5.影消?
大輔
薄い意識のむこうから笛の音が聞こえる。懐かしい太鼓の響きと、手のひらに感じる土の冷たさ――
隼人が体を起こすと、青々と茂る大木が視界に飛び込んできた。湿り気を帯びた風が一吹きし、林全体が生き物のようにざわめき始める。
そこは神輿を奉納することになっている神社の敷地だった。目の前にそびえる巨木は樹齢千年を超える御神木で、神社の境内よりも古いと言われている。
風に乗って笛の音が聞こえる。わずかに遅れて、鈴の音と太鼓の響き――
隼人は慌てて立ち上がると、大社を目指して走り出した。飛んできたこの日が神輿奉納の日なら、もう琴菜を助けることはできない――
砂利をふみしめながら、あたりをぐるりと見まわす。日が東の空にあるのを見る限り、まだ午前中らしい。神輿の姿はどこにもない。
真っ赤な鳥居のそばに建物があり、隼人はその中に座っていた巫女に声をかけた。
「あの、神輿が担がれてくるのって、今日ですか?」
「今日は前夜祭で、明日奉納ですよ」
おっとりとした微笑みでそう言われて隼人は胸をなでおろす。礼を言うやいやな神社の敷地を飛び出した。琴菜が何時に事故に遭ったかわからない今、何かひとつでも彼女の足取りをつかんでおきたかった。
小学校は同じだったが、琴菜の実家がどこにあるのか詳しくは知らない。校区と言っても端から端まで歩けば直径で三キロ以上ある。しらみつぶしにしていては、日が暮れてしまう。
ともかくも自宅近くまで行こう、と走り始めると、ちょうどそこへ隼人の同級生たちが通りかかった。ふざけながら道をふさぐように歩く集団の真ん中に、桐生大輔がいる。
「あのさ、誰か牧琴菜さんがどこに行ったか知らないかな」
思わずそう声を上げると、小学四年とは思えないほど体格のいい大輔が睨んできた。
「……どこの誰か知りませんけど、聞いてどないするんですか?」
凄みのある声でそう言って、隼人を威嚇してくる。警戒心の強さは当時の隼人以上なのかもしれない、と思いながら唾を飲みこむ。
「大輔くん、俺のことおぼえてない? 隼人くんの親戚の、ほら、一緒に屋根に登っただろ。それで君が廃工場から落ちて、俺が抱きとめたんだ」
大輔の眼光の鋭さに情けなくひるみながらも言葉を紡ぐ。すると彼の表情は見る間に氷塊していった。
「あの時の兄ちゃんか……」
「思い出した? あのあと君がタルトたか気になってたんだ。怪我はなかったの?」
「……俺も気ぃ失ってたからよう覚えてへんけど、大した怪我やなかった。ずっとお礼が言いたかったのに、なんでおらんようになったんですか」
突然敬語を使ったかと思うと、大輔が服をつかんできた。
「あ……いや、急用ができて、それからこっちには来れなくなったんだ」
とっさに取りつくろうものの、この目に何もかも見透かされてしまうのでは、と心拍数が上がる。
「あの時助けてもらわんかったら、俺は死んでた。ほんまにありがとうございました」
同級生たちがざわめきだす中、瞳にうっすらと涙の膜を作った大輔が真摯なまなざしを向けてくる。
その丸い瞳の中に、自分の姿が映っている。幼い大輔には大人の自分がどう映っているのだろうと考えるだけで、胸が熱くなる。
「君が無事で、本当に良かった」
彼の肩に手を乗せながら、ふと元の時代の大輔に自分の記憶は残っているのだろうかと思った。屋根から落ちて誰かに助けてもらったなんて話は聞いたことがない。もちろん自分自身も覚えていない。
同級生の誰かが大輔にこっそりと耳打ちをする。親分の表情に戻った大輔が、その場にいたほかの子供たちに何やら話しかける。
「こいつが牧の居場所、知っとるらしいです」
そう言って細面の男子の背中を押した。同級生の誰かには違いないが、名前は思い出せない。
見知らぬ大人の前に差し出された彼は、何度も大輔の方にふりかえりながら言う。
「たぶん……図書館に行ったと思うんです。俺、あいつと家が近いんやけど、朝会うたとき、これから神輿の練習があるのにどこに行くんやって聞いたら、今日までに本を返さなあかんからって走って行きよって。たぶん昼には戻ってくると思うんですけど……」
「図書館か……どうもありがとう」
そう言って頭を下げると、細面の彼は目を丸くした。それから大輔に「お手柄や」と肩を叩かれて、ほっと息をつく。
「牧がどないかしたんですか」
そう言ったのは大輔だった。今すぐにでも走り出したいのをこらえながら、隼人は言う。
「ちょっと用事があってね……君たちに会えて助かったよ」
「いつまでこっちにおるんですか?」
意外な問いかけに、今度は隼人が目を丸くした。何とも答えようがない。
「俺、明日の本宮で太鼓叩くんです。もし明日もおるんなら、絶対見に来てくださいね」
隼人の戸惑いをよそに、大輔ははっきりとした口調でそう言った。幼いころの隼人が進むべき道に迷っていたこの時期に、彼はすでに将来の目標を見据えていたのかもしれない、と感じさせられる。
よく日に焼けた手のひらを差し出されたので、ぎゅっと握り返した。
「わかった。きっと見に行くよ」
その言葉に大輔が笑顔を見せる。大人になって数限りなくこんな曖昧な口約束をして、その半分も守れずに生きてきた。そのことを、目の前にいる少年はまだ知らないのだ。
彼らに礼を告げて走り始める。行先は学校のそばにある公営の図書館だ――
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