琴菜

 十五分ほど走り続けて図書館にたどり着いた。入口の付近を見渡すが、子供の姿はない。大きく胸を上下させて呼吸を整える。運動不足のなまった体が悲鳴を上げていたが、一息つくとすぐに図書館の中にとびこんだ。すれ違った人たちにわずかに冷えた視線をむけられ、急く気持ちを押さえながら館内をくまなく歩く。


 三十分ほど館内を探したが琴菜らしき人物を見つけることができず、肩を落として外に出た。まだ到着していないのかもしれないし、すでに出たのかもしれない。昼過ぎに戻ると言っていたから、もうしばらくはここにいよう、と思いながら鈍色の空を仰いでいると、よく見知った人物がすぐ前を歩いていった。


「綾女ちゃん!」


 リボンのついた帽子をかぶって横断歩道を渡ってきたのは綾女だった。両手に何か紙袋を抱えているのを見ると、町内の誰かに祭りのお使いを頼まれたのかもしれない。


「あのさ、この辺で牧琴菜さんを見なかったかな。図書館に行ったって聞いたんだけど」


 そう声をかけてから、隼人はぎくりとした。ふり返った綾女の瞳は背筋が凍りそうなほど冷たい色をしていた。


「なんでうちがそんなん知ってるん」


 聞き返されて、隼人はたじろいでしまった。前回来た時に一緒に花火をした綾女とは、別人だとしか思えなかった。


「なんでって……同じ学校だし、牧さんのこと知ってるかなと思って……」


 大人の綾女は琴菜が事故に遭ったことを知っていた。まったく知らずの他人ではないはずだ。

 隼人は負けじと笑顔を作って返答を待ったが、彼女はしばらく隼人を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。


「あんな子、うちの友だちと違う」


 吐き捨てるようにそう言って、綾女は歩き出した。あまりの声色の暗さに隼人が呆然としていると、綾女の背中は見る間に小さくなっていった。


「ちょっと待って……」


 そう言って追いかけようとすると、雨が降ってきた。ぽたり、ぱたりとコンクリートの色を変えていく。雨粒は瞬く間に勢いを増し、隼人の顔を濡らしていく。

 目に入った水滴をぬぐうと、もう視界に綾女の姿はなかった。突然の雨に道行く人々が声を上げながら図書館にかけ込んでくる。頭の中では綾女の残した言葉がぐるぐると回っている。


 雨霧のむこうに、眼鏡をかけた女の子の姿が見えた。雨に濡れながら何度も信号を見上げている。おさげ髪に黒縁の眼鏡、胸には手さげ袋を抱いている。彼女の細めた目が隼人をとらえた瞬間、心臓が強く脈を打ち始めた。


 ――牧琴菜


 雨に打たれるのも忘れてその姿に見入っていると、信号が青に変わった。琴菜と思われる少女はあわてた様子で横断歩道を渡ってくる。琴菜を見つけたとしてそれからどうする――と考えていると、彼女は横断歩道の真ん中で転んでしまった。


 どうやら濡れた路面に足を取られたらしい。胸に抱えていた手さげ袋には本が入っていたらしく、道路の真ん中に放り出されている。彼女は泣きそうになりながら、濡れてしまった本をかき集める。その姿を見て隼人は迷いをふりはらった。とにかく助けよう、そう思って横断歩道を渡り始める。


 そこへショベルカーを積んだ巨大な重機運搬車が右折してきた。この交差点は車両も歩行者も同じ方向なら同時に青になるので、右折する車は横断歩道の前で一度停車しなければならない。


 歩道の信号はまだ青だ。かけよって急いで本を拾い集める。前髪を濡らした幼い琴菜が、眼鏡の中の瞳を丸くして隼人を見つめる。大丈夫だ、十分間に合うよと安心させるつもりで微笑みかけたその時、低く唸りを上げるエンジン音に気づいた。


 右折してくる重機運搬車は全く速度を落とす様子がない。水しぶきを上げながら、瞬く間に琴菜と隼人の目前まで迫ってくる。


 ――自分たちの姿が見えていないのか。


 悪寒を感じた隼人は抱えていた本を再び投げ出して、琴菜の腕を握った。黒い影に圧倒された琴菜は呆然としたままその場から動かない。

 細い腕を放さないようにしっかりと握り、全身の力を振り絞って道路を蹴る。足がすくんでいるのか琴菜の足がもつれている。


 間に合わない――そう思った隼人は彼女の肩をおもいきり引きつかんで反対車線に背中を押した。黒縁の眼鏡が顔からはずれ、スローモーションで宙に舞っている。


 彼女の瞳が見開かれた瞬間、隼人は全身に衝撃を感じた。


 琴菜の姿が暗闇の中にフェードアウトしていく。雨の音だけが耳の奥に届いていた。

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