困惑
まぶたの裏に光を感じて、隼人は目を覚ました。
遠くからヒグラシの鳴く音が聞こえる。真夏の西日がささくれた畳を焦がしている。
重い体を起こす。全身にびっしょりと汗をかいている。
ふすまのむこうからテレビの音が聞こえる。にじりよってそっとふすまを開けると、小さな女の子が背を向けてテレビアニメを見ていた。
ふりむいたのは真夕だった。無事、元の時代に戻れたらしい。眠る前に飲んでいた麦茶のグラスがちゃぶ台の上に乗ったままになっている。
「あ、目ぇ覚めたん?」
「俺……どれくらい寝てたのかな」
「うーんと、二時間くらい?」
そう言って古びたかけ時計を見上げる。もうすぐ午後五時になろうとしている。
「そうだ……斉藤の親父」
鉛のように重い体を無理やり動かして、縁側にはいずり出る。母がはいていたサンダルに足をひっかけ、垣根のむこうに首を伸ばす。
中年の女性が家から出てくる。枇杷を分けてくれた、あの女性だ。
耳の奥で嫌に響く心音を聞きながら、表札を確認する。
――井川
その二文字を見ているだけで、内臓が煮えたぎるように体が熱くなっていく。口の中はカラカラに乾ききって、生唾を飲みこむこともできない。
「戻って……ない?」
目を閉じて、もう一度表札を見た。「井川」のままだ。両隣の家には全く変化がなく、真夕が訝しげな顔をして隼人を見上げてくる。
「どないしたん……?」
「いや……ちょっと困ったことになったなと思ってさ……」
そう言いながら、小さい隼人の時代を思い出す。最後に斉藤の親父を見たのは、あの日の夜だった。表札は「斉藤」で、酔いつぶれた親父が家の前で眠りこけていた。
「もしかして……あのあと……死んだ?」
「……誰が死んだん?」
真夕に聞き返されて、思わず口をふさいだ。けれどその場を取り繕うほどの余裕もなく、隼人は玄関に回って外に飛び出した。
西日が不気味なほど井川家を赤く照らしている。綾女の父はまだ留守にしているようだ。どこか他に変化はないかと目を凝らしていると、井川家の右隣にある家から住人が姿を見せた。
隼人は藁にもすがる思いでその老人にかけよった。
「あの、すみません。お隣の井川さんっていつ頃からここに住まれてますか?」
八十を過ぎたその老人は顔を皺だらけにして目を細めると「なんや、丹羽のぼっちゃんかいな」とつぶやいた。
「いつからて、二十年くらい前とちゃうか」
「その前は、どなたが住んでいたんですか」
「どなたて、斉藤さんとこやんか。おぼえてへんのか?」
――斉藤。その二文字が、再び隼人の脳髄に突き刺さる。
「酔いつぶれて家の前で寝てしもて、次の日の朝には死んどったんや。夏の暑い日やったけど、もとからアル酎の気もあったしな。嫁さんの忠告も聞かんと毎晩飲み歩いとったから、自業自得っちゅうやつや。あんたんとこのお父さんが亡うなったんもそのちょっとあとやったしなあ、おぼえてへんでもしゃあないか」
老人が剥げた頭をなでながら遠い目をする。
父が亡くなる前の、夏の夜――生きている父と再会した、あの花火の夜に斉藤の親父が酔いつぶれているのを見た。迷いながらもそのまま放置してしまった。そして死んだのか――
自業自得――小さい綾女が呟いた言葉が、耳の奥で鳴り響いている。
斉藤の親父を恨んでいる人間は多くいた。酒癖が悪いだけでなく、借りた金を踏み倒したり、どこからか儲け話を持ってきてはかかわった人間に出資させたりしていた。何度となく綾女の父が巻きこまれて、そのたびに多額の借金を背負わされていたことは、ずいぶん後になってから母が教えてくれた。
死んで当然だ、天罰だ、という者も少なからずいるだろう。あの場で過去に遡った自分が助けたからといって、何のいいこともなかったかもしれない。
――けれど、それを決めるのは自分じゃない。父は「米一粒くらいのいいところもある」と言っていた。共に暮らしている家族もいた。死んでいい人間なんて、いるはずがない。
激しい頭痛を感じながら老人に礼を告げると、「あんたも気ぃ落としなや」と肩を叩かれた。少し考えて、亡くした母のことを言っていると気づいた。
