計算
泥を落して居間に上がると、真夕は慣れた手つきで麦茶を入れてきた。「あーもう、なんでこんなとこにあるんよ」と小言をつぶやきながら棚の上に置かれたハサミやらペンやらを元あった場所に収めていく。
母親よりずいぶん几帳面なんだなと思うとおかしくなって、ひとりで笑ってしまった。
「今、うちとお母さんのこと、比べたやろ」
じっとりとした視線で睨みながら、リュックサックから夏休みの宿題を取りだす。小学校一年生とはいえ、女はあなどれないなとひるんでいると、真夕は鉛筆のキャップを抜いて言った。
「ええねん。おばあちゃんもうちのこと、お母さんにそっくりやって言うてたから。そんで隼人兄ちゃんは、おじいちゃんにそっくりなんやって」
そう言って仏間に飾ってある父の遺影を指さす。堅物で苦手だった父が、黒い額縁の中におさまっている。三十二歳の隼人の前でカラカラと笑っていた人物と、うまく重ならない。
自分は父の何を知っていたのだろうと考えると、後悔ばかりが押しよせてくる。
「うちは隼人兄ちゃんの方がかっこええと思うよ」
サラリとそう言うと、真夕は机にむかい始めた。隼人は「それはどうもありがとう」と言いながら、仏壇の前に備えてあったクッキー缶をひきよせた。ふたを開けて真夕の前にさし出す。
「お母さんには内緒のおやつ。お昼前だから少しだけ」
「ふふ、ふたりの秘密やで?」
真夜は目を輝かせながらイチゴジャムの入ったクッキーをほおばった。言葉遣いは多少ませている気もするが、おやつを食べる姿はそこらの七歳の子となんら変わりない。
「お腹が痛いのは、もう治った?」
何の気なく隼人がそう言うと、真夕はきまずそうにゆっくりうなずいた。
「学童に行きたくなかったのは、何かわけがあるのかな」
隼人が胡坐を組んでむかい側に座ると、真夕はちゃぶ台に目線を落した。開いたままの夏休みのプリントの上で、視線を彷徨わせる。
「……だって、おまえは引き算もでけへんのかって、バカにしてくる子がおるから」
「君と同じ一年生?」
「そう。その子は塾に行ってて、もうかけ算もできるねん」
肩を落とす真夕を見つめながら、隼人は息を吐きだした。人を馬鹿にするために先取り授業をしているわけではない、と心の中では思うが、真夕に言っても仕方がない。
一年生のうちにかけ算ができて、たとえ同級生を見下せても、大人になった時に何をするかで人生は大きく変わる。小学五年のときから叔父の支援もあって進学塾に通いだした隼人は、自分もそんな態度を取ったことがあるかもしれないと思うと、耳の痛い話だった。
隼人は真夕を見てゆっくりと言った。
「かけ算は二年生になればできるようになる。それで問題ない。まずは引き算からできるようになろうか。真夕ちゃんが苦手なのは、どういう問題?」
プリントに手をのばすと、真夕は目を丸くしたままページを繰っていった。
「んっと……こことか。お母さんに聞いたけど、なんでわかれへんのかって怒られてしもた」
真夕がさしたのは「7‐3」という問題だった。一応丸はついている。
「あとこれ、毎日やらなあかんねんけど、持ってたら指が使えへん」
真夕はリュックサックの中からカードの束を取りだした。それは算数セットの中に入っている「計算カード」だった。どうやら一桁の足し算と引き算の問題を大きなリングでひとまとめにしているらしい。ついでにさし出されたプリントを見ると、一回目の計測が「三十分」になっている。二回目が「十七分」だ。その後も十分代がほとんどで、綾女もよく付き合ったなと思うが、これはなかなかの難敵だ。
「先生は一分以内が目標やて言うけど、そんなん絶対むりや」
そう言いながら、真夕は涙ぐんでいた。カードをめくりながら、隼人は言った。
「今から魔法のカードを作るから、それで特訓しよう。夏休みが明ける頃には必ず一分以内にできるようになるよ」
「魔法のカード?」
