隣人
――井川?
何度か瞬きをくり返したが、表札には「井川」の文字が彫りこまれている。平屋造りの古家も庭の垣根も、なんの変りもない。左隣の表札は「宮原」でたしかに綾女の実家だ。同じ通りにある他の家の表札には変化が見られない。
髪の生え際から嫌な汗がつたうのを感じながら、隼人は「井川」の表札に歩みよる。かすかに震える指先で表札を触ってみるが、古ささえも感じられて全身の毛が逆立ちそうになった。
すると外溝の掃除をしていた中年女性が訝しげに隼人をのぞきこんできた。
「……もしかして丹羽さんとこの、隼人くん?」
名前を呼ばれて、隼人は身を固くした。ぎこちなくうなずくと、彼女は途端に相好を崩した。
「なんや、そんな変な動きしてたら変質者がウロウロしてるんかと思うやんか。ウチに何か用?」
この女性は隼人のことを知っている――そう考えると、また汗が吹きだしてくる。
「えっ……と……いつからここにお住まいでしたっけ?」
汗をぬぐい、慎重に言葉を選びながら、隼人は声を出す。
「いつからて、二十年以上前やん」
「そうですか……」
カラカラに乾ききった喉をふりしぼって返答する。すると女性が顔をのぞきこんできた。
「顔色悪いんと違う? お母さん亡くなって、ちゃんとしたもん食べてへんのやろ。そや、こないだもろた枇杷がたしか……」
隼人が引きとめるのも聞かず、女性は家にかけこんでいった。
隣に立っていた真夕が心配そうに隼人を見上げてくる。
「なあ真夕ちゃん、お隣の人って……井川さんだったかな」
「……ようおぼえてない」
そう言って首を傾げる。たしかに隼人も子供の頃は大人のことはみんな「おっちゃん」「おばちゃん」と呼んでいて、苗字をはっきりとおぼえていない人物も多い。
ビニール袋いっぱいの枇杷を受け取って自宅に戻ると、ふと電話台が目に入った。確か先日も「か行」のところにあるはずの桐生大輔の名がなくなって、そのあとなぜか元に戻っていた。寝て起きれば、また「斉藤」に戻っていたりするのだろうか――
目眩を感じながら居間に座りこむと、真夕が麦茶を運んできてくれた。
「隼人兄ちゃん、ほんまに顔色悪いよ。これ飲んで、お昼寝したら?」
「お言葉に甘えてそうさせてもらおうかな……真夕ちゃんはどうする?」
「テレビでも見とくし、うちのことは気にせんといて」
そう言う真夕のうしろに、綾女の姿が見えるようだった。なんだかホッとして、和室に布団を敷く。
天井近くの壁には隼人が小学四年の夏に取った写真が飾られている。綾女とふたりで宮原家の前でかしこまった顔をしている。何のタイミングでとった写真かおぼえていないが、母のお気に入りには違いなかった。端にわずかに映るのが斉藤家の垣根だ。何度か塗り替えはされているが、今とほとんど変わらない。
あともう少しで表札が見える位置だが――アルバムをあされば、斉藤家の表札が映っている写真を見つけられるかもしれない。
前日の夜、ひどく酔っぱらっていた斉藤の親父はいったいどこに消えてしまったのだろう――そう考えながら、隼人は深い眠りに落ちた。
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