第5話 瞑想
第五幕 瞑想
一 禅寺の一室
禅寺の部屋の中にA太郎がいる。
A太郎は、畳の上で結跏趺坐し、半眼となって禅を行っている。
ただ、足をもぞもぞし、上体が微妙に動いている。
A太郎 (独白)足がしびれてきた。あとどれくらいで参禅が終わるのかな。早く終わらないかな。なにしろ、足はしびれるというかもはや感覚がない状態だ。もともと俺はからだが固いんだよね。それに、無念無想というけれど、頭の中では妄想ばっかりしてしまう…。さっきは、昔俺を振った女のことを考えて、また不愉快になった。だいたいなんなんだよあの女! 頭の中は空っぽで、価値の基準は世間で流行っているかどうかだけ、取り柄といえばちょっとスタイルがいいって程度。話すことといえば、六割が自慢話で、三割が他人の悪口ときたもんだ。こっちが我慢して付き合っていてやっていたのに、ちょっとちやほやしてくれる男が現れた途端バイバイだからな…
思いだし笑いという言葉はあるが、思いだし不愉快というものあるんだな…。ああ不愉快だ、不愉快だ。不愉快といえばストレス、ストレス発散といえば何だ? ストレス発散といえば、やっぱり食い物かな…。ラーメンなんか食べたいな。東京都新宿区新宿五丁目三の五四の電話番号〇三‐四九四八‐二二一八のラーメン一太郎の塩ラーメンなんかいいよね。いや、やっぱり埼玉県春日部市中央九丁目五の九七の電話番号〇四八-五九二〇-四一五八の大龍軒の醤油ラーメンの方がいいかな…。それとも酒かな。そういえば、大吟醸と称しても、醸造用アルコールが添加されているものがあるらしいな…。どうせなら、混ざり物のない、純米大吟醸でいきたいものだね。最近手に入れ難いと評判のあれなんかいいな…。なんていったかなあれは、「ダッセー」、だったかな、「ダサイ」、だったかな。あれ、こんな事じゃだめだ…。まず、呼吸に集中するんだ。教えられた通りにね。鼻からすって、ゆっくり鼻から吐く。そらもう一度、鼻から吸ってー、吐いてー。吸ってー、吐いてー。
うーん、呼吸法をやってみても妄想は止まらないなあ…。また坊さんにバチンとやられちまうよ。しかし、なんか妄想に耽ると楽しいような気もするんだな…。これが潜在意識の世界で遊ぶということなのかな。妄想の中ってのは、唯一の完全なる自由の世界だからな。この世界ではどんな夢を見てもよいし、どんな夢も実現可能だ。そして誰にも邪魔されることはない。考えてみれば、この世界こそ俺が求めていたものなのかもしれないな…。なにしろ、妄想の中ではあらゆる幸運に恵まれることが可能だからな。「すべてがあなたの思いのまま」。気の利いた言葉じゃないか…。問題なのは、妄想も無限に続けることはできないことかな…。結局、腹が減ったり、暑かったり、寒かったり、トイレに行きたくなったりで現実の世界に引き戻されてしまうからな。
禅僧が現れる。
禅僧が警策でA太郎の肩をぴしゃりと打つ。
(暗転)
二 禅寺の一室
寺の部屋のなかで、A太郎は、禅僧と向き合って座っている。
A太郎 今日は、禅について教わりに来ました。
禅僧 あなたはなぜ禅に興味を持ったのですか?
A太郎 実は、以前キリスト教会とか、川溝会とかに行ったことがあるのですが、どうもなじめなかったり、お金を取り上げられそうになったりしたのです。その点、禅なら、金をとられたり、わけわからん神を信じたりしなくてもよいのではないかと…。それに、日本人は古来から仏教を信仰しているわけではないですか。そんなことで、このあたりで一番歴史のある禅寺にいって、修行させてもらおうかと…
禅僧 禅とは言葉で言い表せるものではなく、実際に体験し自らが悟りを開くものであることはご存知かな?
A太郎 一応、承知しております。ただ、私のような入門したてのものは多少知識があった方がよいのではないかと思いまして。
禅僧 それではまあ質問してみなさい。
A太郎 なぜ、人間は仏教に救いを求めるのでしょうか?
禅僧 あなたはなぜここに来たのですか?
