戦は十時半からだ。
朝ご飯を買いに来る人、お昼の弁当を朝買っていく人向けの朝五時から九時まで。お昼の弁当をお昼に買いに来る人たち向けに十時半から一時。お昼に買いに来る人はそこまで多くないから、奥に引っ込んで休んでいたりすることもある。
一人で回すのは大変だが、おいしかった、と言われるからやっぱりやめられない。長期休暇だと妹が手伝いに来てくれるので少し楽にはなる、とは感じるけど、やめるつもりはないなあ、なんて。
だって、笑顔が見たくて始めた仕事だから。結ぶ、と書いて『むすび』────人と人を繋げられますように。食べることを通して、様々な事を、様々なひとを、繋げられれば。
そう思って開店してから、一年。
段々軌道に乗ってきて、口コミでお客さんも増えつつある。勿論、リピーター客だって。だから私は、こうしてひとりだってやって行けているのだと思っている。
「さて、そろそろ後半戦かなあ」
もらった野菜をしっかり頭に入れて、段ボールを隅っこに追いやると手を洗って店頭に出た。数個ずつ、ケースの中に入れてカウンターから出、一度『clouse』にした板をひっくり返す。『open』になった文字を確認すると、お品書きがちゃんと見えるようになっているのをチェックして店内に戻った。
野菜をどうやって出すか思案しながら、ちらほらと来る客の対応をする。と、店の入り口で中を窺っている人影を見つけて、私はカウンターから出るとからからと扉を開けた。
「いらっしゃいませ。お昼ですか?」
「え、あ、えっと、……ユイ、さんであってますか」
「むすび、って読みます。この辺りのお弁当屋はうちくらいですが、どうなさいましたか?」
「むすび、さん、……すみませんまた来ますっ」
「あ、ちょっ」
くるり、と踵を返すなり走り去ってしまった彼女を引き止めることも出来ず、伸ばした手が空を掴んだ。どうしたんだろう、と思いながら、近所の常連さんが声を掛けてくるから中に戻る。
初めて見る子、だった。それに、あの見た目、もしかして中学生とか高校生とか、それくらいなんじゃないだろうか。
紛れもない平日の真昼間。しかも月曜日や金曜日ならまだ分かるが、水曜日である。何か行事の振り替え休日とは思えないし、県民の日とかの祝日でもないし。それでも深く踏み込めるはずもなく、名前すら分からないから踏み込みようがなかった。
名前を間違えられることは少なくないし、買わずに帰っていくお客さんだって勿論いる。いつもはあまり気にならないのだが、何故かその少女のことは気になった。
「なぁちゃん、どうかしたの?」
「あ、島村のおばちゃん」
「なんだか難しい顔してるよぉ、いつもの笑顔はどこにやっちゃったの」
「えへへ、すみません。……島村のおばちゃん、この辺り詳しいんですっけ」
常連のおばちゃんに話しかけられて顔を上げると、にこにこと私を覗き込んでくる笑顔にたしなめられた。いけない、考えすぎた。まだ接客中なんだから、しっかりしなければ。
そう思ってから、ふと思い出す。島村のおばちゃんはずっと昔からこの辺りに住んでる、と言っていた。さっきの女の子がこの辺りの子なのかどうかは分からないけれど、わざわざ駅を離れた場所まで私服で平日昼間に出歩くものか。近所に行くようなラフな格好だったし。
「まあそれなりにねえ。どうかしたの?」
「この辺りに、女の子、引っ越してきたりしませんか? 中学生か高校生くらいの」
「うーんいたかしら……最近はこの辺りも過疎化が進んでるから、いたらわかると思うんだけど。引っ越しは聞いたことないわねぇ」
「そうですか……あ、ご注文は?」
「今日はいつものにしようかな。逆に最近食べてなかったし。……で、その女の子がどうしたの?」
注文を取った品をひとパック、ビニール袋に割り箸と共に入れる。島村のおばちゃんは一人暮らし。私がまだ店を出す前の二月に、長年連れ添った旦那さんを亡くしたそうだ。
週に三回、彼女はこのお店に話ついでにお弁当を買いに来る。ご自分でも料理はするらしいんだけど、ずっと旦那さんの分まで作っていたのに急にひとり分になって、寂しいんだと言っていた。
「いやまあ、さっきちょっと見かけて……お店覗いてたんですけど、すぐいなくなっちゃって」
「平日の昼間に?」
「そうなんです、だからなんかあったのかなって……でも知らないのなら仕方ありませんね、ありがとうございます」
「いぃええ、何かあったら教えるわね」
「すみません、ありがとうございます。またいらしてください」
また来ますよ、と言い残して、島村のおばちゃんは帰っていった。
引っ越してきた子はいないのか。本当に来たばかりで情報がまだ回っていないとか……でも、トラックが来ればすぐに広まるだろう。だとしたら、たまたまおばあちゃんやおじいちゃんの家に遊びに来ただけ、とか。法事なら、平日だったとしてもおかしくはないだろうが。
どうしてか、気になる。
せめて中学生か高校生かでも分かればなあ、と思いながら店を閉めた。午後一時、閉店だ。
残しておいた自分の分のお昼をつまみ、厨房の片づけと下準備を終える。葉玉ねぎは人参と卵とじ。丼物はあまり出さないが、葉玉ねぎと言ったら卵とじだろう、やっぱり。
