第四話 カワエヤ会戦~衝突

「ヌイ殿!」


 そう呼んできたのは、斥候を担当している将軍であった。


「何でしょうか?」


「ヌイ殿が定めた範囲を索敵してきた斥候からの報告書です」


 その将軍はそう言って一枚の書類をヌイに渡す。

 それを受け取ったヌイは、走り書きで綴られたそれを注意深く読んだ。


『森の裏側にて敵軍発見す。

その数八万、うち戦象六頭を確認。

現在森を北へ迂回して来たり』


 ──動き出したか……


「その斥候には報酬を与えてさしあげなさい。

そして全軍を西門前に集結させるよう将軍達に」


「はっ!承知致しました!」


 その将軍は気勢よく返事し、軍議室を去った。

軍議室にいるのはヌイ一人だけになる。


「夢じゃないんだよな……」


 彼は天井を眺めながらそう呟いた。


「俺が六万の大軍を、か……」


 集結が完了したと知らされるまで彼はずっと天をあおいでいた。



 ヌイはカンチャーを囲む壁の上に立っていた。姫スリーヤと共に。

 彼の目前には六万の紅の鎧を身につけた大軍が構えている。

彼らは沈黙を貫いていて、彼らの総指揮官の言葉を待っている。


 正直ヌイは緊張していた。六万の眼光に心臓がえぐれそうなほど。

後ろで握っている拳が小刻みに震えている。

落ち着き払った顔を保つだけで一杯だ。


 ──落ち着けチェンマット……


 彼はそう心の中で唱えた。何度も何度も唱え……

彼の覚悟は確かなものとなった。


「今現在! ウグーの八万の兵が、北西からこちらに向かって、我が固有の領土を侵攻している!」


 ヌイの『八万』という言葉に兵たちはざわめいた。

 それを気にせず、ヌイは続く。


「対し我々は六万! 数では負けている。

 だがしかし! 我々は勝つ為の準備をしてきた! 違うか!」


 そのヌイの呼びかけに、しばらくしてから兵の一部から喚声かんせいで応えられる。

それに釣られて兵たちの半分ほどが叫んだ。


 だが、残った半分の兵たちはまだ恐怖を顔に示していた。

 ヌイは六万の兵のうち半分がしっかり訓練を受けていて、残り半分は徴兵して間もないと聞いている。きっと彼らであろう。


 兵たちの叫び声が止むまでヌイは待った。

意外とずいぶん長い時間がかかった。

 そして続ける。


「我々はここに至るまで敗北を重ねてきた……

 だがそれは昨日までだ!

今日という日は我々セーン民族が、いかに強い民族であるか! それを証明する日だ!

 セーンの国の為に尽くせ! さすれば諸君らの英霊は、永久にセーン民族に感謝されるだろう!

 今日は敗北主義を切り捨てよ! そして勝利を掴もうぞ!」


 そう告げると兵たちが叫び声を上げた。新兵たちも次々を拳を振り上げ、ヌイに向かって叫び始めた。


 ──『国』や『民族』って便利な言葉なのかもしれないな……


 ヌイはその程度に考えていた。


 セーン民族とは、ユッタヤー王朝の大半の国民を指している民族だ。

ちなみに北の隣国もセーン民族の国であると聞く。


 兵たちの士気をどうたかぶらせるか考えてきたけど、これ以外に兵たちを発火させる言葉が見つからなかった。

でも効果は絶大だったようだ。


 兵たちが叫び声が終わる前に、小さな声でヌイがスリーヤに言う。


「殿下、次を任せました」


「ええ、ありがとう。ヌイさん」


 そうするとスリーヤが一歩前に出る。

 それと同時に兵たちの喊声が止んだ。


「これまでに、たくさんの兵たちが、この国の為にその命を尽くしました……

 彼らの英霊が我々に加護を下さるでしょう!

 待ちに待った時が来ました!

多くの英霊達が無駄死にでなかったことの証のために!

再びセーンの威光を照らすために!

かの地にて勝利を刻むのです!」


 スリーヤの呼びかけに、六万の兵たちが一斉に叫び出した。

ヌイが兵らの士気がまとまったと感じた瞬間である。


 兵たちの喊声が静まり始めた頃、スリーヤはその口を開く。

 彼女が口にしたのは、演説ではなく、歌だった。

彼女がまるで弦楽器を奏でているように美しい地声で歌っているのは、愛国歌だった。


 兵たちは最初、驚きを顔に示した。

 ヌイはこれを好機に捉え、彼女に合わせて歌い出す。

その次に将軍たち、そして兵たちが次々に加勢した。

やがては六万の声が愛国歌をカンチャーに響かせた。


 ──象の旗をはためかせる神風は、山を、森を、海を、空を越えて我々に息吹く。我々はセーンだから、かの神風は我らの盾となる。我々が団結すると、待ち望んだ日は明日になる……