A太郎 それは自分の人生にろくなことがおこらないからですかね。
禅僧 それが答えですよ。釈尊は、生きることは一切皆苦であると教えています。つまり、貧乏や病気はもちろん、愛欲や出世欲などすべてのことが苦しみの原因となるということです。
A太郎 例えば、理想の女の人の話でですね、第一に顔、第二に性格、第三に知性、その上に財産、というすべての面で申し分ない妻がいることも苦しみなるのですか?
禅僧 人間はあらゆることで苦しむのです。妻が自分から去ってしまわないか、病気にならないか、容色が衰えはしないか。あるいは、子供が生まれたらその子はなぜか隣人の男に似ているかもしれない。人間はすべての事象、すべての事柄について苦しむものなのです。
A太郎 なるほど、そうかもしれません…。しかし、人間は裏切るかもしれませんが、金とかモノは人を裏切らないのでは?
禅僧 もしかなりの金を得たとする。そうすると人はそれを失うまいとする。金庫を買ってみる、監視カメラを付ける、警備会社と契約する、銀行の貸金庫を借りる、さらには誰も信じられなくなって、友人を疑う、家族も疑う。つまり、金やモノを持てば持つほど心配の種が増えることになる。人は人を裏切るから裏切らないといわれている犬を飼うとする。むろん犬は通常は忠実でしょう。しかし、犬も病気になるかもしれない、迷い犬になるかもしれない、それに寿命が人間より短いわけだから、結局最後はペットの死ぬところに立ち会わなければならない。それに、飼い犬に手を噛まれるということもある。結局、人は苦から逃れるということはできない。
A太郎 ははあ、そういわれればその通りかもしれません。人って、心配や悩みから逃れるためにいろんな方法を考えますよね。いろいろですが、映画やら音楽やら詩とか小説とかなんかもその中に入るかもしれませんね。例えば小説ですけど、実際読んでみると、自分のダメさ加減をいろいろ書いて、自分に似たようなダメな人間に共感してもらったり同情してもらったりするものが多いような気がします。そして共感や同情してもらうことで満足を得る。妙な話だけど、女におぼれる、酒におぼれる、不倫をする、ばくちをする、友人を裏切ってみる、借金をする、夜逃げをする、そういった生活がなにか充実した波乱万丈の人生であり、ブンガク的、ゲージュツ的な生き方だというものの見方があるようですね。一方、読者も似たような人間がいることにホッとする。
まあ、小説の世界では、作家は世界を創造する神の役割をするわけですからね。読者も、登場人物のドタバタぶりを高みの見物するわけです。それで、どこか優越感みたいなものを味わうわけですよね。登場人物がいかに苦しもうとなにしようと、読者には直接何がおこるわけでもないわけですから…。結局、優越感というものは社会の中で凡俗な人間がなんとか生きていく上で必要なものということでしょうか?
禅僧 優越感というものも苦しみの原因です。人はよく劣等感に苦しめられることがありますね。それは他人と己を比較する作用から生じる感情です。つまり、劣等感を感じるときは比較という作用がそこに介入している。同じように優越感というものも比較という作用があって生じるものです。つまり、人との比較という作用を維持する限り、人は優越感も持つかもしれないが、必ず劣等感も持つのです。結局、あらゆる感情、あらゆる価値観が苦しみの原因となるのです。この一切皆苦を知ったものは、その状態から逃れたいと思うでしょう。そこから脱することが解脱なのです。
A太郎 師よ、解脱するには、禅以外に方法はないのですか? 同じ仏教でも、例えば念仏を唱えればよいとかいうようなところもあるようですが?
禅僧 (怒気を含んで)あなたはいったい何者か。無知であるのに、ダルマを問答せんとする者は! 念仏を唱えたからといって解脱できるわけがない。単なる気休めである。
A太郎 ははあ、左様で…
禅僧 人間というものは、さまざまな疑問をもちます。人間は生まれる前はどういう状態であったのか、死んだらどうなるのか。これは誰でも一度は考えたことがあるのではないですか? それから、生きているとはどういうことか。人生はすべて夢のようなものなのか。あるいは、実は自分はどっかで眠らされていて、なにかの装置で自分の意識も操作されているのかもしれない。SF小説みたいにね。このように次から次へと疑問が湧き上がってくるわけです。しかし、いままで、いかなる哲学もこれらの疑問すべてに答えたことはないのではないですか? もちろん、それらの問いに対して一定の答えを出すということはあったかもしれません。ただ、その答えに対してまた疑問が出てくるのであって、疑問が尽きるということはない。
A太郎 はあ…。それで、禅は答えをもたらすのですか?