「あ、卵の買い出しか」
卵がないことを思い出し、近所のスーパーまで車を走らせることが決定。肉と魚、と大まかに決めてはいるが今回は卵とじがメイン。もうひとメニュー作るとしたら、味噌炒めか。葉玉ねぎと人参、それから豚肉。副菜にこんにゃくの煮物とマカロニサラダで決まり。
買い足すものは卵で足りそうだ。豚肉は、確かこま切れが冷凍庫にあった。冷蔵庫に戻しておけば明日には使えるだろう。
財布と車の鍵を持って少し歩いた駐車場へ。店舗兼自宅となっているが、車を置くスペースがあるほど広くはない。流石にかったものを手で持って帰ることができるほど少なくはないので、車は必須だった。
車を降りて、カートにかごを乗せる。卵のコーナーに辿り着くと、必要な量を計算して十個入りのパックをかごに入れていく。顔見知りの店員さんに挨拶をすると、ふとあげた視界の中に何かを見つけて、動きを止めた。
「……あれ、って」
さっきの、女の子だ。
ぱちり、と視線がばっちり合って、慌てて踵を返した少女を追うことはまた出来ない。タイミングが悪い、なんて思いながら、かごに入れた卵を放置して追いかけることはできなかった。
どうしてあの子は私を見て逃げるのだろう。たまたま、なのか。三度あったらそうかもしれないけれど、二回ではまだ断定はできない。
会計をして、荷物を車に積み込む。女の子のことは気になるが、そろそろ眠気も襲ってきている。
とりあえず、帰って寝よう。あの子は、また来ます、と言っていた。もしかしたら社交辞令かもしれないが、二度も顔を合わせて逃げられているのだから、きっと何かしらあるのだろう。
結。むすび。
その名前の通りなら、私と彼女だって繋がりは結ばれている。
その繋がりが顕在化するかしないかは、誰にも分からない。でももしあの女の子とまた会えたら、今度はちゃんと話がしてみたいと思った。
***
一気に作ると、味が落ちる。
一年の経験を活かして込み具合を考えながら、私は必要な量の葉玉ねぎを段ボールから取り出した。
ざくざくと適当な大きさに切り、切った野菜をボウルに入れておく。葉玉ねぎと人参。卵は常温に戻しておくために冷蔵庫から取り出した。
唐揚げは作ってあるので、売る前に軽く揚げなおせばいい。マカロニサラダ、こんにゃくの煮物はばっちり。作り置きできるものは作っておく、これ鉄則。
味噌炒め用の野菜も切って、卵とじとは別のボウルに分けておく。それぞれ炒めて味付け、卵とじのフライパンには溶いた卵を回しいれて蓋をする。その間に、今度はご飯の用意。それぞれのパックにご飯を詰め、入れられるおかずも入れておく。
準備ができたのを確認し、お品書きを完成させる。内側から扉に張り付けて、『close』の板を『open』にひっくり返した。
午後五時、開店だ。
意外とすぐに来る人は多く、一人で捌きながら足りなくなった卵とじを作る。味噌炒めもそろそろ作っておいた方がいいかもしれない。
頭の中で客の入りを計算しながら、前半戦が終了。朝ご飯は作りながら味見でつまむが、このひと段落した時にいつもきちんと食べる。一度住居スペースに上がると昨日の残りを温めてかき込み、スマホを店舗スペースに忘れたことに気付いて取りに戻ったときだった。
ガラス戸の向こうから、覗き込んでいる人影がある。もしかして、と思い至ってカウンターを出ると、一気にドアを開け放った。びくり、と肩を揺らしたのは、昨日もいた女の子。やっぱりと思いながらどうしたの、と声を掛けると、今日も変わらず私服の彼女はその場で俯いた。
今日は逃げない、らしい。逃げられるかとも思ったのだけれど、逃げないということは何か決意でもしたのだろうか。
少なくとも、これが三度目だ。もう偶然なんて言えない、何かしら用事はあるのだろう。
「……あ、の」
ぽつり、と絞り出された声を私が拾うと、彼女はぱっと顔を上げた。
「お店、もう終わっちゃいました、よね……」
上げた顔が、また下を向く。萎んでいく声に、私は困って笑顔を浮かべることしかできない。
「ごめんね。お店、朝五時から九時までと、十時半から一時までなの。……おつかい?」
そう問いかけると、こくり、と彼女が頷いた。中学生か高校生か、問いかけようとして、やめた。多分、踏み込むべきではない。
「昼ご飯分かな?」
「いや、……朝ご飯です」
「うぅん、そっか。……中入りな、少し時間かかるけど、何がいい?」
「え?」
朝ご飯なら仕方ない。まあ、お昼ご飯だったとしても中に入ってもらおうとは思っていたが。
自分が先に中に入り、入り口で女の子を手招きする。困惑した表情を隠さない彼女は、それでも躊躇いがちに店に足を踏み入れた。からからと音を立ててドアを閉め、心もとなさそうな顔をする彼女に大丈夫だから、と笑いかける。もう一度注文を問いかけると、彼女はおずおずと口を開いた。
「卵とじ、二つ下さい」
「卵とじ二つね、承りました。少し時間かかっちゃうから、そこの椅子、座っててもらえる?」
