引金
その夜、河川敷で花火をして丹羽家に戻ると、斉藤家の門柱に斉藤の親父が寄りかかっていた。髪も服装も乱れている。どうやら酔いつぶれて寝ているらしい。
「あーあ、またおばちゃんに閉めだされたんやなあ」
そう言って小さい隼人は息を吐く。激しい夫婦げんかの末に家を閉め出されるのは毎度のことで、近所の住民もこの光景には慣れっこになっていた。
いつもと違うのは、完全に酔いつぶれていることだ。まだ午後八時を過ぎたところなのに、いったい何時から飲んでいたのだろう。
「兄ちゃん、泊っていくんやろ? 綾女もうちくるか?」
宮原家を見てみると、電気が消えたままだった。昼間、斉藤の親父と連れ立って出かけていたのに、綾女の父親はまだ帰宅していないらしい。
「うちも、ええの?」
小さい綾女の声が浮き立っている。わずかに恋心を抱いていることが、大人になった今の自分にはよくわかる。けれど小さい隼人には自覚がなくて、彼女の気持ちに気づいたのは中学に上がってからだったことを懐かしく思い出す。
「どうせまた親父さん家におらへんのやろ? お母ちゃんに聞いてくるわ」
そう言うなり、彼は家の中にかけこんでいく。花火用の水の入ったバケツを片づけていると、不意に小さな綾女と目が合った。
「……お兄ちゃん、ほんまはどこの人なん?」
水晶玉のような瞳に見つめられて、隼人は言葉を失う。
「叔父さんには会うたことあるけど、遠い親戚の人なんて聞いたことない。隼人くんのお父さんにも似てるけど、なんか変な感じする」
綾女には小さいころから妙な直観力があって、隼人が嘘を突き通せたことは一度もない。相手は十歳の少女だというのに、条件反射のようにたじろいでしまう。
「えっと……本当はっていうか、なんて言うか……」
例えば今ここで小さい綾女に本当のことを話して、未来が狂ったりしないのだろうか、と逡巡していると、勢いよく引き戸が開け放たれた。
「綾女―っ、入って来いよー」
小さい隼人がそう叫んだので、張り詰めていた場の空気がはじけた。助け舟に便乗してそそくさと土間に上がると、彼女はそっとつぶやいた。
「心配せんでも、内緒にしといたげるから」
そう言って彼女はぱちりと目をつぶった。大人の綾女を思い出してドキリとする。ずっと一緒にいたはずの綾女は、ずいぶん先に大人の階段を上り始めていたのだと気づかされる。
隼人は苦笑いをしながら引き戸に手をかけた。斉藤の親父は闇の中で眠りこけたままだ。
「あのままにしてていいのかなあ……」
「ええんちゃう? 自業自得やわ」
綾女はそう言い捨てると、サンダルを脱いで上がり框に足をかけた。幼い口から出たその言葉は腹の底が冷えるような響きをしていて、耳の奥にこびりついて離れなかった。
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