影消?

        ***


 意識を取り戻すと、全身に激しい痛みを感じた。寝る前にはなかった擦り傷が体のあちこちにできている。肘からは血が出ている。周囲を見回すかぎり、隼人がいるのは物が山積する古い和室だ。枕元には携帯電話が置いてある。無事、元の時代に戻ってきたようだった。


 やはりあの世界は現実の出来事で、怪我をすれば元の時代に戻ってもこうして血を流したままなのだ。よく死ななかったものだと恐怖を感じながら、携帯電話を手にして時間を確認する。


 時刻は午前十一時を過ぎている。昨日、来ると約束していた真夕はどうしているだろう、と思いながら痛む体で立ち上がる。Tシャツの中をのぞきこむと痣があちこちにあった。どうやら額にも傷があるらしく、ぬぐった手の甲に血がついている。


 居間はしんと静まり返っていた。聞こえてくるのはセミの鳴き声だけで、真夕の姿はどこにもない。朝の八時半には来ると言っていたのに、寄り道をしたとしても遅すぎる。


 ふらつく頭で、そういえば琴菜の存在はどうなったのか、と思った。彼女の携帯番号はまだ聞いていない。気安く番号交換をして付きまとわれても困る、とどこかで考えていたことがこんな形で裏目に出るとは思わなかった。


 真夕の名前を呼びながら庭に出てみる。宮原家の扉は相変わらず固く閉ざされたままだ。家の周りを少し歩いてみたが、小学生らしき姿も全くない。

 町内を探そうと外に出る。太陽光線は皮膚を焦がすように暑いのに、悪い考えが脳を侵食して、歩くうちにますます肝が冷えていく。


 ――もしかして真夕まで消えた?


 そう考えだすといてもたってもいられなくなり、隼人は家に戻った。手の震えをこらえながら携帯電話を操作する。


 綾女の名はちゃんと残っている。祈るような気持ちで通話ボタンを押すと、しばらくして綾女の声が聞こえた。


「真夕ちゃんがまだうちに来てないんだ。今朝、どこまで送ってきたかな」

「ひとりで行けるからって言うから、うちから送り出したんよ。外で遊んでない?」

「町内を探してみたけど、見当たらないんだ。どこ行っちゃったんだろ」

「いっぺん家に戻ってみるわ。隼人は近くの公園とか探してくれる?」


 娘の行方がわからないというのに、綾女の声は落ち着いていた。こんなことはよくあるのだろうか、と考えていると更に不安が募ってきた。「もしかしたら消えてしまったかも」という言葉が喉元まで出かかって、必死になって飲み込んだ。少なくとも綾女の記憶には真夕が残っている。隼人は「わかった」と返事をすると、通話を終了した。


 真夕と入れ違いになることを考えて家の鍵は開けたままにして、靴を引っかけた。

 全身に痛みはあったが、こらえて走りだした。傷口にさしこむ真夏の日差しが、これは現実だと告げていた。アスファルトの上を走る影さえ焦がしそうな勢いで、夏の空は熱を浴びせ続けてきた。




 一時間ほど探したが、真夕の姿は見当たらなかった。


 全身に汗が吹き出してくる。小さな児童公園のそばに立つ自動販売機を見ながら、財布を持ってこなかったことを悔やんだ。

 朝から何も口にしていない。このままでは脱水症状を起こして倒れてしまう。少し休憩したら一度家に戻ろう、そう思って人気のない公園に足を踏み入れた。


 鉄棒や滑り台は錆びていて年季が入っているが、校区外にあるこの場所で遊んだ記憶はない。夏の間は遊ぶ子供も少ないのか、雑草が青々と生い茂っている。大きな金木犀の木の下にベンチを見つけ、隼人は汗をぬぐいながら近づいていった。


 大木のむこうに小さな女の子の姿があった。背をむけて座っていて、顔は見えない。もしかして、と思ってそっとのぞきこむと、水晶玉のような瞳と視線がかち合った。


「隼人……兄ちゃん」


 そう言ってぽかんと口を開けたのは、やはり真夕だった。小さな膝の上に、これまた小さな弁当箱を乗せている。


「まったくもう……心配したよ」


 全身から力が抜けるのを感じながら、隼人はそう言った。真夕の細い肩に手を乗せる。真夕は弁当箱のふたを閉めて歯噛みする。


「今日は朝からうちに来るって約束だったろ?」


 隼人がゆっくり問いかけると、真夕は視線を彷徨わせた。手にしていた箸を握りしめ、うつむいたまま答えない。

 仕方がないので、隼人は真夕の隣に腰かけた。ピンク色の水筒が目に入ると猛烈なのどの渇きを感じた。「一口だけもらってもいい?」と聞くと、真夕は目を丸くして「うん」と答えた。