混雑時のために一応用意してあった丸椅子を示すと、こくりと頷いた彼女が椅子に座った。それを見届けて、厨房に入る。きちんと手洗いをすると、折角だから最初から作るか、と玉ねぎと人参を取り出した。
二人分なら、そんなに時間はかからない。煮ている間に残っていたご飯をよそい、しっかり野菜が煮えたのを確認して卵を回しいれる。蓋をして固まるのを待つ間に、片付けを済ませて。出来上がったものをご飯の上に乗せると、蓋をしてビニール袋に入れた。
「お待たせしました。お会計、千円になります」
「……あの、ありがとう、ございます」
「いいえ。……誰の分か、訊いてもいいかな?」
千円札を受け取ってレシートを渡しながらそう問いかけると、彼女は少し黙り込んで、私とおばあちゃんです、と答えた。
訊いておきながら何か言うことも出来ず、そっか、と応えながらビニール袋に入ったお弁当を渡す。おばあちゃんはここを知ってるんだ、と話を続けると、女の子はこくっと頷いた。
「……おばあちゃん、ここのお弁当好きだから」
「そっか、それは嬉しいな。……そういえば、昨日は買わなくて大丈夫だった?」
「昨日、は……私が、おばあちゃんの分も作りました。でも、料理慣れなくて、おばあちゃん食べてくれなくて。ここのお弁当が食べたい、っていうから……」
しゅん、とした女の子が、寂しそうに笑う。朝ご飯が、この女の子とおばあちゃんの二人きり。そのおばあちゃんも、どうやら料理はしないらしい。
ご両親は、なんて訊けるわけがなかった。またおいで、と声を掛けて、彼女を見送るためにカウンターを出る。ありがとうございます、と繰り返した彼女に、迷った末にチラシを一枚ひったくるようにして取ると、持っていたボールペンで電話番号とメールアドレスを書き足して押し付けるように渡した。
「これ、うちの店のチラシ。まあ、大したものじゃないんだけど……それと、書き足したのは個人的な電話番号とアドレス。元々書いてあるやつはお店のね。何かあったら電話しておいで」
「え……でも」
「おねーさんの勝手なお節介だから、個人情報流出しない限りは自由に使っていいから。……この時間に来るの、理由があるんでしょう?」
付け足すと、彼女はふつり、と黙り込んだ。
受け取ろうとしないそれを、二つに折りたたんでビニール袋の中にぐいぐいと押し込む。あ、という顔をした彼女にいいから、と念を押すと、少し迷ってからその頭をそっと撫でた。
「何があったのかよく分からないけど、あまり無理しちゃだめだからね?」
「……は、い」
「嗚呼そうだ、私、坂井なごみ。そこ書いてある通りだけど、好きに呼んでね」
「……わざわざ、すみませんでした。ありがとう、ございます」
ぺこり、と一礼すると、女の子はぱっと踵を返して走り去っていった。そういえば、きちんとお礼が言える子だった。どういう事情かはよく分からないけれど、常識はしっかり教えられて育ったのだろうということは分かる。
気付けば、もう九時半を回っていた。
仮眠は取れなかったが、あの女の子と話せたなら上々。買い出しは確か行かなくても間に合うはずだ、今日はすぐに寝よう。
後半戦の準備をしながら、そういえば女の子の名前を聞かなかったなあ、と今更ながらに思い出した。まあ、あちらから言わない限りは聞くつもりはない。私の名前はすぐに分かることだし、名乗ったところで支障はないから構わないし。
準備が遅くなってしまったため、少しどたばたしながら後半戦を乗り切ると、私は睡魔に耐えながら片付けを終えて、お昼ご飯を食べるなり布団に潜り込んだ。
学生のうちはオールとかできたけれど、流石にもう無理らしい。歳とったな、と母親に聞かれたら怒られそうなことを考えていると、スマホがメールの受信を知らせた。そういえば、マナーモードにするのを忘れていた。
霞みつつある視界を、必死で目を細めて画面を見る。見覚えのないアドレス、もしかして彼女か、と思いながらメールを開いたところで、私はあっさり睡魔に負けた。
アラームの音で目を覚ますと、午後六時を過ぎたところだった。
起き上がろうとして、そういえば寝る前にメールが届いていたな、と思い出す。布団に寝転がったままロックを解除してメールを開くと、案の定あの女の子からだったメールに内心で頭を抱えた。
いつでもいいよ、と言っておいたくせに寝落ち。いや仕方ないと言えばそれまでなのだが、きっとどきどきしながら送ってくれたであろうメールをすぐに返せなかったことは申し訳ない。
【初めまして、先程時間外にお弁当を作っていただいた者です。
わざわざメールしてくれたのか。やっぱり礼儀はしっかり身についているらしい。
嬉しく思いながら、返信メールを作成する。だが、メールだとその場で相手の顔が見れないので、深い話はし辛い。その方がいいと言う人もいるかもしれないが、私はちゃんと顔を見たい方なので、メールは正直少し苦手だったりする。というか、ひとの顔が、笑顔が見たいから始めた仕事でもあるわけだし。
【わざわざメールありがとうございます。和子ちゃん、でいいかな。よかったら、また明日もお待ちしています。明日も卵とじと味噌炒めです。ご飯だけ持ってくれば、おかずだけでも売っているので、もしよかったら利用してください】