目眩をこらえながら台所に入って水を飲む。強烈な喉の渇きをおさめて、自分はあの時どうすべきだったのかを考える。斉藤家の門を叩き、あの口うるさい女性にどやされ、酒臭い斉藤の親父を家の中に担ぎこむべきだったのか――
ふとテーブルを見て、違和感を覚えた。流し台の横には真夕が洗った弁当箱がおかれている。テーブルの上はすっきりと片付いている。
琴菜が持ってきたタルトの箱がない――
また胸のあたりがざわつき始め、あわててタルトの箱を探す。炊飯器が置いてあるカップボードや、戸棚の中にも入っていない。真夕が食べたのかと思いゴミ箱をあさったが、それらしき空き箱は見当たらない。そもそもタルトは六個もあったのだ。真夕ひとりで食べられるはずがない。真夕は琴菜のことを「きらい」だと言っていた。庭にでも放り出したのだろうか。
思いつくかぎりのところを探してみるが、どこにも見つからない。隼人の不審な行動を真夕がじっと見つめてくる。本人に聞く方がよっぽど早い、とようやく気付いて隼人は真夕に声をかけた。
「あのさ、キッチンにあったタルトの箱、どこに置いたっけ?」
「タルト?」
真夕は不思議そうな顔をして首を傾げる。母の遺骨を置いた仏壇のお供え物を見始めたので、隼人は嫌な予感を抱きながらもう一度言った。
「牧琴菜っていうお姉さんが持ってきてくれたタルトだよ。お昼前に来ただろ?」
「……うち、そんな人知らんよ」
母親譲りのイントネーションでそう言うのを聞いて、隼人はまただ、と思った。大輔の電話番号を聞こうとしたときの、綾女と同じ反応――
隼人は生唾を飲みこみ、もうひと押ししてみようと思った。
「真夕ちゃん、あの女の人のこと、きらいだって言ってただろ? 別にごまかさなくていいんだよ。あの人が来たこと、お母さんには内緒にしとくからさ」
「……なんのことかわからへん。朝、誰か来てたん?」
真夕は一層首をかしげる。とても嘘をついているようには見えない。
――もしかして、斉藤の親父と同じように、琴菜の存在まで消えてしまった?
そう考えだすと、きりきりと胃が痛むのを感じた。消えたように思ったけれど存在した大輔、消えたまま戻らない斉藤の親父、牧琴菜はどうなってしまうのだろう――
真夕を見つめたまま呆然としていると、インターフォンが鳴った。玄関先から自転車を止める音が聞こえる。
「あっお母さん、帰ってきた」
そう言うなり真夕は玄関に飛び出していった。引き戸を開けると、息を切らした綾女がスーパーの袋を持って立っていた。
「隼人、ほんまありがとう。今夜はここで晩御飯作るしな。一緒に食べよな」
仕事で疲れているだろうに、そう言って満面の笑みを見せる。何事もなければ、綾女の手料理をごちそうになれると素直に喜んだだろう。しかし今は、聞かなければならないことがある。
「あのさ、今朝、牧がうちに来てたんだけど……」
「牧? うちの知ってる人?」
やっぱりこの反応か、と隼人は落胆した。大輔のときと同じで、彼女の記憶から琴菜の存在が抜け落ちている。
「おまえ、牧琴菜、知らないのか……?」
あきらめきれず彼女の名を繰り返し言うと、綾女は重そうなスーパーの袋を運びながら返してきた。
「あー、小学校の同級生で牧さんっておったねえ。確か四年生のときに交通事故で亡くなった……兄弟の誰かがおばさんのお焼香にでも来てたん?」
そう言ってスーパーの袋をキッチンに置くと、仏壇の前に座った。隣に真夕も座らせて、線香に火をともす。
交通事故で亡くなったことになってるのか――そう考えながら、琴菜の言葉を思い出す。彼女は確かに事故にあっていて、自分にそっくりの人物に助けられたと言っていた――
隼人は、はっと息を飲んだ。消えなかった大輔と、消えた斉藤の親父の違い――
大輔の存在があやふやだったとき、過去に遡って屋根から落下した小さな大輔を助けた。あの時自分が助けなければ、彼の未来は消失していたのかもしれない。そして斉藤の親父は救いの手を差し伸べなかったから、そのまま死んでしまった。
過去の琴菜を事故から救ったのは、自分に似た誰かではなく、三十二歳の自分自身だった?
