安堵

「……お父ちゃん!」


 体が硬直していたのはわずか数秒のことだったが、小さな隼人がそう叫んで居間から飛び出すのを見て、隼人も慌てて父の部屋にかけこんだ。


 そこには頭を抱え込んだまま畳の上に倒れている父がいた。隼人は畳にふせて顔をのぞきこんだ。瞳は焦点が合わず、両足が痙攣をおこしている。


「お父ちゃん大丈夫か、すぐ救急車呼ぶからな!」


 そう叫ぶ小さい隼人の姿を見るなり、父は目の色を取り戻した。鶏ガラのように細い腕を伸ばして、彼の手をつかむ。


「……心配せんでええ。こんなんすぐ収まる。そこにある薬とってくれ」


 震えの収まらない指先で、赤茶けたタンスをさし示す。小さい隼人は「でも」と言いながら自分の顔をうかがってくる。父は凄みのある声で「はよう薬」とうめいている。


 父には隠していたが、じつは隼人が一人の時に父が倒れたらすぐ救急車を呼ぶように、と母に言われていた。こんな場面は父が亡くなるまでに数度あって、そのたびに「救急車は呼ばんでええ」と引き止められてしまい、当時の隼人は頭を悩ませた。


 抱きかかえた父の震えが少し弱まったのを感じ、隼人はタンスに視線を送ってうなずいた。父の死期を知っているからできる判断だったが、小さい隼人は恐怖に震えながら薬を取り出していた。

 枕元に置いてあった水のみを取り上げ、錠剤の薬と一緒に父の口に流し入れる。弱々しい動きではあったが何とか薬を飲みほし、自ら布団の中に入った。


「……すまんかったな。君がおってくれて助かったわ」


 白髪まじりの父が頭をもたげてそうつぶやく。隼人は「いえ」と返して、震えのおさまらない小さい隼人の肩をよせた。


「お父ちゃん……やっぱり救急車呼んだ方が」

「どうせ呼んだって散々待たされて検査してしまいや。家で寝とった方がええ」


 吐き出すようにそう言ったあと、木の枝のような腕を伸ばした。何か取ろうとしているのかと思ったら、その手は小さい隼人の膝小僧に乗った。


「じきに薬が効いてくる。心配ご無用や」


 父が無理に微笑もうとするのが分かって、胸がきしんだ。小さい隼人は零れ落ちそうになる涙をこらえて、こぶしを握りしめている。


「お父ちゃんはこの人と話がしたい。ちょっと外に出といてくれるか」


 父が静かにそう言うと、小さい隼人は目を丸くした。けれどそれ以上は何も聞かずに「わかった」と言って素直に立ち上がる。

 隼人が「ありがとう」と微笑みかけると、彼も少しだけ笑みを取り戻した。床に臥せる父を気遣うように、小さな足音が玄関にむかっていく。

 父と視線がかち合って正座しなおすと、彼はゆっくりと口を開いた。


「ほんまよう来てくれた。それにしても、おまえは年をとらんなあ。俺と同じ年とは思えへん」

「年をとってないというか、こっちの時間軸では一日しか経ってないんだ。どうしてこの時代に来れたのかよくはわからないけど、たぶんきっかけは……写真かな」


 そう言って隼人は庭のむこうを見つめた。眠りに落ちる直前、斉藤家を確かめるために写真を見上げていた。あの写真はおそらくこの時代の前後に撮られたものだったのだろう。以前、小学一年の時代に迷い込んだ時も、直前までその年の夏祭りの写真を見つめていた。


「俺の時代で、どうしてか斉藤家が消えてしまったんだ。過去を確かめたいと思って写真を見るうちに眠りに落ちて、気づいたらこの家の庭にいた。前回は大輔の存在があやふやになったあとにこっちに飛んできたんだけど、戻ったらちゃんと大輔は存在してて」


 言いながら、自分は頭がおかしくなってしまったのかと思った。まともな思考回路をした人間なら、白昼夢だと笑うだろう。しかし父は真剣なまなざしのままで、隼人の話に聞き入っていた。


「斉藤家が消えたて、あの親父が死んでもうたんか」

「いや、井川って人が二十年も前から住んでたことになってる。死んだっていうよりは、存在そのものが消えたっていうか」

「あの偏屈親父が消えたら喜ぶ人間はようさんおりそうやけどな。まあちょっとはええとこもあるけど。米一粒分くらいは」


 嫌味たっぷりにそう言うと、父と隼人は目を合わせて盛大に噴き出した。死の際に立たされた父はこの時期、極端に「死」という言葉を避けていた。その父と冗談交じりにそんな会話ができることが、単純に嬉しかった。