涙をためた瞳をこちらにむけてくる。隼人は厚紙を取りだすと、それを手のひらサイズに切って丸をふたつ書いた。ひとつは白丸、もうひとつは黒丸だ。
「これは『いちといちで、に』って読むんだよ。一緒に言ってみよう。さんはい」
隼人がカードを見せてうながすと、真夕は調子を合わせて「いちとーいちでーに!」と声を出した。次のカードには丸を三つ書く。今度は白丸がひとつと、黒丸がふたつだ。
「はい、次いくよ。いちとーにーで、さん!」
真夕も続けて声を出す。白丸がふたつ、黒丸がふたつのカードを見せると、「そんなん簡単やん。にーとーにーで、よん! やろ?」と得意げに答える。白丸が三つ、黒丸がひとつも難なくクリアだ。
その調子で丸の数を増やしていくと、白丸が三つ、黒丸が四つになったあたりで真夕の調子が落ちてきた。
「さんとーよんでー……んんと、いちにいさんしー……なな?」
ついに指を使って数えはじめた。やはり彼女の苦手は「5」を越えたあたりから発生するようだ。これは算数を始めたばかりの子供によく見られることで、数の概念がまだ身についていない。何の問題もなく「7」と答えられる子もいれば、真夕のように「5」を越えた途端に止まってしまう子もいる。ここをクリアしなければ引き算もできるようにならない。
「そう。3と4で7、だ。これをおぼえれば、『7‐3』も簡単に解けるようになるよ」
「ええー……言うてる意味わからん……」
「そのうちわかるようになるから大丈夫。さあ、続きをいこうか」
カードを見つめて意気消沈する真夕にも手伝ってもらいながら、次々にカードを作っていく。厚紙を同じ大きさに切るのが真夕の役目、丸を塗りつぶすのは隼人の仕事だ。
最後に白丸九つ、黒丸ひとつのカードを作ると、全四十四枚のカードを真夕に手渡した。
「これは『いくつといくつカード』って言うんだ。計算カードをやる前に、かならず何度か読み上げる。最初は「1と1で2」の順番どおりでいいし、慣れたら逆から読んだり、シャッフルしてどのカードからでも読めるようにするんだ。全部頭に入った頃には、計算もスラスラできるようになるよ」
「ええー、こんなんでホンマにぃ?」
疑り深くカードを眺めながら、ぶつぶつと読み上げている。真夕の調子に合わせながら隼人も声を出す。小さい声では意味がない。はっきりと読み上げるほど、脳の記憶に残る。
「なんか隼人兄ちゃん、学校の先生みたいやな……」
読むのが疲れたのか、頭をちゃぶ台に乗せて真夕がつぶやく。隼人はふと我に返って、苦笑いをする。
「うんまあ、塾で先生やってたからね」
「ホンマに先生なんや。すごいなあ。今日は塾お休みなん?」
「東京で働いてるから、おばあちゃんのお葬式のためにお仕事休んで戻ってきたんだよ」
「へえぇー東京の塾の先生なん……えらい人なんやなあ」
真夕はちゃぶ台に頭をのせたまま、うっとりとそう言う。彼女の言う「えらい人」の基準がどこにあるのかよくわからないが、「わかりやすい」と言ってもらえたことが素直に嬉しかった。
カードを手に取って、夢中になって教えていたことに気づく。子供が真剣になって取り組んでいると、こちらも時間を忘れて付き合ってしまう。
「隼人兄ちゃん、ありがとう。うち、毎日がんばるわ」
真夕にそう言われて、あんなに仕事を辞めたいと思っていたのに、消えかけていた喜びがまた胸の内に湧いてくる。子供たちの「がんばるから」という思いに応えたくて、寝る間も惜しんで指導方法を苦慮していた日々が蘇ってくる。
「さあ、それを何回か読んで、計算カードのタイムを計ったらお昼にしようか」
胸の奥からにじみ出してきた喜びをかみしめながらそう言うと、真夕は体を起こして「いちとーいちでー」と読み上げ始めた。瞳の輝きを取り戻した彼女を見つめながら、勤め先の進学塾で受け持つ生徒たちの顔を思い浮かべた。
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