第三話 前哨
軍議から三日後、六万の兵士たちが首都アユタを出発し、それから六日後にカンチャーに到着した。
そして順調にカンチャーの要塞化、および投石機などの運搬が進んでいる。
到着から十日が経つ、その日の昼のことである。
ヌイは、急ぎ足で組み立てられるカンチャーの防壁を眺めていた。
この壁は高さは長身の男三人ほどで、上から弓矢で迎撃できる設計になっている。
現地住民と首都アユタからよこした兵、そして政府が雇った大工などが協力し、十五日後に完成する予定だ。
四日後には男一人分の高さまで組み立つらしい。
そういう意味ではこの壁が防衛の効果をもたらし始めるのはその時。
そしてそれまではこの都市は裸同然だと思っていても良い。
──これで良いのだろうか……
ヌイは内心で困惑していた。
自分は前までただの歩兵だった。
そのはずが、なぜかこれだけの規模の人を動かす立場になっている。
これだけの規模の人が、自分を信じて動いていてくれている……
──考えすぎか……
「やあ、新将軍よ」
そうヌイに呼びかけたのは総指揮官ヨーシフだ。
「はい、何でしょうか」
ヨーシフは組み立てられている壁の方を向きながらも、ヌイに問う。
「君はこの壁から何を感じるのかね?」
「はい?」
ヌイはその質問の意図を理解しかねた。
ただ雑に答えてはならない、そんな雰囲気をヨーシフから感じ取っていた。
「出世、権力、地位……
誰もが欲しがっていたものを、君が手にした。それを、この壁が表していると思わないかね?」
「は、はぁ……」
思わず間抜けな返事になった。
ヨーシフがヌイにどのような反応を求めているのか、ヌイには分からなかったのだ。
「しかも姫殿下に気に入られる。私は君が妬ましいよ、とても」
──殿下には一度しか会ったことが無いのですけど。
ヌイはそう内心で返答した。
そう言われると、初対面の男をいきなり将軍に仕立てるあの姫もどうだろう。
そんな疑問が湧いた。
「そんな好調子な君に、さらなる出世の好機を与えよう」
ヨーシフがヌイの目を凝視した。
ヌイの奥までを透き通すような目で。
そんなヌイは嫌な予感を走らせている。
「君に、この六万の軍の、総指揮権を与える」
ヌイは絶句した。
その次に、ヨーシフに問う。
「閣下、冗談でしょうか……?」
それを聞いたヨーシフは声を出して笑った。
──やっぱり冗談か……
ヌイがそう思った時だ。
「閣下は君だ、ヌイ・チェンマット。
それでは武運を祈っておるぞ」
そう言ったヨーシフは素早く立ち去った。
──無茶な……
ヨーシフは自分の何を期待しているのだろうか。
そもそも、こんな成り上がったばかりの将軍に兵は従うのか、そこが問題でもある。
難題を突きつけられたヌイはその場に立ち尽くした──
◎
あれから十日が経つ。
壁は男二人分の高さを越え始め、それに沿う壕が掘り始められていた。
そんな中、ヌイは一人でじっと地図を凝視していた。
総指揮官に任命された時、ヌイは初めてこの問題を意識し、苦悩した。
すなわち、強力になるだろうウグー主力部隊の撃退だ。
その強力さはユッタヤーの現状が証明している。
正面衝突では間違いなく敗れるだろう。
──やはり無理か……
彼の目線の先にはカンチャーを囲む平野がある。
他に特徴という特徴が無いため、地の利を得ることは難しかった。
──そこにどんな陣形を組めば……
彼は歩兵だった時代の記憶全てを掘り返していた。
武力支援という形の遠征から、本土の防衛戦に至るまでの全てを。
そこで一つ思い出した。
戦闘の記憶から最も新しいもの。
翻弄された、そのイメージが彼を刺激させる。
──たしか戦象は七頭配備されていたよな……それに、騎馬隊は二千ほど……
それから彼の頭には、これまでとは違う新たな戦法が生まれつつあった。
気がつけば彼は紙にそれを書き出していた。
──これだ!
