4.引金
先生
目が覚めると、最初に視界にとびこんできたのは大きな柿の木だった。背中に痛みを感じて体を起こす。徐々に焦点があってくると、そこが実家の庭だということに気づいた。強い日差しが地面を焦がし、セミがせわしなく鳴いている。
縁側の扉は閉められている。庭の草花が生い茂っていないところを見ると、どうやらまた過去の世界に迷いこんだらしい。
不法侵入で訴えられたらたまったものではないと考えながら、慎重に移動する。居間の掃き出し窓も施錠されていて、エアコンの室外機も動いていない。
物音ひとつしない。留守だろうか、と考えながら門扉の方に移動すると、二十四インチの青い自転車が置いてあった。これはたしか四年生の誕生日に買ってもらったものだ。
四年の夏なら父はまだ生きている、五年の夏ならもうこの世にいない――
心臓がぎりぎりと縛りつけられるような痛みを感じながら道路に出ると、車いすに乗った人物がゆっくりとこちらにむかってくるところだった。
「おお、よう来たなあ」
細い腕を上げてそう言ったのは隼人の父だった。Tシャツと薄いパジャマのズボン姿で、車いすに乗っている。驚くほど痩せこけたその姿から、死の際にいることは明白だった。
車いすを押していたのは小さい隼人だった。といっても彼は十歳になったはずだ。顔に幼さは残るものの、父譲りの意志の強そうな瞳が夏の陽光の中で輝いている。
「……誰?」
彼が父親の耳元で低くつぶやくと、父は目じりに皺をよせながら言った。
「おまえが一年生のときに家に担ぎこんできた遠い親戚の人や。土手で倒れたゆうて、綾女ちゃんとえらい大騒ぎしてたやろ」
小さい隼人はしばらく考え込んだあと、じっと隼人の瞳をのぞきこんだ。こうすれば大抵の真実は見抜けると、この頃の隼人は信じていた。
「……ああ、思い出した。一緒に屋根に登って、気づいたらおらんようになってたんや。俺らだけ怒られて大損やったわ」
そう言って笑う小さい隼人の頬に、あの頃の人なつっこさが見えかくれする。
「なんや、君も一緒に工場の屋根に登ったんか?」
「俺は登ってませんよ」
父に咎められたときの癖でとっさに切り返すと、小さい隼人が頬をふくらませた。
「俺らと一緒に工場行って、階段支えてたやんか」
「そりゃあ、君たちにどうしてもって頼まれたから」
「どうせ隼人らが調子ええことゆうて、この人を巻きこんだんやろ」
父親に睨まれた小さい隼人は「違うー階段立てろて言うたのは大輔やー」と言い訳を始めた。
体中を病魔にむしばまれても、父親の威厳はそこかしこから溢れ出している。
小さい隼人は怒られながらも車いすを押して、家の敷地の中に入っていった。上り框に即席の坂をもうけ、丁寧に車輪を拭いてから車いすごと家の中に入る。この作業は年明けに父がなくなるまでの約半年間、母と一緒に続けていた。段差の多い古い平屋の中を車いすで移動するのは困難を極めたが、この頃すでに自力歩行ができなくなっていた父を支えて移動することもできず、できるかぎりの工夫をして家で過ごしていた。
「どうぞ上がって下さい。結子ももうすぐ買い物から戻ると思います」
そう言って父が手招きをする。抗がん剤の投与を経ても父の髪はあまり抜けずに残ったが、半分ほどが白髪になった。三十五歳になった父の、同年代の男とは思えない痛々しい姿に思わず目を背けたくなってしまう。
「……おじゃまします」
そう言って三和土に足を踏み入れた時、電話台が目に入った。それから「井川」と彫られた表札が記憶に蘇って、隼人はあわてて道路にとび出した。
はすむかいにあるのは、「斉藤」の表札を埋め込んだ門柱だった。ちょうどその時、斉藤家の引き戸が開いて、中年の男性が姿を見せた。元の時代に比べるとまだ毛髪の残る斉藤の親父がジロリと隼人を睨んでくる。
この世の全てを疑るようなあの厭味ったらしい目を見るたびに嫌な気分になったものだが、彼が存在していたという安心感で思わず微笑みかけてしまった。