少し悩んでから、タイトルに結です、と打ち込んで、送信。さて夕飯だ、勢いをつけて起き上がると冷蔵庫の中を覗き込んだ。今日の残りの卵とじと味噌炒め。味噌炒めは明日にしよう、と思って、炊いてあったご飯に温めた卵とじを乗せる。ご飯に染み込んだたれが甘じょっぱくておいしい。自画自賛だがなんだっていいや、と思いながら、私はさくっと夕飯を済ませて風呂に入った。
朝が早いので、夜寝るのも早い。もしかしたら、和子ちゃんとは生活リズムがずれるかもしれない。いや確実に違うだろう。
しかしそれはどうしようもないので、なるべくこまめに確認することにした。返信するときに、緊急時は電話で、と付け足しておこう。電話なら反応できる。メール程度じゃ正直なところ起きる自信が無い。
【また明日、うかがいます。人があまりいない時間って、何時くらいですか】
【日にもよるけど、朝なら九時ちょっと前です。閉店間際が狙い時です。お昼なら、十時半頃だから逆に早い時間かな。お待ちしています。それから、もし緊急の用事があったら電話を鳴らしてください】
やっぱり人目を気にしているのか。まああの見た目だ、学生だとは思うし、そうなるとどうしてこの時間に私服でいるのかと奇異な目で見られることは多いだろう。
大体いつも空いている時間帯を打ち込んで送ると、私はアラームの時間を確認して再び布団に潜り込んだ。
***
翌日、また前半戦の九時五分前にお店に顔を出した和子ちゃんに、私はおはよう、と挨拶をした。
「……お、はようございます」
「昨日はメールありがとうね。どうしても私、生活リズムがずれちゃうから、どうしてもってときは電話してくれて構わないからね」
「……えと、はい。ありがとうございます」
「うん。今日のご注文は?」
「……味噌炒め、二つ、で」
少々お待ちください、と言い置いて、残っていた味噌炒めとこんにゃくの煮物、マカロニサラダを詰めてご飯をよそう。ぴっちり蓋をして、割り箸を付けるとビニール袋へ。きっちり代金を受け取ると、レシートを渡しながら私はカウンターから出た。
「和子ちゃん、朝ご飯は買いに来るけど、お昼とか夜はどうしてるの?」
「……えっと、適当に。作ることもあるけど、私の作ったの、おばあちゃんあんまり食べないから……大体買い弁だったり、インスタントだったり、惣菜買ってきたり、です」
「うーん、そっかあ……でも、結構お金かかるでしょう?」
「……それは、まあ、そうなんですけど……」
でも、という彼女は、他に方法が見つからないのだと困った顔をした。
「……失礼かもしれないんだけど、おばあちゃんは料理しないのに和子ちゃんのは食べないのって、我儘にしかみえなくて」
「……おばあちゃん、病気なんです。認知症、で。料理も、気まぐれにはするんだけど、夜中に急に作り始めたりで困っちゃって。火事になってもいけないから、おばあちゃんには台所に入らないでって言ってて」
「そうだったの。ごめんね、事情も知らずに口出して」
「……いえ、大丈夫、です」
認知症だったのか。それなら、我儘になるのも分かる気がした。詳しくはないが、テレビでそのようなことを言っていた気がする。
その日はそれで和子ちゃんとは別れた。家におばあちゃんが一人だから、と言って。学校に行っているのかどうかは相変わらずわからないままだが、とりあえずそれは置いておくことにする。
料理に慣れていないから、和子ちゃんのおばあちゃんは食べてくれないのだろうか。和子ちゃんの料理の腕がどのくらいかどうかも分からないけれど、何とかできることはないだろうか。
昔からずっとお節介だと言われ続けてきたが、流石に私にも自覚はある。確かに、私はお節介だ。
深入りしなくてもいい場面で、今回のように踏み込んで、どうにかしようと足掻く。それも、昔、お節介になりきれなくて後悔したことがあったからなのだが。やらないよりはやって後悔をしたい、を信条にしているため、どう頑張ってもお節介にしかならないのだ。
今回、私にできることといったら、料理を教えること、だろう。料理なら私の本分、和子ちゃんが作れるようになりさえすれば、毎食買わなくても済む。お客は減るかもしれないが、たまに買いに来てくれれば十分だ。
問題は、時間と和子ちゃんのおばあちゃん。あまり家に一人にしておきたくないようだったから、そこを考えなければ。
そもそも、和子ちゃんはおばあちゃんと二人暮らしなのだろうか。でも、あの言い方じゃあ他に作る人はいなさそうだったから、少なくともご飯は二人なのだろう。ご両親は一緒に住んでいないか、もしくはワーカホリックか。どちらにしても、少し複雑なのかもしれないと思った。
メールではなくて、お店に来たときにきちんと話す方がいいだろう。そう思って、翌日午前九時。また買いに来てくれた和子ちゃんに時間があるかどうかを確認すると、私は板を『close』にして並んで丸椅子に座った。
「ごめんね、引き止めて。時間大丈夫?」
「えっと、はい。……それで、話って」
「うん、提案というか、おねーさんの勝手なお節介なんだけどね」
もしよかったら、うちで料理習わない?