 そして兵たちは最高の士気で、カンチャーを出発した。



「あれが敵か……」


 ヌイは紅の陣営の先頭で、遠くのウグー軍を眺めていた。彼らはこちらに向かって進軍している。

 彼らの背景には、快晴といっていいほど清々しい青空が構える。


「もう近いですね……」


 そう返したのはマーヒンだった。二人は馬に乗っており、ヌイが後ろに座っている。


「配置につきましょうか」


「そうですね」


 マーヒンが馬頭を返し、後方の幕舎に着いた。

 その円卓の上には、この辺りの地形を示す地図、そしてその上に両兵力を表す駒がある。


 ユッタヤー軍は五万五千をカンチャーの西の平野に布陣、五千をカンチャーの西門に残している。

中央の本隊には三万、両翼に一万、後方の予備兵力として五千を配置していた。

 積極的に斥候を回したが、西の八万以外に報告がない。恐らく別動隊は用意されていないだろう。


 幕舎で将軍たちが円卓を囲む中、ヌイは最後の確認を行っていた。


「衝突したら、まず両翼が前進、その次に中央が《電撃ファローン》で敵の中央をえぐる。

そして敵の統率が崩壊したらカンチャーの五千が敵の背後を突く。

敵が一度滅茶苦茶になれば、我々の勝ちです」


 各将軍が「はっ!」と気勢の良い返事を返し、それぞれの位置へ向かった。

 ヌイもそうしようとしたが、そこをヨーシフに呼び止められた。


「何だね? そも《電撃》とやらは?」


ヨーシフはこれまで軍議にあまり出席していなかった。

ゆえに、ヌイの新しい戦法を知らずにいた。


「私が編み出した、戦象チャサークと軍馬を駆った戦法です。

 雷のように迅速で、鋭い攻撃、名付けて《電撃》でございます」


 それを聞いたヨーシフは皮肉めいた笑みを浮かべた。


「ほう……

 君の戦法とやらを、拝見させて頂くとしよう」


 ヌイがそれに返事するや否や、ヨーシフが馬で自分の位置へ向かった。

 一度頭を掻き、ヌイも動きだそうとした時である。


「ヌイさん、馬は無いのですか?」


 そう問いかけてきたのは、馬上のスリーヤである。


「ええ、馬を操れなくて……」


「ならば乗りなさい」


 そう言ったスリーヤは不敵な笑みを浮かべた。

 まずヌイから出たのは遠慮だった。


「そんな飛んでもない……」


 それにスリーヤが笑いかけた。


「だったら、何の為に私があなたを迎いに来たと思っていますの」


 それに思わず「えぇ……」と呻く。

彼女の親切さにありがたさを感じたが、躊躇いもあった。


「さあ、さっさと乗りなさい」


 負けたのはヌイだった。彼女の馬に手をつける。


「……お気遣い、感謝します」


 ヌイはスリーヤに運ばれて、ヌイは中央部隊の後方で構える。


「……大きいですわね」


 接近してきたウグー軍を見て、スリーヤはそう感想を口にした。


「戦は初めてですか?」


「ええ……」


 その声は震えていた。

 それにヌイは元気付けようとする。


「大丈夫ですよ、きっと」


 そして返ってきたには言葉ではなく、左手から感じるスリーヤの手の温もりだった。

理由はなく、ヌイはそれを強く握り締める。


 ──この女性は強い、とても……


 彼女がカンチャーで行った演説を聞いてから、そのことを意識するようになっていた。

 一国家の姫を担うことはいかに負荷が重いことか、ヌイには想像できないくらいに大きいだろう。

それを背負う彼女の背中は、不思議と大きく見えた。


 ユッタヤー軍が静寂を過ごす前で、ウグー軍は進軍を止めた。

その距離は、矢が届くか届かないかの境目。

 その八万という規模を目の当たりにする兵たちはその拳を震えさせていた。


 するとウグーの軍勢の中から、五人の兵士が飛び出してきた。

彼らはユッタヤーの軍勢の前に並び、訛りのあるセーン語で斉唱した。


「これはウグー王朝の、タビシュエン王より頂いた言葉である!

 貴様らの敗北は明らかである!

 降伏を許そう!投降する者は、これから栄えるウグーの民として地位を認めよう!」


 彼らの斉唱の後に、再び沈黙が現れた。


 ──ウグーの民、という名の奴隷か……


 そのことは明らかであった。

 ただ、ユッタヤー軍の士気を下げる要因には十分すぎるほどだ。


 だが不意に、スリーヤがその沈黙を破った。


「あなたたち、復唱なさい」


 周りの兵たちがスリーヤの方を向いた。

あまりにも唐突で、彼らは驚く。

それでありながらも、彼らは姫の言葉を待った。


「これは、ユッタヤーの姫スリーヤの、直接なる返答だ」


 兵たちはその喉を潰すぐらい大声で復唱する。


「我々セーンは、貴様ら下等なワンター民族の下僕などになるぐらいなら、ここで首を斬って死ぬ覚悟ぐらい出来ている!」


 その過激な言動に、兵たちは困惑を隠せなかった。

それでも絶えずに復唱する。


「だが我々は死にに来たのでは無い!