 付属のコップに麦茶をついで、喉に流しこむ。「あーうまい」と言ってベンチにもたれかかる。どろどろになっていた思考が、わずかだが薄まっていく。


「……なんで行かへんかったか、聞かへんの?」


 隼人が何も言わずにいると、じれたように真夕がそう口にした。隼人は真夕の動向を盗み見しながら、素知らぬふりで空を見上げる。


「言いたくないことがあるなら、無理には聞かないよ」


 そう答えると、真夕は拍子抜けした表情で、隼人を見た。黙って雲の流れを見ている間も、何度も真夕の視線を感じた。やっぱり何か言いたいことがあるのかな、と考えていると、真夕の指が額に触れた。


「……この傷どうしたん?」


 そう言いながら、肘にも血の塊があることに気づいたらしい。まるで看護師のように腕に残る傷をチェックし始める。上着でも着てくるべきだったか、と考えながら、隠しようのない額の傷を触った。


「兄ちゃん鈍くさいから、こけちゃっただけだよ」

「……うちを探してるときに?」


 そう来るとは思っていなかったので、隼人は返事に困ってしまった。


「いやーいつだったかな。覚えてないなあ」

「……ごめんなさい。勝手にこんなとこきて。だってうちのおるとこ、バレてしもたから」


 そう言って真夕は瞳に涙を溜めた。早朝から変質者にでも付きまとわれたのか、それならうちに入った方が安全だろう、と次にかける言葉を考えていると、真夕は涙を落とした。


「隼人兄ちゃんちに入ろうとしたときに、峰くんに見つかってもうた。昨日はなんで学童にこんかったんや、ずるで休んだんか、この家に来てたんか、誰の家やって聞かれて……無視して家の中に入ろうとしたら、この家に来てるんやったら、明日迎えに来るからなって言うんや。そんなん勝手に決めんとってよって言うのに、学童で引き算教えたるから言うて、いっこも聞いてくれへん。そんなん、うちは頼んでないのに」


 語るうちに真夕はどんどん早口になって、涙をこぼした。状況が見えてきた隼人は、しゃくりあげる真夕の背中をそっと撫でた。


「その峰くんって子、真夕ちゃんに、引き算もできないのかって、って言った子かな」

「そうや。いちいちうちのプリントのぞいて、どこが間違ってるとか言うんや。見んといてって言うても聞かへんし、勝手に消しゴム使うし、お弁当の時も勝手にうちの座るとこ決めるし」


 真夕は怒り心頭のようだが、隼人はまるで自分の子供時代の話を聞いているようで、思わず吹き出してしまった。


「なんで笑うん?」

「いや……その峰くんって子さ、真夕ちゃんのことが好きなんじゃないかな」


 怒っている真夕の姿さえ微笑ましく感じてそう言うと、真夕は顔を真っ赤にして叫んだ。


「そんなんぜったい違う! なんでそんなこと言うん?」

「好きな子につい余計なことしちゃうの、自分にも覚えがあるなと思ってさ。君のお母さんになんだかんだとイタズラして、よく怒られてたなあ」


 ひとりで思い出し笑いをしていると、真夕の顔から怒りの色が消えた。


「……隼人兄ちゃん、お母さんのこと好きやったん?」


 思わぬ問いかけに、隼人は息を飲んだ。ごまかしなど一切効かないまっすぐな瞳が、隼人の冷え切ってしまった感情に熱を与えてくる。

 隼人は顔をなでると、ゆっくりと口を開いた。


「……うん。好きだったなあ」

「そしたら好き同士やん? なんで結婚せんかったん?」


 真夕はためらいなくそう口にする。耳の奥で懐かしくこだまする「好き同士」という子供世界の言葉が、蓋をしていた感情に揺さぶりをかける。


「……ずっと大切にするつもりだった。でも……俺が逃げちゃったんだ」

「なんで逃げたん?」


 真夕の追及は止まらない。どう答えるべきが、いまだに自分の中でも答えが出ていない。


「……本当のことを受け入れるのが怖くて」


 それが口にできる精一杯のことだった。くちびるは情けなく震えていた。真夕は首を傾げて何か言いたそうにしていたが、隼人はそれを拒んだ。




 十六年前の夏――隼人と綾女は高校一年生だった。東京の中学高校と進学した隼人は、夏休みのたびに実家に帰っていた。この頃には地元の同級生とわざわざ会う約束をしたりせず、休みのすべてを綾女との時間に費やした。