私の言葉に、和子ちゃんはきょとん、とした顔を隠すことなくぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「和子ちゃんがよかったら、なんだけど。もし作るのが負担じゃなかったら、作った方がいいだろうし。嗚呼でも、もしかして買いに行くのって息抜きだったりするのかな? だとしたら本当にお節介だから気にしないでほしいんだけど……」
「……迷惑じゃ、ないんですか?」
おずおずと確認するように言ってきた和子ちゃんに、間髪入れずに迷惑じゃないよ、と返した。
「迷惑だったらこんなこと言わないって。とはいっても、私もお店があるし、和子ちゃんがおばあちゃん一人にできないっていうんだったら、要相談になるんだけど……やりようはいくらでもあるから、とりあえず訊いてみてます」
どう、と畳み掛けると、きゅっと唇を引き結んで和子ちゃんが俯く。いや、なわけではきっとないんだろう。そうでなければ、迷惑じゃないのか、なんて訊かないだろうから。
すぐに答えが聞きたいわけではなかったため、急かすようなことはしない。あの、と慎重に口を開いた和子ちゃんに視線を向けると、ゆらゆらと視線を彷徨わせながら和子ちゃんが言った。
「……一回、家に帰って考えてもいいですか?」
「うん、寧ろそのつもりだったから大丈夫だよ。お家のこともあるだろうし、無理にとは言わないし。……ああでも、ごめんね、ここ日曜日休みなんだ。それだけ伝えておくね」
「……ありがとうございます。また来ます。料理のことは、ちょっと考えてみます」
うん、と頷くと、和子ちゃんはほっとしたような顔をした。
逆に気を使わせたか、とひやひやしながら帰っていく彼女を見送る。だが言ってしまったものは撤回できるわけでもない。
さて、と切り替えると、私は後半戦の準備に戻った。
三日後、お店に顔を出した和子ちゃんに注文のお弁当を渡しながら椅子を勧めると、素直に座った彼女の隣に私も腰を下ろした。
「……この間の、料理を習う、って話なんですけど」
うん、と相槌を打ちながら、言葉の先を促す。躊躇うように唇が何度か震えるのを、私はただ黙って待った。
「……もし、坂井さんがよかったら、教えていただきたい、です」
「分かりました、全然いいよ、教えられることは教えます。時間は、どうしたい? いつでもいいけど、午後は結構寝てるかもしれないなあ」
「……それなんですけど、火曜日と木曜日の週二回、訪問介護の方が来てくださってて。丁度昨日だったんで相談してみたら、行ってらっしゃいって言ってくれて。それに、近所の人にも頼んで、火曜日と木曜日の午前中は様子を見てくれることになったんです」
「そうだったんだ? じゃあ、うーん……いっそ、和子ちゃん、バイトする?」
「……え?」
午前中は私もお店がある。九時から十時半までは開いているから、そこで教えることはできるけれど。午前中丸っと空いているのなら、折角だからバイトをした方がお金も出るしいいかと思うんだけれど。
びっくりしたように私を見る和子ちゃんが、困ったような顔をした。流石に、そこまではやり過ぎだろうか。修正しようと口を開こうとした時、先に口を開いた和子ちゃんが、意を決したように顔を上げた。
「……私、今学校通えてないんです」
通えていない、ということは、行きたくても行けない、ということだろうか。
「……私、高校生になったんですけど、中学でいじめ、られて……それで、おばあちゃんのところに逃げて来たんです。……親も、いいよって言ってくれて。高校、知ってる人は多分いないんだけど、まだやっぱり怖く、って……っ」
「……そっかあ、そうだったのかあ」
「……おばあちゃんが認知症なのは、本当のこと、で。元々、親のところに呼ぼうって言ってたから、私がこっち来るってなって、親も何も言わずに送り出して、手続きとか、もしてくれて……でも怖くて、学校に行けなくて……だから、みんなが学校に行ってる時間帯なら会わないから……」
ぎゅうっと掌を握り締めて、和子ちゃんが言った。その手をそっと自分の手で包む。ぱたり、と膝の上のビニール袋に落ちた雫に、和子ちゃんが驚いたようにあれ、と呟いた。
「……ねえ、和子ちゃん。いじめられてから、ちゃんと泣いたことはある?」
問いかけると、ふるふると彼女は首を振って否定した。だったら、とそこで言葉を区切ると、私は立ち上がって正面から和子ちゃんを抱き締める。坂井さん、と戸惑ったように私の名前を呼ぶ彼女の声は震えていて、大丈夫だよ、と優しく語りかけると、その背中をそっと撫でた。
「泣けるんなら、今、泣いちゃいな。泣けるときにちゃんと泣いておかないと、ひとって泣けなくなっちゃうんだよ」
だから、ね、ととんとんと背中を軽く叩く。片手で彼女の膝の上にあったビニール袋を退かした。ひくっと引き攣ったような声がして、彼女の顔の当たる肩口がしっとりと濡れていくのが分かる。
時折、怖い、と怯えたような声を出しながら、和子ちゃんは 泣いた。最初は穏やかだったのに、途中から何かを吹っ切るかのように、今まで我慢していたものを吐き出しているように泣きじゃくった。そんな彼女の背中や頭を撫でながら、私はただひたすら、怖い、と呟く彼女の気持ちを必死で受け止めた。
何かしら、事情があることは察しがついていた。けれど、こんなに重い事情を抱えていたなんて、思ってもみなかった。
きっと和子ちゃんは、一人で頑張ってきたのだろう。それで、頑張れなくなって、親を頼ってこっちに来て。それでも、彼女の心はまだ凍てついたままだ。