その日はもう夜を迎えていた。
◎
翌朝、ヌイは都市の外に象使い達を呼び出した。
「私が総指揮官のヌイ・チェンマットである」
そう高圧的に伝える。
相手に足元を見られては困るというヌイの試みだ。
「私は君たちに、特別な訓練をしていただく。これまでの象乗りとは全く違うことを念頭に置きたまえ」
まずヌイは、自らが編み出した戦法を象使い達に教えた。
「君らの技術と、象の能力では可能かね?」
「そんな……無茶じゃないですか!」
象使いの一人が反抗する。
それに応えるかのように他の象使い達が頷いた。
それに負けじとヌイは高圧的な態度を続けた。
そこまでして実行する価値がある、ヌイはそう確信していた。
「君らにとっては大変な仕事になるとは心得ている。その上で、可能かどうかを聞いている」
「可能です……」
ヌイは満足そうに頷いた。
これも象使い達が自分に従ってくれるための試みだ。
「ですが閣下!」
そう反発したのは、この中で最も年長の象使いだった。
「もし、その突撃先に象との戦闘になったら……」
「その時は、君たちの武勇が試されるであろう。何にしろ、四方が敵に包囲されている訳ではない」
まるで当然のことのようにヌイが告げる。
ヌイは内心で彼らに謝罪しているが、勝利のためには、と自らを納得させていた。
「そんな……私達は……」
「最悪、君たちは死ぬ。ただ、生きて帰ってきたものには相当な報酬を用意しよう。辞退するものは、そこらの歩兵と代わって頂く」
報酬という言葉に大半の者は苦渋ながらも納得した。
だが年長の者は最後まで抗った。
「無理でしょう!もし私が辞退したとしたら、そこらの歩兵ごときが象を操れるとでも!?」
「操れるようにすれば良いだけだろう」
これも当然のことのように、ヌイが即答した。
そんなヌイに、年長の象使いは息を呑んだ。
この若者に勝つことはできないと思い込み始めたのであった。
「……では、訓練を始めよう。昼過ぎには騎馬隊を混じえた訓練を行なっていきたい。真面目に取り掛かってくれたまえ」
ヌイがそう告げると、象乗り達が象の準備を始めた。
──まぁ、彼らの一人でも辞退すると、代えを用意するなんて不可能だろうけど。
大胆な嘘が、時には良い効果を生むとヌイは心得ていた。
それから象使い達が操る象は、ある程度走ると弾かれたように折り返す、という訓練を行った。
最初は象が転換の際に滑って倒れることもあったが、昼頃には完璧に行えるようになっていた。
そこからヌイは騎馬隊を呼び出し、三列の隊列を組んでその象を追尾する、という訓練も行った。
それを将軍たちや兵たちは、怪奇な眼差しで見守っていた。
太陽が沈み始め、訓練を終えると同時にヌイは都市に戻った。
そこを、無邪気な将軍マーヒンに呼び止められた。
「ヌイ殿!」
「な、何でしょうか」
正直ヌイは疲れて寝たい気分だ。
彼との会話も早く済ませようと思っている。
「さきほどの訓練は何だったのでしょうか?