 ひとしきり笑ったあと、父はゆるんだ表情で言った。


「あんな親父でも消えたらおかしなることもあるやろ。幸か不幸か、この時代にはちゃんと存在してるで」

「そうみたいだなあ」


 庭の垣根を見つめながら、隼人は肩の力をゆるめた。「井川」という表札を見たときの例えようのない気持ち悪さはすっかり薄らいでいる。


「俺がこのまま生き続けたら、やっぱり時代の流れはおかしなるんやろか……」


 遠い目をして父はつぶやいた。それはかろうじて聞き取れるほどの小さな囁きだったが、隼人の心を激しく揺さぶった。

 返答できずにいると、父はくるりと表情を変えて軽い調子で言った。


「そんな顔せんでええ。言うてみたかっただけや。そうや、君の時代にはどうやって戻るんや?」


 突然話が切り替わって、隼人はうろたえた。記憶の糸を必死に巻き戻す。


「確か前は……屋根から落ちた大輔を受け止めようとして、頭を打ったんだ。それで意識が飛んで、気づいたら元の時代に戻ってた。気絶までしなくても、眠れば戻れるんじゃないかと思うんだけど」

「ほな今日はゆっくりしていき。夜はうちに泊まって、それで君の時代に戻ればええ」

「……いいのかな?」

「何がや。結子もそのうち戻ってくるやろけど、俺が適当にごまかしたる」

「それもあるけど……俺が俺自身に対面してるのって、いいのかなと思ってさ」


 現実ならありえないコミュニケーションがこの場で成立していることに、わずかな危惧を抱いている。元の時代に戻ったとき、自分自身に何か影響を及ぼすのではと考えるのは当然のことだ。


「隼人は君に会えたことを喜んでる。君は遠い親戚の人、それでええやないか」

「親父がそういうなら……」


 そう言って眉をしかめると、父は口をゆがめて変な表情をした。


「おまえはいつから俺のことを『親父』なんて言うようになったんや」

「この年で『お父ちゃん』なんて言えるわけないだろ。親父こそ俺のこと『君』とか気取った言い方するくせに」

「当然やろ。隼人隼人ゆうとったらどっちの隼人かわからんようなるやないか。おまえも俺の前では『親父』でええけどな、結子の前では『広大さん』て呼ぶんやで」

「はいはい、わかりましたよ、広大さん」

「あとその変な都会語はどないかならへんのか」

「はいはい、ようわかりましたわ、広大さん」


 わざとらしい関西の早口でそうかけ合ったあと、二人同時に笑い出した。


「綾女にも指摘されたけど、これだけはどうにもならないよ」


 笑いを収めてそう言うと、彼は目を細め、父親の顔をして言った。


「綾女ちゃんは元気にしてるんか」

「相変わらずパワフルで、すっかり一児の母親だよ」

「……おまえの子とはちゃうんやな?」

「……俺は結婚してないからね」

「そうか……女運だけは俺に似いひんかったんやな。ご愁傷さまなことで」


 すっかり顔色を取り戻した父がふざけてそう言う。

 二人で笑いあっていると、玄関で物音がした。小さな鈴の音と、ビニール袋の重なり合う音が聞こえてくる。どうやら母が帰宅したようだ。


 隼人の顔を見るなり「あらまあ」と甲高い声を上げる。父の長い闘病生活で畑のことも家のことも一人でやりくりし、家にいるときは父の看病に追われている。それなのに母は全く疲れを見せない明るい笑顔で、隼人を迎え入れてくれる。


「お久しぶりやねえ。うちの隼人がお世話になります」


 そう言って頭を下げるので、「いえ僕は何も」と思わず講師の時のように返礼してしまう。


 小さい隼人のうしろから、十歳の綾女も姿を見せる。この頃、綾女の父は斉藤の親父と連れ立ってどこかに出かけていくことが多く、残された綾女はよく夕食を食べに来ていた。


「遊びに来るんならはよう言うてくれたらよかったのに。もういっぺん買い物いかんと」


 そう言うなり小さい隼人と綾女にスーパーの袋を押しつけて出て行こうとしたので、慌てて引きとめた。


「どうぞお構いなく。突然来てしまってすみません」

「せっかく来てくれはったのに、そういうわけにもいかんでしょう」


 母は体半分がすでに戸口の外に出ている。きっと冷蔵庫には十分な食材が入っているのに、客人が来るとなると、母は食べきれないほどの料理をこしらえるのだ。

 父と二人でなんとかなだめて母を家の中に上げる。引き戸を閉めるついでに、もう一度斉藤家の表札を確認した。古い木目の表札に彫られているのは間違いなく「斉藤」の二文字だ。


「兄ちゃーん、今日はハンバーグやってえ。あとで花火もしよなー」


 小さい隼人と母の笑い声を聞いていると、全身を覆っていた不安はすっかり消失して、安堵が胸の底に広がっていく。自分の時代に戻れば、きっと元通りの日常が待っている。綾女が仕事から帰ってきたら、真夕と一緒に花火をするのもいいかもしれない――


 台所からただよう出汁の温かな香りが、隼人の固くなった感情をほぐしてくれる気がした。

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