よく、こんな数回会っただけの私に事情を話してくれたものだ。それでも、彼女が一人で抱え込むことにならなくてよかったと、心から思う。おばあさんが認知症の今、ここで彼女の事情を知る人物は、きっといないに等しい。その中で、私が数少なくても味方になることができたらと、思うから。
少し落ち着いた和子ちゃんの腕を引いて、カウンターの中から住居スペースへ入る。座らせた彼女にタオルで包んだ保冷剤を渡して、冷やすよう指示を出してから片手鍋を取り出した。カップ一杯分の牛乳を鍋に入れ、はちみつをたっぷり。温まったのを確認してからマグカップに入れて和子ちゃんに渡すと、ありがとうございます、と掠れた声でお礼を言った彼女に気にしないで、と笑いかけた。
「私、お節介だから。時間は大丈夫?」
「……あ、はい。近所の人に、頼んであるので。もしかしたら遅くなるかもしれないから、って」
「そっか。……話してくれて、ありがとうね」
「……いえ、聴いてくれて、ありがとうございます」
ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら、和子ちゃんがハニーミルクを啜る。私も自分の分の緑茶を淹れると、和子ちゃんの斜め向かいに座った。
「……話、また今度にする?」
瞼を赤く腫らした彼女に、小さく提案する。少し悩んでからふるふると首を振った彼女が、今日決めます、と言い切った。
「……明日、介護師さんに言うって言ってあるから」
「そっか。……私は、何でもいいよ。午前中、何時からでも。ただ、お店の方やりながらになっちゃうから、つきっきりでは教えられなくなっちゃうの。だから、折角ならお店手伝わないかな、って思って、バイトするか、って訊きました」
少し落ち着いたのが分かったため、急かしたくはなかったが先に先程の発言の意味を伝える。後半戦が始まってしまうから、出来れば十時前までに話を纏めなければ。
ふつり、と黙り込んで考え始めた彼女を、それ以上急かすことはせずに黙って待った。その間に、頭の中で後半戦の段取りをつけておく。少し悩んだ和子ちゃんが躊躇いがちに口を開いたのが見えて、私は持っていた湯呑をテーブルの上に置いた。
「……バイト、というより、少しお手伝いみたいな形で教わってもいいですか?」
「分かった。そうしたら、……九時過ぎからがいいよね? 同級生とすれ違うこともないだろうし」
こくり、と和子ちゃんが頷く。
「じゃあ、九時半からお願いしてもいいかな。九時から九時半まで、私大抵仮眠取ってるから。来たら、裏口教えるから、そっちから入ってください。レジ打ちはしなくてもいいから、裏の厨房だけ手伝ってくれると嬉しいかな。料理教えるって約束だしね」
籍は置いているものの、高校に通っていないのでは顔を出しにくいだろう。それに、ひとと話すことも怖いかもしれない。その辺りは、すぐにできるようにならなくたっていいのだから、ゆっくりリハビリしていけばいい。
「わかり、ました。……来週からでも、いいですか?」
「嗚呼そうだよね、明日伝えるんだもんね。うん、いつからでも大丈夫だよ。そしたら来週の火曜日かな?」
「……はい。あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。何時までがいいかは、今分かる? また相談したかったらメールでも電話でもで教えてくれればいいからね」
「……分かりました。今日は本当に、ありがとうございました」
帰ります、と言った彼女を見送る前に、裏口を教えて。店の入り口でお辞儀をした彼女の背中が見えなくなったのを見届けると、私は厨房へ入った。
九時半は回ったが、何とかなるだろう。その大変さよりも、彼女が泣けたことの方が大事だった。
ご両親とも話をした方がいいかもしれない。和子ちゃん本人から伝えてくれていればいいが、事情が事情だし、私からも連絡を入れておいた方が安心するだろう。中学時代はともかく、ご両親はきちんとした人だろうということは、彼女のふるまいを見ていればわかることだ。
メールだけ入れておくことにして、後半戦の準備に取り掛かる。少し忙しくなりそうだが、後悔はない。
よし、と気合を入れ直して、私は包丁を手に取った。
***
「……おはよう、ございます」
「嗚呼、おはよう、いらっしゃい……」
寝起きの頭で挨拶を返すと、私はぐうっと伸びをして布団から這い出た。
翌週、火曜日。和子ちゃんのお手伝い初日。
ご両親には和子ちゃんからも話したようではあったが、私からも一応、と話をさせてもらった。事情を把握していることと、バイトという形で雇わせてもらうこと。ご両親はおおらかな方で、話の流れでちゃんと彼女が泣けた事を話すとよかった、と安心したように溜め息を漏らしていた。
和子ちゃんにエプロンを手渡して、顔を洗いに洗面所へ。さっぱりした頭でリビングへ戻ると、手持ち無沙汰になってしまっていた和子ちゃんに慌ててごめんと謝った。
「荷物はここに置いておいていいよ。朝ご飯は?」
「……一応、食べました」
「そっか。じゃあこっちで手を洗ったら厨房に来てもらってもいいかな?」
はいと頷いた彼女を置いて、先に厨房へと降りる。今日は肉野菜炒めと鰆のムニエル。野菜は最初に使う分は切ってあるから、あとから使う分を切ってもらおう。
「……坂井さん」
「あ、終わった? そしたら、ここで野菜切ってもらってもいいかな。切り方はこんな感じ。出来る?」