そこまで思考がめぐって、全身の毛が逆立つのを感じた。
「……それって何月だったとか、おぼえてるか?」
「うーんと……そういえば、神宮祭で神輿を引く練習するやん? そのときに牧さんがおらんかって、事故にあったとか聞いたような……」
「だとしたら、神宮祭の前日か……」
そうつぶやきながら、その当日の写真があったかどうか考える。過去に遡ったとしてもうまく事故現場に遭遇できるとも限らない。小学四年生の琴菜がどんな姿をしていたのかもおぼえていないのだ。救うにしても、いったいどうやってやれと――
握りこぶしでテーブルを叩くと、そばにきていた綾女が驚いたように身を引いた。
「……どないしたん?」
心配そうに顔をのぞきこんでくる。先ほどの真夕と同じ表情だ。さすが親子だな、と感心していると、少し心がゆるんだ。
「……何でもない。おまえには心配かけてばっかだな」
「隼人のためやったら何でもしたげるよ。困ったことあったら、いつでも言うてな」
何百回も聞いて、思春期の頃はうざったくさえ思えたその言葉が、今の隼人を慰めてくれる。
この場に真夕がいなければ、抱きしめていたかもしれない、と思いながら綾女を見つめていると、真夕が小さな体をすべりこませてきた。
「うちもおるよ。なんでも助けてあげるから」
まっすぐなその瞳は、幼いころの綾女と同じ水晶玉のように透き通っている。隼人は「ありがとう」とつぶやくと、真夕の頭をなでた。彼女は隼人を見上げながら、満足そうな笑顔を見せてくれた。
今すぐにでも琴菜が事故にあう直前の時代に行きたかったが、昼寝が長かったこともあって眠りが訪れそうにはなかった。綾女の食事の支度を手伝い、三人で花火をする。それから必ず、目的の時代へ行く――
遺品整理をするふりをしながら、目的の時代に近そうな写真を探した。働き者の母は、神宮祭の当日は町内会の手伝いに奔走して写真を撮るのを忘れてしまう。だからあの年は、前日の練習のときに写真を撮ったはずだった。黄ばんだアルバムを次々にめくっていく。
「あった……」
法被を着た隼人と綾女、それから近所の子供たちが写っている。たしかこの時、そそっかしい母は新しいフィルムを入れるのを忘れていて、車いすに乗った父に入れ替えてもらっていた。
そんなことを思い出すと同時に、どこか違和感もおぼえる。母に言われて車いすの父のうしろでポーズをとった記憶はあるのに、その写真がない。家族三人で撮った写真はどこに行ってしまったのだろう。
真夕に呼ばれたので、ポケットに写真を忍ばせる。何事もなかったように夕食の席に着く。
午後八時頃に彼女たちが自宅に戻ったので早々に風呂をすませ、布団に横になった。
けれど夜半を過ぎても眠りは訪れず、月明りをたよりにひとり写真を眺め続けた。
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