住民たちは象の足音を耳の敵にしていましたが……」
──ああ、それは考えてなかったな……
そう考えつつもヌイは問いに答える。
「私が編んだ新たな戦法でございます」
それを聞くとマーヒンが興味深げな顔を示した。
「その戦法を、私に教えて頂いても大丈夫でしょうか!」
「いえ、まだ確立されたものでは無いため、右翼の指揮を担うマーヒン殿に混乱を生むわけにはいきません。明日の昼頃にでもお教え致しましょう」
正直、寝たいから、というのが本音だった。
「そうですか……それでは明日を楽しみにしています!」
そう言ってマーヒンが立ち去った。
──音が届かない場所でやるべきかな……
そう反省して、与えられた自分の部屋で寝た。
到着から二十五日目。
壁の大部分は完成しており、仕上げも今日で終わるそうだ。予定通りに事が進んだことにまず満足を覚える。
その次に、不信感を覚える。
──まだ来ないのか……
ヌイは
そろそろウグー軍が襲来してもおかしくない。
そもそも、壁を建設する二十五日間の間でも来る可能性は十分にあった。
──うん? ここは……
そうヌイが
その規模はかなり大きく、敵の主力部隊を隠すには十分であるのかもしれない。
次に斥候の書類を見る。
索敵する範囲は、半日の距離もなかったのだ。
そんな森の奥側までは探していないだろう。
ただ、その森に向かう補給車の目撃があった。
ヌイはもう一つの地図を出し、その森を中心に円を描く。
その地図を、斥候を管理する将軍に「明後日、この範囲を索敵せよ。決して準備が出来たからって今日や明日にするな」と言って渡した。
その将軍は興味深そうにヌイの渡した地図を見ていた。
斥候を出す時間をあえて明後日にしたのは、もし敵の主力が森に隠れていたとして、それを斥候に発見されたと知ると、わざわざそこに留まらないだろう。
その場合、敵がカンチャーに向かって進軍を開始する恐れがある。
そのためヌイは壁の建設が終わり、兵らの疲れがとれるよう二日後に決めたのだ。
──あとは待つ、だけかな。
そう思った時であった。
「ヌイ殿!」
そう呼びかけてきたのはマーヒンであった。
「何でしょうか」
「スリーヤ姫殿下がご到着になられました。お会いに行った方がよろしいかと」
──姫殿下が、か……
ヌイはそう感じ溜め息を吐いた。
自分の人生を滅茶苦茶にした女、そう捉えることも出来たからだ。
でも会いに行かないといけないのだろう、ヌイはそちらに向かった。
軍議室に入ると、そこにスリーヤ姫が座り待っていた。
「お待たせして申し訳ございません、スリーヤ姫殿下」
そのヌイの礼儀じみた挨拶に、スリーヤはにこやかに応えた。
「ええ、まったく良いのですよ、ヌイさん」
その言葉にヌイはやりにくさを覚える。
最高の地位と言っても良いぐらいの人物が、自分を「ヌイさん」と呼んでいる。
ここは言うべきだろうか。
いや、その必要はないとヌイは自分で結論づけた。
替わりにヌイはスリーヤに作戦を簡単に説明する。
「それで殿下が配属される位置ですが──」
スリーヤの彼女の象は左翼の後部に編成され、その左翼を指揮するのはヨーシフであることを伝えた。
「あなたの
説明を聞き終えたスリーヤの、第一言がそれだった。
そう問われたヌイは思わず「えっ」とこぼす。
「私はあなたの側にいることを希望しますわ」
ヌイはその真意を理解しかねた。
「それはどうして……でしょうか……?」
その問いに、スリーヤは控えめに笑った。
「あなたは私を救ってくれた人、そのため私の信頼があります」
──そう無邪気に言われても……
またヌイを滅茶苦茶にする気だ。
ヌイが位置するのは中央の本隊、そしてこの本隊こそが新しい戦法を起用する場所だ。
姫の安全を保障することはできない。
「……だめ、でしょうか?」
そう聞いたスリーヤは悲しそうな目をしていた。
──まぁ、後部に置いておけば問題ないだろう……
「ええ、大丈夫でございます……」
「ありがとうございますわ」
スリーヤが笑いながら感謝する。ヌイはまたまた躊躇いを覚えた。
「ところで、ヌイさんは将軍としてはなかなか優秀であると聞いています。それは本当なんですか?」
そう問われて、ヌイは軍議でヨーシフの作戦に反論してから今に至るまでを思い出す。
そして思わず「まぁ……」と苦笑気味に呻いた。
「それなりには……」
「それは素敵!さすが私を助けてくださった人なのですね!」
スリーヤはそう目を輝かせて食いついた。
初めヌイはそれに驚いた。
その後、スリーヤはヌイについて様々なことを聞いた。
ヌイが何かを話す度に笑顔を見せ、時には同情したりもした。
その時ヌイは思った。初めて会った時と、全くその態度が異なると……
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