彼があっけにとられたような顔をしたので、とっさに表情を取りつくろった。訝しげな眼を隼人に向けながら、斉藤は宮原家のインターフォンを押す。彼と綾女の父親がたびたび居酒屋で酒を酌み交わしていることは近所の誰もが知っている。
そのことを誰よりも嫌っていたのが、綾女だった。
「兄ちゃーん、はよう入りいや」
小さい隼人の声が聞こえて、踵を返した。大輔の時と同じように、過去の姿を確認すれば、きっと目が覚めれば元通りになっている。全身から緊張が抜けるのを感じながら、隼人は三和土に靴を脱ごうとした。
その動作をして初めて、靴をはいていないことに気づいた。素足の裏側に土がついている。
うろたえている隼人の姿に気づいたのか、自室に入った父が喉を鳴らして笑っている。それからキッチンにいる小さい隼人に聞こえないくらいの声で、「そそっかしいとこは結子にそっくりやな」とささやいて、また笑った。
「靴がないんやったら俺のを使たらええ。もう俺には必要のないもんやしな」
悲しい響きをしたセリフだったが、父は淡く微笑んでいた。隼人はうながされるままに靴箱を開き、父の運動靴を取りだす。
長くはいていないのか、色あせている。足を入れてみると、驚くほどぴったりとしていた。
「お言葉に甘えて、外に出るときは一足お借りします」
父は満足そうに微笑んでいる。隼人ははがゆい思いでふたたび靴を脱ぐ。
「まさかもういっぺん会えるとは思わんかった。あとで部屋に来てくれるか」
そう言い残すと、自分で車いすを操作して部屋に入ってしまった。頼りなくなったその背中を見たあと、隼人は居間に足を運んだ。
「兄ちゃん、はようはよう。アイスが溶けてまう」
ちゃぶ台の前に座った小さい隼人がしきりに手招きしている。どうやら棒付きのアイスを両手に持って待っていてくれたらしい。彼が用意してくれた座布団に腰を下ろすと、尻のあたりに何か当たる感触がした。
ジーンズの尻ポケットに手を入れると、真夕に渡したはずの「いくつといくつカード」が入っていた。琴菜を見送るときにポケットに入れて、そのままだったらしい。
「何なん、それ?」
隼人がアイスの滴を垂らしながらそう聞いてくるので、隼人は真夕にしたのと同じように使い方の説明をした。
「ふうん、そんなええもんがあるんやったら、俺もはよ使ってみたかったわ」
「今から一緒にやるか?」
胸がくすぐったくなりながらそう言うと、小さい隼人はすかさず腕をふり上げた。
「俺はもう小四や!」
「知ってる知ってる。計算が遅くて、算数ではずいぶん苦労したんだよな」
「……なんでそんなことまで知ってるんや」
アイスの棒をくわえた彼が、じっとりと見上げてくる。二度目の来訪に気がゆるんでいたことに気づいて、隼人は咳払いをした。
「さっきお父さんに聞いたんだよ。いつも勉強見てもらってるんだろ?」
「……うん。でも最近いきなり寝てもうたりするから、夏休みの宿題いっこも進まへん」
そう言って彼は口の先を尖らせる。この頃すでに父の身体は言うことを聞かなくなっていて、話している最中に意識が切れたように眠ることが多くなっていた。全ては病気のせいだと思っていたが、薬の副作用もあったということを、ずいぶん後になってから知った。
「宿題持ってきなよ。解けないところ、みてやるから」
アイスの棒を台所のゴミ箱に捨ててそう言うと、彼は目を丸くした。その大きな瞳の中に疑いの目はなくて、素直にプリントの束をさし出してくる。
「ああ、概数とか、わり算の文章問題とかか……。計算は一応できてるみたいだけど」
「お父ちゃんには遅すぎるて言われた」
ページをめくりながら、彼はそうつぶやく。
「計算はやっただけ早くなるから、夏休み中にドリルで繰り返し練習するといいよ。じゃあ……概数の問題からいこうか」
「こんなん、いっこも意味わからん」
「わからないって思いこんでると、脳が拒絶するんだ。必ずできるようになるって俺が保証するよ」
そう言って隼人が胸を叩くと、彼はまた目を細めてきた。
「……なんでそんな自信満々なんや」
「そりゃまあ……俺ができるようになったから」