禅僧 西洋哲学は論理で問題を解決しようとする。その結果、問題は問題を生み最終的解決はありえない。それはまさに論理である。これに対し、禅は問題を対象化しそれを論理で解決しようとするものではない。問題を対象化するのではなく、問題そのもののなかに真理を見出すということです。
A太郎 よくわかりませんが…
禅僧 西洋的な発想では、自我と外界を分離し、二元的に捉えるわけです。自分というものがまずあり、外界に対象物がある。その対象物を自我の尺度で分析し評価する。しかしこれでは問題は解決しない。評価すべき対象物は無限にあり、また変化する。一方で自我というものも絶えず流動する。禅は、問うものと問われるものを分離せず、問うているものを内在的に体験として解決するというものなのです。
A太郎 師よ、とても今の私にはわかるとはいえません。ただ、禅をすると本当の解決がみつかるということですかね…。ところで、禅によって自分が解脱するのはよいが、他の人たちはどうなるのですか? その辺がよくわからないのですが。それと、社会のなかで人は他人とどうかかわるべきかを何も積極的には教えてくれないような気がするのですが。
禅僧 よいですか、人は解脱の段階に達すると自然と慈悲心というものが心の中から湧き上がってくるのです。その慈悲心が、教えを伝える原動力となるのです。
A太郎 ところで、解脱と慈悲心の発生はいかなる論理的つながりがあるのでしょうか?
禅僧は黙って何も言わない。
(暗転)
三 禅寺の一室
A太郎は禅僧と向き合って座っている。A太郎は必死の面持ちで禅僧に問いを発する。
A太郎 生まれる前、私は何者だったのでしょうか?
禅僧、ハエたたきを立てる。
A太郎 私がいる現世とはいかなるものでしょうか?
禅僧、ハエたたきを立てる。
A太郎 わかるように教えてください。
禅僧、ハエたたきでA太郎の頭を叩く。
A太郎は情けない顔をする。
禅僧 あなたは何もまだ掴んでないようですな。禅は体得するものであり、言葉で説明できるものではないが、ひとつ話をして進ぜよう。昔高名な禅僧がいて、ある人がその禅僧に会ったそうです。その人が禅僧に会ったとき、禅僧は手に何かをもっているような格好をして縁側に座っていたそうです。その客人が禅僧にいったい何をそこでしているのかと問うたところ、禅僧は釣りをしているのだと答えたそうです。庭には池もないし、そもそも禅僧は釣竿ももっていない。禅僧は何をもってそれが釣りだといったのか客人にはわかりかねたそうです。
A太郎 携帯で釣りのまねごとをするゲームならあるようですが…
禅僧 当時は携帯もスマホもなかったと思いますがね。それでは、あなたは宇宙のことを考えたことがありますか? おそらく誰でも宇宙は無限なのか、あるいは果てがあるのかというようなことを考えたことがあるのではないですか? 今の物理の世界ではこの世で最も速いものは光であるといっているようです。一方、宇宙は半径約四五〇億光年とかの広さがあるといわれているようです。あくまで一つの仮説ですがね…。そうすると、光速で進んでも中心点から宇宙の端まで行くのに約四五〇億年かかるという計算になる。これも光速で進めたらの話ですがね。しかし、誰でも宇宙の端について観念をめぐらすことができる、つまり観念の世界では一瞬にして宇宙の果てまで行くことができる。この速さを念速というとすると、念速は光速より速いということになる。まあこういうような考え方もできるということですな。
A太郎 どういうことでしょうか…
禅僧は黙して語らず。
A太郎が僧に礼をしてから部屋を出ると、数名の僧が祈祷をおこなっている。
僧たちは、リズミカルに木魚と太鼓をたたく。
途中でお経をピシリ、ピシリと机に叩き付けながら、お経を唱える。
(太鼓の音)ドンドコドンドコドドンコドン、ドドンコドドンコドンドコド、ドッドドットドドンコドンドン、ドドンコドドンコドンスカスカ、スカスカドンドンドンスカスカ、ピシピシドンドン、ドンスカスカスカ、ドドンコドドンコスカスカドン、ピシピシスカスカドンドコドン、ドンドンドンドンドンドンドンスカ、スカドンスカドンドドンコスカスカ…
A太郎はそれをしばらくぼんやり見つめ、去っていく。
(暗転)
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