3.逃避

真夕

 翌日の朝、庭掃除をしていると、垣根のむこうに綾女の姿が見えた。これから仕事にでも行くのか、あわただしく自転車を出しながら誰かに話しかけている。


 母の葬式以来、彼女の父親の姿を見ていないなと思いながら様子をうかがっていると、綾女のあとをついてくる女児の姿があった。

 前髪を眉の上で切りそろえ、ボブカットにしている。どことなく綾女の小さい頃に似ているな、と考えていると、女の子は自転車の籠にすがりつきながら言った。


「お母さん、今日はどうしても学童行きたない」

「そんなん言うたかて、おじいちゃんおらんねんから、しゃあないやろ」


 綾女はなだめるように言いながら、自転車を押し出す。門扉の外に出たところで、隼人と目が合った。


「あ、隼人おはよう。ほら、真夕まゆも挨拶しいや」

「……オハヨウゴザイマス」


 渋々といった様子で隼人に頭を下げる。隼人は軍手を持ったまま呆然と女の子を見つめる。


「その子……おまえの子供か?」

「娘の真夕。離婚してからは、おばちゃんには世話になってたんよ」

「子供がいるなんて知らなかった……」


 そうつぶやくと、真夕は訝しげな顔でじっと睨んできた。その姿に、昨日見た小さい隼人と綾女の顔を思い出す。夢にしては、生々しすぎる記憶だ。

 気を取り直して、額の汗をぬぐう。


「初めまして、丹羽隼人です。おばあちゃんが、君のお母さんのお世話になりました」


 塾で自己紹介するときの調子で、隼人は頭を下げる。

 しばらく瞳を見開いていた真夕も、自転車のうしろから姿を見せて、ペコリと頭を下げる。


「……宮原真夕です。一年生です」


 その姿を見た綾女がほっと息を吐く。母子ふたりで暮していると気苦労も多いのだろうと、少し疲れた彼女の表情を見て隼人は思う。


「あ、もしかしてお葬式にも来てくれてたかな。お焼香のときに、おじいちゃんと手をつないでたよね」


 隼人が身をかがめて話しかけると、真夕はさらに大きく目を開いて、こくりとうなずいた。


「……うち、おばあちゃんのこと好きやったから」

「そうか……きっとおばあちゃんも君が来てくれて喜んでたと思うよ。どうもありがとう」


 孫のいない母が「おばあちゃん」と称されることにくすぐったさを感じながら、隼人は小さな頭をなでた。透き通るような頬の上に、涙が一滴こぼれ落ちる。


 わずかに胸が震えて、隼人は彼女の涙をぬぐい取ろうと手を伸ばした。しかし自分の手が泥に汚れていたことに気づいて、苦笑いしながら引っこめる。


「親戚の子供かと思ってたよ。まさかおまえの娘だとは思わなかった」

「隠してたわけと違うで。お葬式のとき、隼人かなりしんどそうやったから、あとで紹介しよと思ってたんや」

「ゆうべはこの子、どうしてたんだ? 大輔たちと飲んだ時もひとりで留守番してたのか?」

「お父さんとこに預けたに決まってるやろ。昨日は三十分で引き上げたし、飲んだときはそのまま実家に泊まってたんや。うちかて飲みたいときくらいあるわ」


 眉を吊り上げた綾女がなんだか責め口調になってきたので、早めに謝ってこの話題は切り上げることにした。


「今から仕事か?」

「そうなんやけど、この子がお腹痛いから学童行きたないって言いだして。お父さんも留守みたいやし、うちもこれ以上仕事休めへんし、児童館まで送って行こうと思てたんや」

「いややー今日は休むー」


 綾女が言い終わるのを待たず、真夕は言葉をかぶせた。小さな手で自転車の荷台をつかんでグラグラと揺すり始めたので、綾女は「こらっ!」と声を上げた。


「もうお母さんを困らせんといて?  おじいちゃんおらんから、学童行くしかないやろ」

「それやったら、ひとりで家におる!」

「今日は五時まで帰られへんのや。そんな長い時間ひとりにはできん!」


 それでも真夕は「いややー」と言い続ける。そのうちに本当に腹痛が襲ってきたのか、自転車の後輪あたりにしゃがみこんでしまった。


「病院……連れて行った方がいいのか?」


 隼人が真夕を見下ろしながらそう言うと、綾女はため息をついた。


「何かの病気ってわけやないんや。家に帰ったらケロッと治ってまうから。ああーもう仕事に間に合わん……」


 苛立った綾女が腕時計と真夕を交互に見る。真夕はリュックサックを背負ってしゃがみこんだまま動く気配がない。


 隼人にも覚えがある。友達とケンカをして翌日学校に行こうとすると、腹の奥に鈍い痛みを感じる。母に訴えても受け入れてもらえず、ぐずっているうちに本当に痛くなってしまう。結局、父に怒鳴られて学校にむかい、上手く仲直りができればケロリと治ってしまう。