「……それくらいなら大丈夫です」
切ってあった野菜を見せながら、一応確認する。大丈夫、という言葉に安心してから包丁を渡すと、そこまで危なっかしい手つきをしているわけではなかった。
様子を見ながら、とりあえず最初の分だけは作ってしまうことにし、フライパンに油を引くと肉を入れる。ある程度火が通ったのを確認して、千切りの人参とキャベツの芯、小松菜の茎。油が絡んだのを確認して、葉玉ねぎの白い部分も投入する。塩胡椒を振って、しんなりしてきたのを確認してからキャベツ、小松菜の葉、葉玉ねぎの緑色の部分を混ぜ合わせる。味付けはコンソメだ。
その間に、塩胡椒を混ぜた小麦粉を鰆の切り身にまぶす。別のフライパンにも油を引いて、温まったのを確認すると入りきる分の鰆を入れた。火の通りは早いので、片面がこんがりきつね色になったところでひっくり返す。焼きあがったものはバットに移して置いておいた。
「っと、まあこんな感じで進んでいくよ。……和子ちゃん大丈夫?」
「……あ、はい、大丈夫です。すごく手際いいから、……私も出来るのかな」
「料理は経験値だよ。まあどうしても駄目だって人もいるけど、大抵はやれば慣れるものだから、心配しなくても大丈夫。最初のうちは私が隣にいるところでしかやらせないから、ね? とりあえず、先にこの出来上がったのをパック詰めするから手伝ってもらってもいいかな。これが少なくなってきたら次また作るから、そのときは和子ちゃんがやってね」
「……頑張ります」
ちょっと表情をこわばらせた彼女に、大丈夫だから、ともう一度声を掛ける。さて、と切り替えてパックを一つ手に取ると、お手本、と肉野菜炒め、鰆のムニエル、いつもの、の三種類それぞれを詰めた。
和子ちゃんはいつもの、よろしくねと頼んで、私が肉野菜炒めと鰆のムニエルを担当する。いつものは毎日変わらないので、まず覚えるなら定番のこれだろう。
何度も確認しながら和子ちゃんがパック詰めしていく横で、ぱぱっと終わらせると数個持ってケースに入れる。時間を確認して板をひっくり返すと、きちんと詰められていることを確認してから和子ちゃんにふたを閉めるように指示をして、店頭に並べた。
「うん、大丈夫そうだね。じゃあ、少しレクチャーしようか」
「……よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくて大丈夫だって! 簡単だから、野菜炒めからにしよう。家庭でもある野菜と肉を炒めるだけだしね」
よしまず火を点けて油を引いて、油の表面が揺らいでるかなってところで肉を入れる。先に肉を入れた方が火を通しやすいし、野菜って水分が出るから多少焦げ付いても落ちやすいの。
「……先に肉なんですね」
「うん。逆にやってたりした?」
「……はい。というか、どっちからか分かんなくて、ばらばらで。先に肉入れても、火が通らないうちに野菜入れたり……」
「手順の問題かな。きちんと順番覚えるとこれが基本になったりするから覚えておくといいよ。応用も利くようになるしね。あと、これはおいおい覚えていけばいいけど、鶏肉は皮から先に焼く、魚は身から焼く。鰆あるからあとでやろうね。理由は忘れちゃったけど、『鶏皮魚身』って言葉があるんだよ」
「……昔の人の知恵ですかね?」
「そうかも。結構先人たちはいい言葉を遺してるから、言うことはよく聞くようにしてる」
私の言葉に、和子ちゃんがくすりと笑う。嗚呼ちゃんと笑えるんだと少し安心しながら、私は次の指示を出した。
一時まではいられます、と言ってくれた和子ちゃんに甘えて、閉店まで手伝ってもらった後。
お昼はどうする、と尋ねると、近所の人が食べてきていいと言ってくれたらしい。帰ろうとする彼女を引き止めて片付けまで手伝ってもらった後、私は和子ちゃんの自分で作った肉野菜炒めを皿に盛った。
「食べて行きな? 賄いってことで、ただでいいから。というか、和子ちゃんが作ったものだし」
「……でも、悪いです」
「元々言い出したのは私なんだから、気にしないで甘えてくれると嬉しいかな。それに、ちゃんと食べることも勉強だからね」
勧めると、少し躊躇いながらも和子ちゃんが畳の床にぺたんと座り込んだ。そういえばと座布団を差し出して、二人分のおかずとご飯、それから手早く沸かしたお湯でお吸い物を作る。薄く切った玉ねぎを放り込んで味を調え、火が通れば終わり。妹用に買ってあったお椀に汁をよそって出すと、和子ちゃんがすごい、と呟いた。
「え? なんて?」
「……こんなにすぐできるものなんですね」
「嗚呼、これ? まあ沸かしたお湯を顆粒だしと醤油で味整えて具材入れるだけだから。慣れればこんなもんだよ」
「……習うより慣れろ、ってやつですか」
「まんまそれだね。私も親の見て育ったというより、小さい頃から親にあれはこうしてこれはこうして、ってこっちが主体で教えられてたから」
決して料理をしない親だったわけではないのだが、物心つく前から包丁を握っていたらしい。やりたい、と言ったからやらせた、と母親がしれっと言っていたが、四歳にもならない子供に本物の包丁を持たせて料理をさせる親も親だろう。そのおかげで、こうして料理の道に進んでいるわけだが。
それを言うと、和子ちゃんは目を瞬かせて、もう一度すごいですね、と呟いた。あまりにも実感のこもったその呟きに、自分のことながら思わず吹き出す。無言で硬い表情になった和子ちゃんの頭をそっと撫でると、食べようか、と箸を差し出した。