 二人の間で「付き合う」という約束事はしていなかったが、お互いを恋人だと認識していた。東京で勉強に励む間も、綾女が恋しくてたまらなかった。幼い頃から抱いていた家族のような親近感をこえて、二人は繋がってしまった。


 その年の秋、体育祭に学園祭に忙しくしている最中、綾女が妊娠したことを知った。電話をかけてきたのは隼人の母だった。綾女の母替わりだったこともあり、彼女の体調の異変に気付いてすぐさま産婦人科に連れて行ったらしい。今は七週目でつわりで苦しんでいる、ということを電話越しに聞いた。


 現実だとは思えなかった。電話口にいるのは母ではない誰かで、自分の未来を陥れようとしているのではないかと考えた。日常生活の遠い遠いところにある現実と、翌日に学園祭の打ち合わせをすることになっている現実とが、交じり合わなかった。

 電話口で呆然としていると、母が唐突にこう言った。


「中絶するけど、それでええんやね?」


 本当は前後に何か説明していたのかもしれないけれど、その言葉しか記憶に残っていない。目の前が真っ白になって、ついていたはずのテレビの音もかき消えて、母の声だけが頭の中で反響していた。


 どれくらい時間があったのか定かではないが、隼人はこっくりと頭を垂れた。母が何度も返事を催促してくるので「それでいい」と言った。ほかに何と返せばいいか、皆目見当もつかなかった。


 それから母は「いっぺん帰ってきて、綾女ちゃんと話しなさい」と言った。それに対して自分は「忙しいから無理」と答えた。電話口で母は怒っていた。情けないことを言ってないで男らしくちゃんと謝りなさいみたいなことを繰り返し言われた。

 今ならそれは当然のことだと思える。けれどあの時は、心臓が縮んだまま一生戻らないような気がした。綾女にかける言葉のひとつも思いつかなかった。


 ただ、逃げた。その年の瀬も、年始も、次の春も夏も冬も――綾女から逃げ続けた。




 それ以来、三十二になるまで一度も実家に帰らなかった。母が東京に来ることはあっても、隼人がこの土地を踏むことはなかった。子供を堕ろした綾女がどうやって生きてきたか、母が語る言葉にはすべて蓋をした。何度となく帰郷したくなることはあったが、この土地に自分が生きる場所はないのだからと諦めた。望んだ未来を失った状態で、ずっと生きてきた。


 母が病死して帰らざるを得なくなったとき、一番怖かったのは綾女に会うことだった。逃げた自分を許しているわけがない。けれど母の死を看取ってくれたこともあって葬式で顔を合わす覚悟はしなければならなかった。


 予想に反して、彼女は笑顔で迎えてくれた。不摂生な生活でやつれた自分の世話も焼いてくれた。信用ないのは当然のことなのに、娘を預けてくれた。


 彼女の心の奥に潜んでいる本当の感情と対峙すること――それが何より怖かった。


「お母さんも心配してるだろうし……帰ろうか」


 真夕の頭に手を乗せると、真夕は「兄ちゃんの怪我も心配やしね」と笑った。その無垢な笑顔に少し救われた気がして、隼人は携帯電話を取り出した。


 綾女も探している最中なのか応答しない。何度もかけなおしたが留守番電話に切り替わってしまった。真夕が見つかったことを吹き込んで、ため息をつく。


「一度家に戻るって行ってたから、俺たちも行こうか」


 隼人がそう言うと、真夕はリュックサックを背負って「こっち!」と先導してくれた。ときどきふりかえるその横顔に、幼い頃の綾女を思い出す。恋心を抱かなければ、今でも仲のいい幼なじみとして同じ土地で暮らせただろうか、と考えてしまう。


 以前の風景を思い出せないくらい、街並みは変わってしまった。空の色も違って見える。遊びなれた河はすっかり水量が減り、あの頃の面影はない。すぐ前を歩く真夕の存在こそが、綾女と元の関係に戻ることはできないと物語っていた。

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