我が固有の領土を、野蛮ながら侵略する無礼者を、己の剣で!

その命を断ち切りに来た!」


 スリーヤの後ろに座っていたヌイは顔に驚きを隠せなかった。

 彼女の目は至って真剣であり、その奥には炎が激しく燃えさかっているようにも見える。


「我々は戦おう!

ユッタヤーの領土の、一握の砂を奪い返すまで!」


 兵たちが復唱を終えた瞬間に、ユッタヤー軍が喚声を吹き起こす。

その喊声は兵らの恐怖心を吹き飛ばし、その心に情熱を宿した。

 ヌイは機が熟したと見て、側に控えている伝令兵に告げた。


「全軍に連絡、『前進、矢戦に入れ』と」


 伝令兵は気勢の良い返事を返し、その仕事を完遂しに行った。

 次に、ヌイは中央部隊の指揮に入る。


「中央部隊、前進せよ!」


 そのヌイの言葉に応じて、各小隊長が前進の命令を下した。

 しばらく経つと、中央部隊の前方に配属されている伝令兵がヌイに報告した。


「──将軍から伝達! 敵の射程圏内に入ったとのことです!」


 ──いよいよか……


 ヌイは落ち着き払い、伝令兵に指示を与える。


「──将軍に伝えよ! 予定通り中央部隊を二分割する! それと、両翼に突撃せよと!」


 命令を課せられた伝令兵は馬を走らせた。


 ヌイは中央部隊は矢戦を防御で凌ぐことにしている。

矢の圏内に当たる前方部隊には戦象や騎兵を配置してあり、彼らを失うと《電撃》が成立しなくなるためだ。彼らを早めに敵に接触させたら、その分だけ矢戦はは早く終わる。

 故に前方と後方を分割、前方は矢の雨をくぐり敵に接触、後方は盾を天に掲げて防御に徹するようにした。


 しばらく前進していると、ヌイは遠くの青空に何かの影が閃くのを確認した。


「矢戦防御!」


 そのヌイの号令で、中央後方部隊は一斉に盾を天に向ける。

ヌイも近くに控えていた側近そっきんから盾をもらい、それを天に向けた。

 その時、ヌイは一つ違和感を覚えた。


 ──どうして俺は姫殿下の分までかばっているのだろうか……


 スリーヤが自分の盾を持っていなかったため、ヌイが無意識に盾でかばっていた。

そしてその時になって、初めてスリーヤに護衛がついていないことに気がつく。


「……殿下」


「何でしょうか」


 盾の下、背中越しでスリーヤが答えた。

その声は明るい。


「護衛はどこに……」


「中央部隊の最後尾に、私の戦象と共に構えていますわ」


 スリーヤは何事も無いかのように答えた。

後ろを向いたその無邪気な笑顔が、太陽に照らされ輝く。


 それにヌイは思わず溜息を吐く。

スリーヤの身に何かあって、ヌイの責任問題になることは勘弁だ。


「……殿下、後方部隊が前方と合流しますと、私は前線に向かうことになっております。

 どうか危険をお避けに──」


「お断りしますわ」


 スリーヤは後ろを向いてヌイに笑いかけた。


 ──困った人だ……


 ヌイがそう思ったその時である。

 前の方から鉄が打たれる音がした。

それに続き、矢の夕立が重い音色を奏で出す。

そこに、時に悲鳴が割り込んでくる。


 矢戦の始まりである。

 敵の矢の集中域からやや後方のため多少勢いは小さいが、不幸に目を付けられた者は矢に盾を貫通され命を落とした。

でも被害は二十人ほどで済んだ。


 そして矢の雨が止んだのは、前方部隊が敵と接触したことの合図だ。

 それを認めたヌイが号令をかける。


「防御やめ!」


 兵たちが盾を下ろした。

彼らは剣や槍に持ち換え、静かに敵の軍勢を睨んでいる。


 そしてヌイは腰の剣を抜き、前方に掲げた。


「後方部隊、突撃せよ!」


 それに応えるように兵たちが喊声を上げ、走り出した。

後ろから聞こえる太鼓の鼓舞が兵たちの緊張を高めていた。

ユッタヤーの陣営にかかる熱気は、兵たちの士気を主張している。


 セーン民族の、反撃の兆しになろうとする戦が、ここに始まった。

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