怖がらせてしまった、らしい。まだ、立ち直っている最中だ。急かすのは逆効果、ゆっくり見守っていかなければならない。とりあえず、唐突に笑い出すのは控えた方がよさそうだと心の中で呟いて、私は和子ちゃんより先におかずへと箸をつけた。
それを見た和子ちゃんが、恐る恐る自分の作った肉味噌炒めを口に運ぶ。そっと様子を眺めていると、硬かった表情が解けて、ほっと息を吐いていた。
「……どうだった?」
「……あ、え、と。……私でも、ちゃんと作れるんだなあって……」
「ふふっ。誰でも作れるよ。そのために教えているわけだしね」
だから上手になってもらわなきゃ、という言葉はプレッシャーを与えるだけになる気がしてやめた。
「おばあさん、お昼もご近所の人が面倒見てくれてるの?」
「……はい、今日は。とりあえず今日の様子で、また変えていこうか、って」
「この辺りの人気さくだからね。最初驚いたでしょう?」
「……最初は、全然話せなくて。今でも、まだ少し」
怖い、と零した和子ちゃんは、暗い表情を隠さない。それでも、それが進歩なのだとご両親が言っていた。泣き言ひとつ言わずにいて、初めて言った泣き言が転校だったのだと。だから、泣けたことも、こうして素直に怖いと言えていることも、ものすごい進歩なのだと。
それが進歩だということを、私はよく知っている。だから、心を開きかけている和子ちゃんがまた心を閉ざすことのないように。私は裏から、少し支えるだけ。
「大丈夫、そのうち慣れるよ、この町に」
「……そう、ですよね。そうなればいいなって、私も思います」
「そっか。……それで、どうする? 次からもこの時間まで残ってご飯食べて帰る? それともおばあさんの分もお弁当持って帰る? お昼の時間には少し遅くなっちゃうけど」
「ううん……ちょっと相談してみます。でも、お弁当持って帰りたい、です」
「わかった、じゃあそのつもりでいるね。次は明後日か、今日みたいに入ってくれて構わないから。よろしくね」
片付けようとした彼女から食器を奪うと、おばあさん待ってるでしょ、と笑いかける。躊躇いがちに頷いた和子ちゃんを、私はそう言って送り出した。
手早く片付けを済ませ、買い出しをしなくてもいいことを確認してから布団に潜り込む。今日は仮眠をとったからまだよかったが、流石に慣れたとはいえ疲れるものだ。いつもと環境も少し違ったし。
でも、教えるのは楽しかった。出来るんだ、と楽しそうにしている和子ちゃんを見るのは、とても。
明後日は何を教えようか。その前に明日のメニューだが。そういえば、明日また実家から野菜が届くと言っていた。大体週に三回前後、弟が適当にある野菜を送ってくれている。店を通さないから価格も安く抑えてもらっていて、ほぼ原価。その代わり、休みの日は農作業をしに帰ることもしばしばである。
両親とも実家が農家なので、昔っから野菜は身近な存在だった。当然それに付随する土や虫も。同い年の女性たちよりは断然得意だと私は胸を張って言える。
それでも、私がこうして料理の道に進んだのには、親が小さい頃から料理をさせてくれていたことだけではなくて。もっと他に、どうしようもないくらいの後悔が隠されているのだということは。
当分の間誰にも言うことはないだろうなあ、と思いながら、私は素直に眠りに落ちた。
***
そうして何回か講習を重ねた、ある日の朝九時半のこと。
「坂井さん坂井さん! おばあちゃんがご飯食べてくれました!」
「えっほんと!? よかったねえ和子ちゃん!」
来て早々に嬉しそうに報告してきた和子ちゃんに、私の眠気も吹っ飛んで思わずその手を取る。少し驚いた様子は見せたものの、満面の笑みを見せる彼女はすぐに大きく頷いた。
「坂井さんのお陰、です。あのとき、声かけてくれてありがとうございました」
「いえいえ。元はと言えば、和子ちゃんのおばあさんがここを気に入ってくれてたからこそ、だし」
「……それでも。……私、少し変われた気がします」
ここに来て、坂井さんと会って、料理教わるようになって。
「本当に、少しずつ、ですけど。でも、何も言わなかったけど、おばあちゃんがご飯食べてくれるようになって。今までは、正直私なんかいていいのかなって思ってました。おばあちゃん、私のことほとんど気にしてなかったし。でも坂井さんがいて、ご近所さんがいて。ちゃんと私でも役に立てるんだな、って」
うん、と頷いた。和子ちゃんが、必死で言葉を紡いでくれている。
「だから、ありがとうございます。……でも、これからも、よろしくお願いします」
「勿論」
大きく頷くと、和子ちゃんが安心したようにふわりと笑った。
最初は、会話をするのにもワンテンポ遅れて話し始めていた。それが、まだ時々遅れることはあるものの、少しずつ普通に会話をすることができるようになってきている。きっとまだ表に立つことはできないけれど、少しずつ、でいいのだ。そうやって少しずつ、実際に変わってきているのだから。
これからも、その変化を見守っていけたらいい。大丈夫、君は一人じゃないと、伝えていけたらいい。
時計を見るともう十時近くになっていて、二人で慌てて支度を始めた。
「和子ちゃんまたそこ葉玉ねぎと豚肉の味噌炒めよろしくね!」
「……はい!」
慣れたように和子ちゃんが野菜を切っていく。ぎこちなかった最初を思い出しながら、成長したなあと思わず笑みを零すと、私も隣でだし巻き卵の準備に取り掛かった。
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