「大人なんやからできて当然やろ」
彼はふてくされた顔で鉛筆を握ったが、隼人はおかまいなしに説明を始めた。なんだかんだと文句を言って授業を先延ばしにしようとする小学生の相手は慣れている。隼人が淡々とした口調で説明を始めると、ぐずっていた彼も少しずつ隼人のペースに乗っていった。
数ページを解き終わる頃には、隼人にむけられる眼差しがすっかり変わっていた。
「すんごいわかりやすかった。学校の先生みたいや」
「まあ一応、塾の先生だからね」
真夕にも同じことを言われたなと思いながら笑うと、小さい隼人は息を吐いて言った。
「俺、塾に行ったほうがええんかな」
ひとり言のような言葉の中に、大きな意味が含まれていることに隼人は気づいた。胸の奥の方に鈍い痛みを感じる。けれど素知らぬふりをして聞き返す。
「どうして?」
「……東京のおじさんが、むこうで進学せえへんかって言うてくれてる。それには学校の勉強では足りひん、塾に行かなあかんって。でもうちにそんなお金ないしって言うたら、おじさんが出してくれるて言うんや。そんなん、ほんまにええんかな」
ついにその時が来たか、と思った。叔父が東京進学の話を持ち出した明確な時期はおぼえていないが、父が亡くなる前にその話はまとまっていたはずだ。迷い続けた末の決め手はなんだったのか、それだけがはっきりと思い出せない。
「……隼人はどうしたいんだ?」
生徒の進路相談に乗るときのように落ち着いた口調でそう言うと、彼は首を傾げた。
「……ようわからん。お父ちゃんも東京はええとこや、しっかり勉強してこいて言うけど、何がええんかわからん。俺はこの家におりたい」
両足を抱えこむように座って、小さい隼人はつぶやく。
彼が家にいたいと言う理由は、聞かなくてもわかることだった。
隼人が腕を組んだまま息を吐きだすと、彼はちろりと視線を上げた。
「……兄ちゃんも、元々はこの辺に住んどったのに東京行ったんやろ? やっぱり行ってよかったと思う?」
思いがけない質問に、息が止まりそうになる。感の鋭い彼に悟られないように、ゆっくり目を閉じてから考える。それから言葉を選んで、口にする。
「よかったかどうかは、正直よくわからない。行ってよかったと思うこともあるし、ここに残ればよかったと思うこともある。何がよかったかなんて、きっと人生の終わりにならなきゃわからないんだと思うよ」
「ふうん……そういうもん?」
何だかよくわからない、と言いたげな顔つきで、彼は立ち上がった。人生の岐路に立たされた少年時代の自分がどう感じたかはわからないが、自分で言っておきながらなんて無責任な大人なんだろうなと苦笑したくなった。
「とにかく周りに流されず、自分の頭でしっかり考えるんだ。ちゃんと考えた末のことなら、きっと後悔しないから」
そう言いながら小さい隼人の肩を叩く。これは進路指導の最後の決め台詞で、誰に対しても同じことを言うようにしている。大人の意のままになっていては、どの道を選んでも残るのは後悔だけだ。受かっても落ちてもそれだけは避けてほしいと、隼人が抱くささやかな願いだった。
「兄ちゃん、これもらってもええ?」
そういって彼が手にしたのは「いくつといくつカード」だった。
「ああ……別にかまわないけど」
そう言ってから、しまったあれは真夕のものだったと思ったが、もとの時代に戻ったときにまた作り直せばいいことかと考え直した。
「ありがとう。大事にするわ」
「そんなの、何に使うんだ?」
「へへ、俺の宝にするんや。そんで迷ったらこれ見て、兄ちゃんの顔を思い出すことにする」
大人には「生意気な子供だ」と言われていた自分にも、こんなに無邪気な時代があったのかと、つい講師目線で「がんばれよ」と言いたくなってしまう。
するとその時、廊下のむこうから何かが倒れるような音がした。記憶の底にこびりつくその振動は、隼人の中に眠っていた恐怖を呼び起こした。
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