 真夕も仮病ではなく本当に痛いのだろう。綾女もそのことをわかっているから、無理強いもできないのだ。


「よかったらうちで預かろうか?」


 隼人がそう提案すると、綾女は変な声を出して空いている手をふった。


「あっ……あかんアカン! 隼人に迷惑かけるわけにはいかん!」

「この子、母さんと仲良かったってことは、うちに来たこともあるんだろ? 奥の部屋は散らかったままだけど、昨日大輔がきたおかげで居間と台所は片付いてるからさ」


 そう言いながら、隼人は苦笑する。大輔はあのでかい図体に似合わず、潔癖症なところがある。テレビの上に積もったほこりやシンクにたまった食器が許せないと言って、酒を飲むより先に掃除を始めてしまった。目に見えるほこりを粗方落してから酒を酌み交わしたが、どうにも落ち着かない様子で片づけを再開し、ビール片手に男二人で掃除をするというおかしな飲み会になってしまった。


「まだ散らかってる部屋もあるけど、君がいやじゃなければ、どうぞ上がって行って」


 そう言って小さな肩に手を置くと、真夕は顔を上げた。自転車を支えている綾女は「アカン」を連呼している。真夕は母親の顔を確認したあと、隼人の瞳をのぞきこんで言った。


「そしたらうちがお片づけ手伝ってあげる」

「よし、決まり」


 隼人が立ち上がると、真夕も素直に従った。腹の痛みはどこへやら、スッキリとした顔でうしろからついてくる。


「……ほんまにええの?」

「かまわないよ。ほら、仕事間に合わないんだろ。早く行けよ」

「……ありがとう。休憩時間に一回戻ってくるから」

「いいってば。俺ってそんなに信用ない?」


 ここ数日の不摂生な生活を思い返せばそれもそうか、とため息をつくと、綾女はきゅっと口を結んで頭を下げた。


「……よろしくお願いします! お弁当はリュックに入ってるから! 真夕、隼人兄ちゃんに迷惑かけたらあかんで。ちゃんと宿題しとくんやで!」


 綾女はそう声を上げると、すばやく自転車にまたがって走り去っていった。真夕とふたりでのんびり手をふりながら、夏の朝日をいっぱいに浴びて走っていくうしろ姿を見つめる。


「よろしくお願いします」


 家の門扉をくぐろうとしたところで、真夕が頭を下げた。隼人も調子を合わせて「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げる。引き戸を開けようとして、ようやく軍手を持ったままだったことに気づいた。


「庭掃除の途中なんだった。真夕ちゃん、先に家に上がっといて」

「うちも手伝う。おばあちゃんと一緒にお花のお世話したことあるから」


 はっきりとした口調で真夕は言う。先ほど母親の自転車のうしろでごねていた子供とは別人のようだ。


「じゃあ花は真夕ちゃんにお願いしようかな。宿題はどうする?」

「うーん……お昼ごはんの前にやりなさいって言われてるけど」

「よし。じゃあ庭掃除は十一時に切り上げて、それから宿題をやろう」


 庭の中に招き入れたとたん、真夕の目の色が変わった。草をかきわけてじょうろを見つけ出すと、「お水あげるから待っててなー」と水道の口をひねった。ここで母とふたり、花の世話をしていた姿が目に浮かぶようで、胸が苦しくなる。


「隼人兄ちゃん、お水あげるのさぼってたやろ」


 突然、口調が強くなった。名前を呼ばれたことにも驚いて体を固くしていると、綾女と同じ調子で眉をつりあげてつめよってきた。母と綾女と真夕と、女三人でそんな呼び方をしていたのだろうかと、不在だった時間が切なく思えてくる。


「あ……いやまあ、ね」


 じつは全部処分するつもりだった、とは言えず、隼人は言葉を濁した。家主のいなくなった庭は夏の暑さに負けてしおれている。そこへ真夕が丁寧に水を撒いていく。そこもあそこも抜いてしまうつもりだった、危機一髪だ、と胸をなでおろしながら、じゃまにならないように隅で枯れ葉をかき集める。


 真夕に水を与えられた花たちが、少しずつ生気を取り戻していく。彼女は何度も何度も水を汲んで、雑草とも見分けがつかない小さな花々に活気を与えていく。乾ききっていた庭の土は湿り気を帯び、大地のにおいがわき立ち始める。


 真夕が満足そうな微笑みを浮かべるたびに、風に揺れる柿の木も、うるさいだけだったアブラゼミたちも歓喜の声を上げているように思えるから不思議だ。


 小さな闖入者のおかげですっかり生命の息吹を取り戻した庭は、夏の陽光をいっぱいに浴びて輝き始めた。

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